GYPSY QUEEN ROAD TO ASIA #12 Vientiane song
Laos Vientiane




An Asian jewel
アジアの宝石。僕はこの町に降り立ちそう思った。この国の誕生の歴史は600年ほど前にさかのぼる。14世紀。ランサン王国が建国され首都ルアンパバンは繁栄の時を迎える。当時のヨーロッパとの交易により東南アジアでもっとも美しい街と呼ばれ、豊かな自然と人の往来が国を輝かせた。しかし、その時代は長く続かず、王位争いなどによる国力の衰退はフランスの植民地化時代を迎え、国名もラオス(ラオ族の国家の集まりの意)と定め、現在のラオスの原型となる。その後ベトナム戦争など悲惨な時代を越え現在に至る。首都ビエンチャンはフランス植民地時代の名残を残す町並みと仏教の影響による寺院が多数建立され、西洋と東洋の文化の融合が感じられる街だ。

国の中央を流れるメコン河はチベット高原を起点にラオス、タイを抜け、カンボジア、そしてベトナムを経て南シナ海に注がれる。全長4500km近くに達する大河が国内の北から南へ縦断する。メコンなくしてラオスを語ることはできない。この国々の生命の起源でさえある大地の賜物、メコンは今日も悠々とそして豊富な水量を保ち静かに流れ落ちて行く。

もともと、ラオスは2003年の日本・ASEAN年という政府事業の一環としてASEAN tourを行った時に訪れた一国だった。ブルネイでの公演を終え僕らはラオスに入りそして、そのあとマレイシア、シンガポールと旅をした。その中でなぜか一番心に響いた国、それがこのラオスであった。ラオス公演の時に僕らのASEAN公演のスタイルは確立した。といってもあらかじめ考えていたことがいきなり変わるわけもない。それには理由があった。ラオスに到着してすぐにあふれんばかりに入る情報。それはすべてラオスに住まう人からの情報だった。大使館の人、現地のコーディネーター、ラオス政府の人。それらの人が入り乱れて直接僕らにラオスを植え付けていった。今こうしてそのときの苗木は大きな木となり育つ。栄養不足に陥りそうになっても、日本にいるラオス好きのコミュニティや在日ラオス人、留学生の多大な協力が僕らを育ててくれた。そして、今こうして二年の月日を経てもう一度ラオスに帰る時が来たのだ。偶然の産物であったラオス独特のステージ演出も今ではその意図と意味が理解でき、カタカナで書いたラオス語は今やラオス文字を用いた資料となって目の前に置かれる。確実に育った日本産チャンパーの花は今こうしてラオスに再び持ち込まれるのである。※チャンパーの花(ラオスの国花)


Road to Vientiane
出発の夜。僕らはごくごく普通の賑わいの成田空港にいた。スムーズにチェックインし、ANAの搭乗ゲートに向かう。メンバー一同非常に軽装かつ気楽モードである。でも、今回は中国ではない。現金はドルやバーツ、キップだし、通貨基準も違う。チップが必要な習慣もありまた、時差も日本とは二時間ある。そして何よりも最初の到着地バンコクまで6時間かかるという旅だ。でも、それを認識しないメンバー。誰一人ドルを持っていない。まあ、そのこだわらないところがGYPSY QUEENの良いところでもあったりするがちょっとだけ自分を含めて反省。まあ、いい。行けばなんとかなる。そして僕らは天空の人となる。

さあ出発!

長い旅。窓の外はもう、かなり前から暗く景色も何もみえない。2時間弱、国内上空を飛び東シナ海に入ると夕食の時間だ。覚え切れていないラオス語がなかなか眠りにも付かせてはくれない。ブツブツ独り言のようにラオス語を繰り返す。言葉の意味はとても重要で即効性のドリンク剤のようにこの時間の勉強は身になるものだ。機体は台北上空を飛び、安定飛行に入ってきた。周りはみんな寝ている。こんな機内の中でレポートを書いている僕。空調の音にキータッチの音だけが響く。しばらくするとアイスクリームが配られる。さっきまで寝ていたしのんがいきなり起き出した。あっという間にオレンジアイスを平らげ、その視線は僕のアイスに向いている。危険だ。

機体は高度を下げ始めた。成田を出て早6時間。中国と異なり遠い。北京なら往復できた時間だ。24:50.現地時間22:50バンコクドンムアン空港に到着。暑い。でかい。雑然としたこの広いハブ空港。ゲートを出るとこんな時間であるのにものすごい人。人!タクシーやらホテルやらたくさんの人が客を待つ。活気あふれる、としか言いようがない。この雰囲気は久しぶりである。今日の宿泊場所はミラクルグランドホテル。空港近くのホテルだ。迎えに来てくれたホテルの人とバスに乗り込み最初のバンコクを体験。そういえば以前着いたときも空港での乗り継ぎだけで、タイに入国したのは今回が始めてである。ものすごい勢いでバスは飛ばしおよそ10分。ホテルに到着。とってもきれいなホテルで部屋も超豪華。乗り継ぎに泊まるにはもったいないほどの立派なホテルだ。明日の予定などを確認して解散。2:00就寝。ツアーは始まったばかりだ。


会いたい人に今日会える
5:00起床.そして6:00にロビーへ。朝からやたら陽気なポーターに荷物を持ってもらいバスに乗り込む。みんな、「こんにちは」とか「ありがとごじゃいます」とか日本語で話しかける。ここタイは親日の国家だ。6:30空港でタイ航空TG690便にチェックイン。ここもスムーズにすすむ。なんといっても今回は荷物について十分に準備を重ねた。事前に機材だけではなく手荷物、預ける荷物の重量を確認する。だいたいではない、「○○kg」というところまで確認をした。わからないということはない。準備を怠って現地で時間をとられるほど僕らには余裕はない。すべて事前検証済み。だから、おかげで成田でもここバンコクでもチェックインはスムーズだ。音楽の世界はルーズがかっこよいとされがちな世界。でも、それは完全に間違いであると思う。だれか第三者と接した場合、自分たちのアイデンティティはまったく関係ない。他人に迷惑をかけることをよしとする民族はいない。自分たちのことを完璧にしなければ人にお願いはできない。自分たちの完成度を上げる事がいざという時に人に協力を依頼できるのであって、なんでもかんでも「音楽以外は人任せ」というやり方はこれからの社会で通じないだろう。人間として十分な資質をバンドには求める。それがGYPSY QUEENのあるべき姿でもあると思う。人はみんな平等なのだから。

出国税の500バーツを支払い、搭乗ゲートへ。8:00ちょうどにバンコクを飛び立つ。しばらくすると脳みそのように蛇行する山々と茶色い大地が見えてきた。この豊かな農業風景を見るとその国の今がわかる。今この真下に過ごす人たちはどんな表情をして生きているのだろう。いつか会ってみたいと思う。結構手荒な操縦でなんどか緊張モードに入ったが(ほかのメンバーは寝ていて気づかない程度ですが)メコンの曲がりくねった流れも見えてきて、ラオス領空に入る。ほんの数十分でビエンチャンワッタイ空港へ。

ラオス航空に乗り継いでビエンチャンへ

9:30。成田を出て数十時間。僕らは二度目のVientianeにたどり着いた。降りた瞬間にむっとする暑さ。これがVientianeだ。日本大使館の赤嶺さんがすでに迎えに来てくれていた。うっ、懐かしい。今回の公演にいたるまでさまざまな問題や予測できないトラブルにも見舞われた。それでもものすごい勢いで赤嶺さんがリードしてくれた結果、今日この日につながった。そんなものすごく強い赤嶺さんの目に涙。もう、そうなるとしのんは完全にだめで再会モードに涙する。人と会うのはうれしい。それが再会を約束した人で、その約束が守られた時には格別にうれしい。最初に会いたい人が目の前にいる。僕らが好きになったラオスは間違いなく“人”の影響が大きい。この国にいるこの人、この人たちが僕らの気持ちを動かす。音楽の演奏自体はデリケートだ。気分が乗らないといい演奏もアレンジもできない。でも、いつもリハーサルでは僕らはハイテンション。なぜか?それはこの国で会いたい人とビアラオを飲むことを楽しみにしているからかもしれない。あのどこか旧フランス文化ののこる街角のカフェでスコールに見舞われながら飲む冷えたビアラオを思い出して。

空港から市内へ向かう道は2年前と比べてものすごく整理されていた。ややもすると前回感じたノスタルジックな部分が少しだけ欠如したかもしれない。でも、旅人は勝手だ。そこに住む人にとっては整備されるに越したことはない。風景は絶えず進化している。中国ほどの急成長は見られないが確実に住みやすい町に変わっているのだろう。会場近くの町並みもちょっとだけきれいになっているが、街角の雑貨屋も、なんだかとってもおいしそうなフルーツジュースの店も二年前と変わらない。空はとほうもなく青い。またこの町に戻ってきた。これといった観光名所もないビエンチャンだがそれでもリピーターが多い町として有名な町でもある。この街には人をひきつける何かがあるのだろう。今日から3日間。それを感じることができるだろうか?


レセプション
ホテルに到着していろいろ準備でお世話になったスタッフの西村さんと話をする。「今回はいろいろありがとうございます」「いえいえ、GYPSYさんは本当に楽なんですよ。やり方がわかってますし、みんな安心してできるって言っていますよ」そう言われるとうれしい。一緒にものを作るのだからお互いが納得して気持ちよく仕事ができるのが一番だ。ホテルに入るとノイが待っていてくれた。メンバーのために手作りのマリーの花のかんむりをプレゼントしてくれた。その花の美しいつぼみはノイそのものでラオスにきていきなりいい気分になる。

マリーの花飾り

チェックインをすませて11時には会場に向かった。会場に到着するとすでにきちんとセットが用意されていた。そして、キーボードスタンドも用意されている。ん?ないと思ったから日本からわざわざ持ってきたのに。とがっくり。もちろん、ここにある事は嬉しいのだがこういう機材のあるなしリストについてもうすこしきちんと確認することができればもっと快適になると思った。すべて確認をして準備万端だと思っていたがまだまだ詰めは甘かった。現地スタッフも「何故あるのに持ってきた?」という顔をされてしまう。メンバーに重い荷物を持ってこさせたバンマスの立場としては面目丸つぶれのワンシーンである。

会場のナショナルカルチャーホール

スタッフを交えてさっそく打ち合わせにはいる。今回のPA関係をつかさどるのはこちらVientianeでプロモート活動を行っている諸富さん。音響のエンジニアのアナンはアジアの著名アーティストの公演のほとんどを手がける腕利き。確かに話も早い。それでも慎重に準備を進める。この布陣をみてすぐに安心できた。今日できることは今日やっておいたほうがいいし、急にこうしてくれ、というオーダーは得てして多いものだ。リハーサルが開始されるとまずはモニターの問題が出てきた、良くあることだが歌う人の足元にモニターがないことがアジアでは良くある。ロックというジャンルの音楽が普及していないせいだとおもうが、クラッシックとは異なり、音量の大きいロックのコンサートでは足元にモニターがないとまったく自分の音が聞こえない。日本ではあたりまえのこともここでは説明をしないといけない。「そこじゃない、ここにおいて、違う、もっとそばに」と指示を出しつつ現地スタッフとのコミュニケーションは続く。たどたどしくもリハーサルは順調に進み一段落。休憩の合間を縫ってすかさず20ドルを赤嶺さんに換金してもらう。なんと22万キップにもなる。大金をもって買い物にいくとビール一本が7500キップ。となるとおよそ75円か。いつもビールの値段でその国の相場を理解する僕らだが、北京より高くて香港より安い。といった感じであるだろうという物価予測であった。

街中にはコンサートの広告がたくさん。

リハーサルも順調に進み、大使公邸でのレセプションに向かう。今は乾季のためメコンの水量は雨季よりも10mほど少ないということであった。それでも大河には変わりない。そんな河に見ほれていると「そろそろ始まりますよ」と呼ばれて会場へ。レセプションでは桂 在ラオス大使をはじめケッゲオ・ソーイサィヤ ラオス情報文化省副大臣、ポンサワット・ブッパー外務省副大臣などの列席もあり大変盛り上がったものになった。英語でのスピーチにちょっと緊張。たどたどしく挨拶を終えてほっとした後パーティに入った。たくさんの人々が来ていていろいろ話ができればと思った。ただ、あまりにも大勢の人がざっくばらんにいるのでなかなか思うように話ができない。途中、国営ラジオのゲストトークの収録もあり、ますます時間もなくなりそろそろお開きの時間がきてしまった。「しまった」そう、この日、この場にいる人たちに感謝の気持ちをこめて「ビアンナイファン」のアコースティックバージョンを今日のお客さんのためだけに演奏しようと思っていたのにできなかったのだ。この曲の意味はタイトルのビアンナイファン(心の中のビエンチャン)の言葉通りでビエンチャンを訪れた人がその美しさを語る歌だ。明日はロックバージョンなのでしっとりとしたアコースティックバージョンを聴いてもらいたかったのでちょっと残念。でも、それを最初に赤嶺さんに伝えていればコーディネートしてもらえたとおもうし、言葉足らずの自分を悔やんだ。

大使館でのレセプション

宴は賑わいの内に終了し、また、大使館の方からも格別の好意を頂きメンバー一同今回の公演の重要さ、尊さを知らされる。世の中には割り切って考えられないことが多く、それはそれでうれしいし人間的に美しい。心を一つに合わせてみれば確実な成熟された成功につながるであろう。静かなる決意の元、ホテルに戻った僕らは近くのコプチャイドゥに場所を移す。明日のためにいろいろ準備しなければいけない。そのためには現地の状況を知ることが一番であり、2年間の隙間を埋めることは非常に重要なのだ。明日の公演、どうすればすべてのお客さんに満足してもらえるか、という演出のつめの話が続く。

Cafe コプチャイドゥ

一生懸命に頭を使う僕。限りなくのどを潤すマサオ。ビアラオにもほどほど酔った頃ステージからセッションのお呼びがかかった。こんなときに最大級の力を出せるのは「THE MASAO」しかいない。案の定、言われるまでもなく彼はステージに。当然初めてあわせる人たちとのセッションだが、セッションなんていうものは大体そういうものだ。予定調和はなく、いつでもリカバリーの連続。だからこそ面白いし、こういった他流試合での強さは絶品、と我がメンバーながら頼もしくも思えた。それにしてもここラオスのバンドはかっこよかった。クラプトンのナンバーをちょっとハードフュージョン風にアレンジしており、もう大音量でお構いなしにやる。この店でゆっくり話そうと思ったらそれは至難の業だろう。こんなところも2年前とはまったく異なっているのだ。僕らはホテルに戻り、恒例のミーティングに入る。今日一日の情報量は多く、日本から持ってきたセットリスト(曲順表)も早速変更になった。結局2時過ぎまで打ち合わせは続き、終わった後こっそりビールを買いに行ったマサオとマチャ以外は就寝。長い一日だった。


We are back
7:00起床。8:00にメインストリートのカフェ「スカンジナビアカフェ」に行き朝食をとる。いい感じのこのカフェ。さすがにオープンテラスで食べる根性はないがせっかくなので店内で食べることにした。

朝食。おいしかった。

ラオスの新聞Vientiane Timesには公演の広告も出ていた。ラジオでもオンエアされているということで明日の集客は問題ないだろう。そのあと会場に向かった。午前中のRHは思ったよりもてこずり、特に光とスモークを使った演出がなかなか進まずかなり時間が押してきた。それでも、最後まで良いものを作ろうと考えているスタッフに「もういいよ」とはいえない。見守るのは慣れてはいないがここは口を出さずお任せにするのが良いと思ったので、黙って見ていた。ようやく目処もついたところでランチタイム。今日は多少時間があるので、街中へ。メインストリートのSabaidee cafeに入る。ここの食事がなんともいえなくおいしくて、メンバーも大喜び。

かなり美味!

気分を良くして最後のRHに向かう。その後のRHも問題なく進みいよいよ公演を1時間後に控えた。ホテルも近いので一度部屋に戻りシャワーを浴びる。一日3回もシャワーを浴びるなんてなかなかないけれど本当にここは蒸し暑いのだ。正直、野外なら絶対できないなと思う。

会場前 バナーは英語とラオス語バージョンが

開演30分前、お客さんはどんどん入ってくる。今日も満員になるだろう。でも、今回のために用意したことは実を結ぶのだろうか?前回以上の反応を出すことができるだろうか?不安はよぎるが、それも口に出せない。ここまできたら現場のプレイだけがものを言う。19:45大臣が到着し、館内の電気は消える。幕の後ろから割れんばかりの歓声が聞こえる。アドレナリンは体を駆け回る。さあ、2年ぶりのLaotian達よ!待っていた甲斐はあったかい?

今回のライブの目的は3つある1.日本のバンドとしてロックの良さを伝える。2.コンサートでの楽しみ方を伝える。3.ノイとの熟成されたコラボレーションの実施。この3つだ。
あとはこれにそって全体構成のバランスをとっていけばよい。曲の分かれ目の部分がうまくいけば勝算は十分ある。ステージが進むにつれてお客さんの勢いもついてきた。「一つだけ夢を」の時にはちきれんばかりに手を振る人が見えた。そして、なんと外務副大臣も一緒に合わせてくれた。そんな嬉しいことの連続であっという間にステージは進む。しのんがシン(ラオスの民族衣装)をきて出てきたときに明らかに会場の温度が変わった。受けを狙ってきたわけではない。ラオスでコンサートをやるから敬意を表して着たこの衣装。今回の衣装はラオスの北部、ルアンプラバンの民族衣装だ。肌の白めの北部の人の衣装だから、しのんに合うだろう、ということでノイが選んでくれた。

ラオスの伝統的衣装「シン」

ラオス式のお辞儀をして客席に手を広げるとみんなしのんの腕の中に飛び込んでくるように前のめりになっている。演奏している曲はラオスの代表的な曲「クラパサン」。かなりロックなアレンジをしているがメロディを聞けばお客さんはすぐに反応した。サビの部分では立ち上がって興奮している人もいた。率直に嬉しい。この、今まで聴いたことのないアレンジでの伝統曲は「日本人ならではの解釈」として受け入れられるだろう。


リカバリー
途中、楽器のトラブルで僕は一瞬ステージを降りることになる。大切なステージなのに、と思って一瞬慌てそうになったがメンバーの好フォローによって何なく切り抜けることができた。これも今のメンバーの基礎能力のおかげだ。BASSが抜けても瞬間的にフォローができる。誰も心配そうな顔をしないし、それでステージ進行が変わるわけでもない。復帰する僕も踊りながらまるで演出の一部であったかのように復帰。思えば3年前、広州で、ライブの時にBASSアンプがならない時があった。あの時は演奏も始まらず、だれもリカバリーできず、結果としてバンドの名前を大きく落としたことがあった。中国を知り始めた頃のGYPSYと今のGYPSYとの差は確実にある。みんな強くなった。最後の曲を終えるとパンドゥアンチット・ウォンサー情報文化大臣と日本大使館の桂大使より花束を頂いた。とても嬉しかった。この国でがんばっている日本人の代表と会えるのは光栄だし、自分たちの音楽がラオスの人と日本との関係の中で少しでもプラスになればそれに越したことはない。最後まで見てくれていたVIPの方々にも本当はしっかりお礼を言いたかった。初日の公演を終え、とにかくシャワーを浴びてから食事。今日もビアラオを浴びるほど飲んで、ホテルに戻る。人との出会いによって成り立っていると言ってもいいこのビエンチャンでの日々。感謝の言葉しか出ない。ホテルでは演奏のVTRをみて明日への課題をチェック。全体的にスタートが押すために時間が長くなってしまうためセットリストを変更して準備する。それぞれの課題を持ち帰って部屋に戻る。今日と違う明日を作るために明日の幕があくまで進化を続けたい。

ステージ全景

Vientiane巡り
7時起床。公演二日目。二日酔い残る中会場へ向かう。9時から延々とミーティングを行うスタッフ陣。彼らも昨日の結果を今日、さらに進化させようと取り組んでいる。前向きであれば決めたこともどんどん変える。アイデアもどんどん出る。日本側のスタッフ、現地スタッフ、大使館。一緒に作っている仲間は皆平等で、リハーサル中の客席から、どんどん僕らに声がかかる。「ここをこうしたら」そんな連続で見る見る間に昨夜のステージはリニューアルされてくる。お辞儀一つにしても「足をぴょんとあげるのよ」「手はもっと下であわせて」みたいな作法を丁寧に赤嶺さんに教えてもらう。国には国の作法があり、きちんと礼を尽くす為にも「のり」じゃすまされないことを一つ一つ学ぶ。やっていても非常にアクティブで楽しい。お客さんが変わればプログラムは同じでいい。でも、それをこなすだけの公演は味気ない。毎日何かサプライズを。そして毎日見に来たくなる演出を。そう思う。

一段落して昼食の時間。今日は「黒塔」のそばのレストランに入った。一見ここはフランスのカフェ?と思うような感じのセンスの良いお店だ。違うのは価格だけ。激安。でも味はもう絶品。

ごきげんなメンバー

きっとラオスに訪れて食事をしたときにみんな思うに違いない。このクオリティの高い食事は日本だったら相当高いはず。しかし、若干おしゃれすぎてスープがでて何が出てというきちんとしたスタイル。あまり時間がない僕らにしてはちょっとこまった。マッサージにどうしても行きたいJUNはうずうずしている。結局食事をしただけで会場に戻る。数々の変更点を施した本日のプログラムも確定。あとは本番のみだ。

周囲も暗くなり、幕の外ではざわつきが聞こえる。かすかに見える客席にはお客さんがあふれ返っている。今日もいい演奏ができるだろう。前回より2年経った。あっという間の二年。同じステージに立っているから余計かもしれない。この二年の間に経験したことを、音楽を通してラオスの人たちに伝えよう。なぜ、またラオスに来たか演奏を聞いてわかってもらおう。確信犯的なラオス入りは理由があるのだから。

コンサートは始まった。昨日よりも年齢層が若く、席からたって手を振る人もいる。楽しい。そして、大使館の人たちに教わった演出もばっちりヒットする。ラオス語の曲は昨日よりも反応がよく、またオリジナルの日本語曲への反応も良くなった。しのんとまちゃのアコースティックの時も手拍子はやまない。ここがどこの国であろうと関係ないのだが、それでもこのラオスという国との出会いから今に至るまでの国に対するイメージはまた一つ大きく変わった気がする。

ラオスの歌姫 ノイ(noi sengsourigha)

後半、しのんとノイがVientianeを歌う。これは2003年ラオスに来て感じたことを綴った曲。それが今、ラオス人の前で歌われている。英語とラオス語で書かれた詞はお客さんに伝わっている。リフレインの「Vientiane〜」と叫ぶ部分はお客さんも一緒になって歌ってくれている。「もっと歌ってくれ、これはみんなの歌なんだ。Vientianeの人々を歌った歌なんだ。」この曲と共に始まったラオスへの道はこの曲で閉じた。少しさびしい気がした。できるならばいつまでもこの曲を終えたくない。そんな気持ちだ。

鳴り止まない拍手にアンコール。もちろん、ラオスの名曲「イエンサバイサオナ」だ。客席に下りて礼をつくすしのんへの表情はみな暖かい。再会を約束するかのように会場を練り歩く。客席に出てもいたずらをするような人や飛び掛ってくる人もいない。みんな紳士であり、まるでファミリーのように良い顔をして迎えてくれる。ついに僕もマチャも客席デビューを果たし駆け回る。(おかげで翌日は足ががたがたになったが)ステージに戻り曲はエンディングを迎える。ノイと抱き合うしのん、しのんにしがみつくノイ。二人の気持ちはきっと一緒だろう。

公演は大盛況のうちに

今日の本番前に、赤嶺さんが楽屋に来てこういっていた。「しのんさん、ドゥアンチャンピーさん(ドゥアンチャンピー・ウッティスック 情報文化省芸術局音楽・伝統歌マネジメント課長)が、Vientianeの前のラオス語の朗読は内容も発音もとっても良かった!ってほめてましたよ!今日も自信を持って!」。たしかに、このときはシーンと会場は静まり返っていた。この部分はどうしても入れたかった部分でなぜ日本人の僕らがこのVientianeという曲を書いたか、どういう思いでこのラオスに来たのか、ということを表明すべきであると思ったからだ。ちなみに内容は日本語だとこんな感じ「私がはじめてヴィエンチャンに来たのは2003年。ラオスには大きなメコン河という大きな河が流れている。ラオスに住む人々はみな優しく、大いなる自然も美しい。この国の美しさが永遠であるように私は望む。素晴らしき人々の住む街。ビエンチャンに愛を込めて。 ありがとう。」静かな客席。最後の言葉「コプチャイ」というと大歓声が返ってきた。神妙に聞いてくれていたところが誠実なラオス人を表現していると思う。

名残惜しくもVientianeの公演は終了した。終了後、ステージ前方まで押し寄せる人たち。

ファンの人たちと

いつまでも止まらないたくさんの人たちへのサインを終え、僕らは楽屋に戻った。みんな満足感にあふれている。きっとそれぞれのメンバーの中でいろいろな思いがあると思う。それはきっと良い思いであるとおもう。何かあなたの中で変わったことがありますか?音楽は人を変える。会場には最初からずっと準備をしてくれた裏方さんがたくさんいた。一人一人に御礼を言う。この人たちがいなければ何もできないし、安心してステージができるのはこの人たちの最初の一歩があるからだ。無口な彼らだが話し掛けていくと満面の笑みで返してくれる。「またきてください、ありがとう!」を繰り返される。言葉は待ってはだめだ。自分から行かないとね。だって感謝しているのは僕らの方なんだから。できることなら全員と打ち上げをしたい気分だ。それだけが心残り。そうこうしているうちに一通り片付けも終えてさあ、とりあえずビアラオだ!ビアラオ!

公演を作ってくれたスタッフのみなさんと

大切な仲間達がまた生まれた
初日にも来たレストラン「コプチャイドウ」に入る。まずはみんなで乾杯。本当に企画の最初からお世話になった赤嶺さん、ニ元さん、西村さん等大使館の人に感謝。そしてこのステージをつくってくれた現地スタッフに感謝。そしてメンバーとメンバーを支える日本スタッフに感謝。打ち上げはいつもさびしい。旅の終わりの鐘を打つように時は過ぎていく。しばらくするとこのお店で飲んでいたお客さんから「GYPSY QUEENがいる!」と言われてステージで演奏することになった。酔った演奏では?と思ったが最終日だしここは断る手はない。やる曲はもちろんVientianeだ。なんどかサビを繰り返していくうちにお客さんからも[Vientiane〜]と叫び声が聞こえてくる。そうだ、この曲はみんなで叫ぶ曲だ。誇り高きラオス人がVientianeにプライドをもって叫ぶ曲なんだ。

恐ろしく熱いステージはあっという間に終わり、もうその勢いで二次会に向かう。街中の本当に真っ暗なバー。蚊が多くてちょっと困ったが気にせず飲む。ノイは今回の出来事を夢のようだ、と言った。でも、これは夢ではない。リアルな出来事だ。夢ならば続きを見るのは難しいが現実なら努力次第で続きを歩むことができる。僕らは力を合わせていける。そういうとノイは何度も感謝の言葉を繰り返した。彼女の人生が少し変わったのかもしれない。よい方向に変わることができたのなら携わったものとしてとても嬉しいことだ。そして、語り足らない(飲み足らない)一行はビエンチャン中を探し回りようやく最後の店を見つけた。「ドンチャンパレス」。紛れもない、マレイシア人の作ったラオス最高級のホテル。このロビーのバーだけがやっていた。何時間話しても話題は尽きない。そして、そんな人がたくさんあふれている。そんな町に僕らは夢中だ。3時過ぎ。ホテルに戻る。こんな夜中もこの町は安全だ。今日でお別れの人たちと再会を約束。やはりさびしい。


本当の優しさ
昨晩、「朝8時ね」と約束したが激しい頭痛。これは絶対に無理。起きられない。約束を守らないのが大嫌いなのだが、今日はゴメンしてしまおう。と一度は電話をした。「ごめん、ちょっとつらいので9時で。。」でも、やっぱり起きた。寝るのは飛行機の中でも十分だ。でも、結果的に起きてよかった。この朝ご飯を一緒にノイと食べようとしたのだが、ノイの両親も来てくれたのだ。一緒に朝食を取ろうと車に分乗する。9時には出発なので時間はほとんどない。それでも、僕らのためにと猛ダッシュで街中を飛ばす。食事をしているとバーシーというお別れの儀式をしてくれた。ノイのお母さんが腕に白い紐を結んでくれる。「あなたの成功と幸せと安全を」。僕の左手首にまかれた白い紐を持ち、祈ってくれた。その姿はまるで仏様のようであった。思わず感動。なんだかとっても嬉しい。当然のごとくしのんは耐えられない。しのんが泣き出したらノイも泣き出し、ノイのお父さんまで泣き出した。しのんはこの日、ノイの両親の日本の子供になり、ノイのお姉さんになった。

ノイ、ノイのお父さん、しのん

ホテルに戻ると大使館の人たちも集合してくれていて、今回はじめての観光モードに入る。メコンを見に行ったり、ラオラオ(ラオスの焼酎)を買いに行ったり市場に行ったりした。あっという間二時間が過ぎてしまい、帰国の時間となった。11:30ホテルを出発。12時過ぎには空港に付きチェックイン。ここもスムーズに通過する。ノイの一家も見送りに来てくれていた。別れはつらい。今日、この日まで一緒にいつも連絡を取り合っていた人たちの大きな事業が一つ終了した。明日からこうも頻繁に連絡をとることはないだろう。それがさびしくて仕方がない。空港のレストランでは昨日の公演に来てくれていた人も多く、いろいろサインを求められたり、次にいつ来るか、ということを聞かれた。「もちろんまた来るよ!」そう、また来たい。僕らを待ってくれている人がいる町に!搭乗ゲートに進み、なぜか予定より10分早くフライトとなったラオス航空QV414便に乗り込む。なんと、プロペラ機。怖い。一番前のシートに座り、ふと窓の外を見るとプロペラが轟音を立てて回っている。すぐに動き出しあっという間に飛び立つ。プロペラ機のせいか、かなり高度は低いところを飛んでいて結構町並みなんかも見えたりする。メコン河に見送られて僕らはバンコクに向かう。


予感
ゆれる機内で機内食。落ち着かないうちにあっという間にバンコクに到着。ここで乗り継ぎ8時間。何もしないのはあまりにもきついので市内にいったん出ることにする。15:30炎天下のバンコク市内に到着。雑然とした町並みを歩き回り最後はスコールに見舞われて終了。うーむ、あまりよいイメージではなかった。まあ、タイ語がわからないのが一番のマイナスかもしれない。不意に立ち寄った町。今度来るときはもう少し予備知識をつけて来たい。19:30再び空港に向かい、まるでプールのようになった道を雷に追い立てられるようにバスは走る。20時に無事チェックインしてすべて終了。22:40。ANA954便にて一路日本へ向かう。深夜のフライト。かなり揺れる天候だったのでなかなか眠ることができない。昨日のVTRをみたりして過ごす6時間の旅。

思えば今回も過酷な旅だった。最終決定したのは出発のほんの数日前。いろいろ準備を重ねたが突発的な問題も多かった。それを乗り越えられたのもすべて大使館の人々、そして協力してくれた日本人、ラオス人あってのことだった。自分達だけではどうにもならないことを実現させてくれた全ての人に感謝。メンバーのひと時も揺らがない力強い意思にも助けられた。この旅ももう12回目を数える。第二章二幕。再びASEANに目覚めた今。この大地にはそう遠くない将来また来る予感がする。僕らの空はまた一つ大きく広がっていくのだろう。
コプチャイ(ありがとう)




GYPSY QUEEN ROAD TO ASIA 2005
Vientiane song
2005/05


Shinon with noi sengsourigha in Vientiane


帰国して10日がたつ。僕の左手首にはまだ、「あのとき」にまいてもらったバーシーが残っている。最初は「3日間はつけていてね」といわれたものだが、どうしても自分からはずせない。日本ではまったくない習慣だから、よく「それなに?」と聞かれる。多くを説明することもないし、もともと信心深いわけでもない。以前、ミサンガやいろいろなものが流行った時もとんと興味がなかった。
でも、なんだろう。これは宗教とかそういうことではないんだが、普通の人が普通に人を思う単なる母の「真心」なんだろうな。