GYPSY QUEEN ROAD TO ASIA #15 New World
2006/11/23-2006/12/07
Laos Vietnam Tour





GYPSYQUEENにとって新しい何かが始まる。
理由はないがそんなスタートであると思える旅が始まる。

2006年、中国に一度も旅立たなかった年。機会がなかったわけではないがGYPSYQUEENとしてベストの選択はできなかった。ゆえに行くことを止めた。それは終わりではなく関係を新しくすることでもある。今までの自分たちの殻を破って新しい世界に行くために一歩前に進む。そのために旅立つことを見合わせた。その反面、2003年から始まったもうひとつのアジアとの関係は深まっていった。それは結局のところ、アジアを目指し始めた幼少期の僕らではなく、少し意思を持ち始めた少年期の僕らと出会ったのがもうひとつのアジアであり、結果としてそれはスムーズに物事がすすんだ。中国から学んだ経験を活かしつつ、新しいことにチャレンジをしていた。

そして、三回目のLaos公演を終え、僕らなりの手ごたえと反省を元に今日に至る。その間、Laosのトップスターを二回も日本に呼んだ。Wingとつくった「Asian Friends」というコンサートはより明確なメッセージを看板として「ONEASIA CONCERT」と名前を変えた。「わかりやすいよね」そう。そのもの。僕らの目指している音楽によるアジアを交流にぴったりの名称であった。今回はVietnamのNGOが主催をするコンサートツアーだ。

コンサートに至るまで、2001年に中国で経験したようなことがたくさんあった。情報がないこと、何も話がすすまないこと。それは困った出来事ではあったが、危険なことではない。行けば会場はあるだろうし、よい演奏をすれば場は盛り上がる。バンドとしてはどんな状況でも大丈夫だ。しかし、物事には流れがあり、集団にはルールがある。このツアーに関わる人たちには僕が「代わりに」言い訳めいたあやまりに似たトークで説明しなければならなかった。それはそれでストレスにもなったが何よりもこの公演を成功させたいという思いが先にたつ。我慢は絶えずついて回った。今回は話の始まりも、周りの人たちも異なる世界。何かが始まる予感がする。だからそれを最後まで見届けるためにも忍耐強く、そしていつでも状況を把握して最善の方向にバンドの舵を取らなければならなかった。それが今回の僕の大きな役割でもある。そうして、2006年11月23日。ツアーの初日の夜が明けた。「夜が明けた」。たいそうな表現ではないか。でも、それはその言葉通りである。今回はツアー中に7回の公演がある。それぞれの主催は微妙に異なる。そんな中で受けたオファのひとつに変更が入った。急遽増えた楽曲。次にメンバーがあつまるのは翌日の15時の集合時間だ。どうしよう?できるのか。いや、できないという答えはない。「しかたない」、「あせることない」、「無理してもいいものはできないし」。それらの言葉はGYPSYQUEENの辞書にはない。

あせらない人は一生あせらずに終わるし、無理と努力は気持ちひとつで切り替わる。僕はYESの方向を見た。22日深夜。もうすぐ出発の朝となるときだ。その決断をしてすぐにメンバーに状況を連絡。そして、楽曲をPCに落としてコードを拾う。同時にメンバーであわせるときのために、アレンジの方向性を探す。これをやりきるまでは今日は終わらない。そんな前夜があけ、当日の午前11時。ようやく曲のイメージは完成。やればできるもんだ。「できるかどうかわからないけれどがんばってみます」なんてしょぼい返事をしなくて良かった。やればできる。昔の人はそういったものではないか。


13:30.Masaoが迎えに来る。いつものスタートだ。忘れ物がないか、お互い確認して出発。祝日なのでちょっと余裕をもってと思って出発したが、道はすいており15時前には酒々井のサービスエリアに到着。ここで毎回の儀式。日本食をたべて決起大会。いざ成田空港に向かう。15時ちょっとすぎに空港着。ほかの参加者もすでにそろっていて気持ちいいスタートだ。「自分の荷物は自分で持つ」「人から預かったものは責任をもって管理する」遠足チックな注意事項を説明してチェックインカウンターへ。

9人で191kg。ハードケース3つをもっての渡航であればこれはものすごい軽量化だ。荷物の超過はデリケートだ。10kgのオーバーでもたいそうなお金になる。それがもっていっても行かなくてもいい荷物であれば無駄としか言いようがない。事前にメンバーに重量を提出してもらい組んだこともあって、超過は誤差の範囲に落とし込めた。16:30.税関も抜け搭乗口近くのカフェで打ち合わせ。いつでも打ち合わせである。窓の外は夕闇が足早に迫ってくる。今は冬。夜の訪れも早い。そういえば久しぶりの夜便である。今回はVientianeにもっとも効率的に入る道を選んだ。HoChi MinhからVientianeへ。これは最短ルートだ。それでも6時間かかる。遠いよね。搭乗口は人があふれている。満席らしい。僕らも全員が近くにとおもったのだが、それは叶わなかった。

18:12.JALとVietnam航空の共同運航便は飛び立った。とてもきれいな機体。心地よいサイズのシート。まずまずのスタートである。機内では最後の勉強会が始まる。何しろVietnam語は発音をしてくれる先生が回りにいない。通じるかどうかは疑問である。通じないと話が始まらない僕らはおのずと真剣だ。そして、その前にはVientianeとVangviengでの公演もある。通常Laos語の公演だけでてんてこ舞いなわけだからその混乱度合いはさらに増すわけだ。機体も高度を上げお食事タイム。久しぶりにビール解禁。日本では飲まないがもうここは日本じゃないよね。なんていいわけをしてなぜかエビスビールを飲む。23:30.現地時間に時計を合わせる。日本より2時間遅いのでまだ21:30だ。機体は降下を始めている。雲をぬけ明りが見えてきた。Ho chi minhの灯りだ。ふと息を呑んだ。なんてきれいなんだろう。予想をはるかに超える広大な平地にまばゆいばかりの明かりが広がる。幹線道路や住宅から漏れる明かりで一面が多い尽くされている。こんな平野だったんだね。今までVietnamにもっていたイメージが実感として一蹴された瞬間だ。言葉で言い表しにくいがオレンジやアオの宝石箱を開いた感じだった。

22:04。タンソンニャット空港にタッチダウン。降り立つとむっとする熱帯の空気を感じた。ここは熱帯モンスーン気候。Vientianeよりもはるか南の地なのである。Ho Chi Minhの国際空港というにはチョット古めの空港であったが古い空港のよい点はすぐに出国などの手続きができるという事だ。全員無事出国し僕らは市内のホテルへ。今日は乗り継ぎ日として一泊泊まらなければならない。本当は今日中にVientiane入りしなければならなかったのだが、これが最速の手段であった。今は絶好の観光シーズンなのである。空港を出るとアジア特有の喧騒が待っていた。とりあえずタクシーを止めたい。この大荷物だから9人で3台は必要だ。市内までおよそ8kmくらいだから20分もあれば行く距離だ。「市内まで10ドルでどう?」なんていう運転手はほおっておいて料金交渉に入る。バンタイプだと2台で何とかいけそうなので、それを探す。荷物が重いからといって2台で30ドルと言われて2台で15ドルでどうだと交渉。無理といわれたのでじゃあいいよ。と他に行こうとすると手をつかまれて、なんとか2台で20ドルとか、細かい交渉に入られる。とにかく15ドルしか出さないということで納得してもらって荷物を積み込む。本当はもう少し値切りたかったがまあ時間も遅いのでそこで手を打った。初めて走る市内はとても刺激的だった。アジアのバンドといってもVietnamは初めて。全てが初心者である。とにかく見てみよう。今日は乗り継ぎだけだが今日を有効に使うことにより5日後に戻ってくるときに多いに役に立つに違いない。町の地図を頭の中に広げて中心部に向かう。線路を越えて、市街地に入り、バイクの多さに驚き、車線無用のルールに驚く。中国の自転車が数年するとこのような感じになるんだろう。そう思うと楽しい。あっという間にホテルに到着して僕らの今日の移動は終了。さあ、さっそく街に出てみようではありませんか。

Vietnam社会主義共和国。日本より少し小さい領土は南北に広がり片側を海にもう片側を中国、Laos、カンボジアなどと背を合わせる仏教国だ。国歌はティエンクァンカー。なんで知っているかというとこの曲を僕らは演奏することになる。まあ、それはあとで述べよう。23:30チェックイン。FAXが届いていた。6日にラムチューンと競演することになった。

何かあるだろう。どんなことがあっても動じないと思ったがここまで予想外なことが到着すぐにおきるとクラクラもんである。それもうれしいくらくらだ。彼のCDをきいたときその才能に結構感動したもんだ。Vietnamポップスでこんなにきれいなかんじでやっているとはね。そんな彼といきなり競演。一緒にやる以上僕らはバックを引き受ける。バンドがいるのに目の前でカラオケなんてプライドが許さない。またひとつ課題を自分たちで増やす。23:50.とりあえず荷物を置き町に出る。言葉を覚えるには町の飲み屋で使って発音を治してもらうことが一番である。チャイニーズっぽいみせにはいり早速実践。いつでも勉強だ。最初にVietnamの有名ビール333(バーバーバー)を飲みたかったがこの店にはなく仕方なしにタイガービールを飲むことにする

タイガーはシンガポールのビールだ。なんでだろうか?とおもったけれどやはりこの店は中華料理。そうなるとシンガポールの香りもしてくる。あらためて中国のすごさを感じる。一応24時をもって大抵の飲食店は閉まってしまうのだが、なぜかこのお店界隈のみ営業をしていた。時間が1時を回った頃ホテルにかえることに。清算金額は50万ドン。3700円である。一人400円程度という計算になりうん、Vietnam最高!とMasaoは叫んでいた。まだツアーは始まったばかり、明日のために何かを準備しよう。このレポートをかきつつ02:30SIGON ROYAL HOTELのやたら広い部屋で就寝。
2006/11/24
Am6:00。目覚ましの後にクラクションのけたたましい騒音で起こされる。しばらくそんな騒音を聞きながら体に起きろという指令がでるまで待つこと数分。ベットの中で今日の行動をメモする。さあ、そうもしていられない。窓を思い切り開けると久しぶりに目があけられないほどの朝日が照りつけてきた。まぶしすぎる。そうだ、ここは亜熱帯。今日も暑いぞ。6:30.朝食兼ミーティング。ホテルの9Fの回転ラウンジからの眺めはよく、市内を一望しながらの朝食。外にも出れたのだがあまりにも強い日差しにちょっと弱気になり断念。まあ、これから否が応でもさらされる太陽だ。朝食はフランスパンが妙においしかった。準備を整えて7:20にロビーに集合すると大使館の坪田さんがきていた。どんな人かと思ったらとてもしとやかなかわいらしい女性でVietnam語を流暢に話していてなんだかすごいぞ。と思う。

今日は乗り継ぎ便までの間に会場を見ておこうという事になっている。会場が9時過ぎから使ってしまうという事を聞いたので大使館の方には申し訳ないけれど、その前の時間を指定させてもらった。今日見ておくのとそうでないとでは大きく違う。そんなわけで早めのスタートとなった。ホテルを出ると拍子抜けするほどすぐに会場のNEW WORLDHOTELに到着。ここは1年前ほどにできた5つ星のホテルでつい先日もブッシュ大統領がとまったという。全館か仕切りだったそうでそれはそれで寂しいのではなどと余計なことを思う。そういえば最近5つ星のホテルはごぶさただなぁ。とおもいつつ豪華なホテル内をゆく。ここでレセプションの会場を確認する。ステージや、照明、機材のことを打ち合わせた。若干のお願い事項はあったが問題はなし。ホテルの方もしっかりしていてもうお任せで何とかなりそうだ。一安心して1Fのカフェへ。Vietnamはコーヒーの原産国。アイスコーヒーもおいしい。


そこへ塩崎総領事がいらっしゃった。今回のツアーにおいて最終日を飾るのがこのHo Chi Minh総領事館のレセプションだ。急ながら僕らの滞在を知って頂いたのか急遽総領事よりオファを頂いた。突然のことで不安な面もあったが言われたオーダーをこなせないようであれば音楽家失格。何よりも直接総領事よりメールをもらってごちゃごちゃ言えるはずはない。メンバー全員がそう思えたから実現できたことで、メンバーにも深く感謝だ。塩崎総領事とは初めてお会いしたのだが、とても気さくな半面ずばずばものを言う方ほっとした。そして、いろいろ現地情報を教えて頂く。現地のことは現地にいる人に聞くのが一番だ。日本でもVietnam人の友人に助けてもらえた。それらの情報をもとに最新の情報に修正していく。僕らの目指す照準はだんだん明確になってゆく。レセプションの打ち合わせも終わりホテルへ。そして少ない時間を使って街にでる。今日見ておくのとおかないとではイメージを作り出す上で大きく異なる。街から得る情報は僕らの頭で把握した知識に色と香りをつけてくれるのだ。1時間ほどでホテルとペンタイン市場を往復。ちょっと疲れた。時間は10時を回っている。再集合の約束は10:20だから時間もあまりない。急いでチェックアウトの用意をしてロビーへ。ランチは飲茶の店だ。総領事に僕らのやる曲を説明する。国歌の入り方、最終的な曲の選考。ミーティングから生まれるアイデアもあるし、どんどんぼくらの中にVietnamが入ってくる感じだ。おいしい中華をたらふく食べ終え空港へ。なんやかんやでもう12時だ。フライトは14時。問題はないだろうとおもった。すんなり行き過ぎて怖いくらいである。怖いくらい。そのとおり。そう簡単には事は進まない。ここにきて大きな問題が発生。Machaのパスポートの期限があと3ヶ月をきっているので出国できないといわれる。

これは「がびーん」である。だってLaosのビザも下りたのに行けないってどういうこと?説明してもどうにも覆らない。うーん、困った。結局かなり坪田さんを煩わせてしまったがいろいろな方法を考えてなんとかぎりぎりOKがでる。坪田さんごめんなさい。いろいろな人にお手数をかけてしまった。結果的にいつも困るのは現場。当時者。だからこそ気を抜いたらおしまいという気持ちは忘れないでいたい。そうしてようやくのこと乗ろうとしたときは14:00。今回はmachaが空港を走る羽目になった。ようやくのこと乗ったVN840便。小型機がぽつんと空港の端に止まっていたがまさしくその機体でした。ちょっと怖い。タラップを上り搭乗。半日程度の滞在だったが十分にHo Chi Minhは僕らの記憶に残った。また数日後にもどってくる。14:10Ho Chi Minh発、僕らは途中の経由地プノンペンを目指す。

Ho Chi Minhを飛び立つと、小型機特有の揺れでとにかく落ち着かない。気を紛らわそうとこのレポートを書いていたりする。カンボジアまでは本当にすぐで、あっという間に機体は降下をし始める。空港にほど近くになったころ目を奪われるような景色に出会う。最初は水没した町だと思っていた。でも、それは大きな湿地帯であった。遠くに横たわるメコンの脇に支流から湿地帯になったようなエリアが大規模に続く。それはなんと表現していいのかわからないが、とにかく今まで見たことのない世界だった。メコンの行くつく果ての大地。そして、海へと続いていくのだろう。この荘厳な風景、思いがけず出会うことができて幸せである。14:40.カンボジアの首都プノンペンに着陸。およそ40分ほどのトランジットをすごす。待合室は拍子ぬけするようにきれいで、クメールの遺産(もちろんレプリカ)がところどころにおかれている。そんな石仏などを見ているうちにあっという間に乗り継ぎ時間となった。

同じ席にもどり今度はメコンをさかのぼる旅だ。Vientianeにはここから1時間20分。そう、意外に思うがHo Chi Minhとプノンペンは近く、プノンペンとVientianeは結構遠いのだ。ぼくは実は結構知らなかったりしたので念のため。そうして機体は一路Vientianeへ。途中で機内食がでて食べ終わることにはまた降下し始めた。ちなみにこれはあまりおいしくなくてちょっとブルーになる。それでも窓の外の景色が和ませてくれる。街の地図が頭に浮かぶ。今年二回目。通算4回目のVientiane公演。日本人としてはまれだろうなぁ。4ヶ月前に気持ちにさかのぼってきた。いよいよだ。「帰ってきたよ」そういえるほどここは僕らのASEANのホームタウンだ。


空港に到着するといつもと雰囲気が変わっていた。そうだ、この夕暮れの時間にVientiane入りしたことはない。早朝か夜の到着ばかりだったので夕暮れの空港は初めてだった。乾期のせいか風も心地よい温かさだ。隣のゲートにはラオス航空機が止まっている。そんな風景も新鮮だ。ゲートに入ると小野寺さんと西村さんが来てくれていた。入国のときは機材の量も含め何かと心配である。こういったときに入国支援をしてくれるのは本当に心強い。今回は大使館のイベントではないのにフォローしてくれて感謝も倍増。ただ、唯一さびしかったのはここに赤嶺さんがいないことだ。いつもここで行うイベントには赤嶺さんの厳しいチェックがあった。到着するまでに何度もだめだしをされて作り上げた企画。だからこの空港で出会うことがその成果物を紐解く瞬間でもあった。ツアーメンバーも慣れてきてスムーズに入国。そして、手配していたバスに機材を積み込む。この15人乗りのバスで今回はずっと移動することになる。市内に向かう道も夕日を浴びてきれいだ。進行方向後方に太陽が沈んでいく。ということはこちら側がメコンなわけだ。川沿いに行きたい気持ちを抑えてホテルへ。レセプションの時間は迫っている。10分もするとノボテルに到着。前回から利用している快適なフランス系のホテルだ。

チェックインをしてすぐに着替えてITEQQのレセプション会場に向かう。ようやく始まる。何がどうなっているかわからないこのイベントもきっとこの会場に行けば全てわかるのだろう。全てはそれから考えればいい。そういう気持ちでホテルを出発。何があっても驚かない。大切なのは明日来てくれるお客さんにどう喜んでもらえるかである。ふつふつとやる気が沸いてくるのがわかる。みんなもそうだろう。そして15分ほどで会場に到着した。ITEQQに入るのは始めてである。ここはまあ幕張メッセを小型にしたようなところでかなり広い。展示会場としてはこの街で一番大きいのではないだろうか?今回僕らに帯同してくれるのは情報文化省のゴーさんだ。彼の案内で会場に入る。シンを着たshinonはひときわ目立っていた。ラオス人とおもわれたかな?

会場に入ると1テーブル15人くらいの円卓が会場中に150以上はある。でかい。。でかすぎる。その中のひとつに案内される。テーブルには料理とお酒。19時ちょうどについたが席はまだまばらだ。しまった、ラオス時間を忘れていた。時間通りに始まらないのがこの国。それでもボーペニャン(気にしない)のだ。時間にきっちりして遅れちゃいけないと思ってあわててホテルを出てきた僕ら。数ヶ月の前のことを忘れていた。とりあえず場を持たせるために飲む。ビアラオはやはりうまい。ステージではローカル歌手が歌を歌ったりしている。それを直接見える距離にいないためスクリーンに投影されている姿を見る。なんだか変だ。変だと思ったらすぐに行動をしないと忘れ去られてしまう世界。

とにかく会場を歩き回って知り合いを探す。ついでに携帯のSIMMカードを買いに行く。なかなか見つからず会場にもどると半分くらいは人が埋まっていた。司会者らしき人の挨拶がありなんとなくスタートした感じ。席にもどると今回の主催者カバントランさんが来ていた。さあ、今回のイベントの概要がわかる瞬間だ。僕らは満面の笑みで彼を向かいいれた。「今回は呼んでくれてありがとう。コンサートについて詳しいことを教えてくれますか?」そう問いかけた。「たくさんの問題があります」そう切り出されていきなり言葉を飲む。「出演時間に変更がありました、持ち時間は半分で明日の出演時間はまだわかりません」。

わからないって明日のことですよ。そんなんで大丈夫かメンバー一同唖然とする。「とにかく明日のリハーサルで調整しましょう、みなさんのリハーサルは10時からですのでよろしくお願いします。」そういって笑顔で僕らの席を立つ主催者。摩訶不思議な会話であった。とりあえず話を整理する。「ま、明日10時に行けば分かるって事だね」。それ以上言いようが無い。メンバーに説明責任がある僕だがあまりにも情報量がすくなくてこれ以上のアドリブは無理だ。宴はゆるい感じで続き、そろそろ帰ろうということになった。

ステージにはアルーナもアレキサンドラもでなかった。だいたい彼女達がでるのならばきっと電話が入ってもおかしくない。帰る前にご挨拶をと会場を歩くとチャンパソンさんや情報文化省のドウアンミサイさんの奥さんと会った。Shinonのシンがとても気に入ったようで話が盛り上がる。こういった服装自体一つ一つが演出でもある。結果としてGYPSYQUEENのPRには大いに役立った。いずれにしても明日はこの記念すべきコンサートがはじまる。始まってしまう。どんなときにもお客さんは良いものを求めてお金を払ってみに来る。今回のチケットは一般席で30000キップという。日本円では400円程度だが、それはこのラオスの国の人にとってはとても高い。そのお金に見合うようなことをしなければいけない。

ましてや僕らはそのコンサートのフランドフィナーレを任された。それはそれは責任が重いのです。情報がない分メンバーの不安が高まるのがわかった。何とかしなければ。


ホテルに戻りミーティングを始める。今回のコンサートについてもう一度メンバーに説明をする。このコンサート。今までの僕らの行うコンサートとはちょっと異なる。単独公演を続けてきた僕らにとってこのイベント的なステージは久しぶりだし、それも5カ国の人々となると2002年の中国以来だ。そして、さらに異なるのは今回の出演者のメインは各国の障害を持つ人たちのステージであるということだ。音楽しかできないGYPSYQUEENではあるがどうせやるならば世の中の役に立つ事をしたい。アジアでの交流活動、学校への校歌の提供など、「きっと」僕らの音楽が少しは世の為になるであろうとおもって続けている。お金だけを稼ぐ音楽も職業としてはある。でも、それだけではあまりにも短い人生物足りない。もっと世の中を変えていけるような何かを、結果的に変わるかどうかは分からないが、小さくても何かを動かしていきたい。そうおもって音楽を続けている。

そんな中こんな話があった。「アジアの障害者の人たちはたくさんいます。戦争やいろいろな理由で障害を持つ人もいれば栄養などの関係で障害をもつ人もいる。そういった人を支援したいので」そういった話を聞いて、僕らで役に立つのであれば、と二つ返事で出演をさせて頂くことになった。音楽って常々言っていることだがボーダレスだ。音楽には国境も、人種も、言語も、お金持ちも貧乏も、プロもアマも、サラリーマンも音楽専門家も境界線は無い。だれにでもできる、だれにでも楽しむことが出来る。障害を持った人もそうだ、その障害のあり方にもよるが目が見えなくてもサックスを吹き、耳が聞こえなくても集団でダンスを舞う。そしてそのダンスに僕らはその国の流儀を教わりサックスの調べに聞きほれる。一緒に何かを作るということになんら差は無いのだ。

それを形として具現化するこのイベントの主旨は尊い。僕らの役割はそんなみんなをまとめて何かを形作ることであろうと思った。だからぼくらはこのイベントへの参加を快諾した。今回はアジアの各地の人たちを対象にしたものである。きっとそのうち日本でも出来るのではないか、そんな気がした。日本人の僕ら。足元の日本を大事にしなくてはと思う。これはアジアにいくと強く感じる。どこの国も必ずしも平和で豊かとはいえない。経済的なことを考えれば日本に勝る国はない。しかし、みんな言うのだ「私は私の国に誇りを持っています」。そういわれる旅にガーンとしてしまう。僕らは日本を愛しているか。もちろん愛している。でもそれを表現していますか?もしかしたら「日本はもうだめさ」的な発言をしていなかっただろうか?ダメだと思ったら何故自分で何とか良くしようと思わないか。国に対するアイデンディティティはその国に住む人、すなわち自分に対してのアイデンディティであろう。そんなことにも幾度となく気づかされた。そんなことを常々感じながらの今回の話はとても名誉なことである。しかし、名誉はお金にならない。文字通りチャリティコンサートだから僕らに対するギャランティはない。

2週間一文無しは厳しいことである。不安だ。だからメンバーに最初に公演の打診したときにも聞き方は慎重であった。「この主旨に賛同してくれるのなら一緒に行きましょう、難しければ無理をすることは無いので気にせずに自分の判断できめてね」。結果、五分以内にメンバーから返事はきた。全員快諾である。Shinon,macha,masao。この3人からのいつもよりちょっと早い返信メールはいつもよりちょっとメンバーを尊敬する結果となった。お金だけで動かないこのメンバーたちは大ばか者かもしれないが僕にとっては最も大切な最強のパートナーだ。そしてそして、これだけの長期公演となると僕らだけでは機能しない。この強行軍に耐えられる超強力なスタッフ陣が必要だ。いなければ始まらない。早速打診。これもまた快諾してくれるすばらしき仲間達。脇を抱えてくれる布陣も固まりそうしてGYPSYQUEEN LAOS-VIETNAM団は結成されたのであった。

ミーティングを終え、本日の業務終了。時間も22時を過ぎた。渡航の疲れもあってshinonはお休み。ということで残りのメンバーでメコン沿いのオープンエアの飲み屋に向かう。これは前回も来た当たりの場所で川沿いに木造のテラスが張り出して巨大な飲み屋が構成されているエリアだ。初めてラオスに来たメンバーもいてもう感激の渦。そう、本当に思うのだがこの蒸し暑い夜。メコンの流れに少し冷やされた風を受けて飲むビアラオは絶品なのである。空にはくっきりと月が浮かぶ。ラオスの国旗の丸は太陽ではなくて月だということを前回聞いた。そんなことを思い出して初めてのメンバーに伝える。こうして物事は受け継がれていくのだとおもった。
ラオスが好きな人がまた新しくラオスを好きになりそうな人に伝えてゆく。そうして、世の中に広まっていくのだろう。ラオス語のメニューにてんてこ舞いになりながらとりあえずラオス料理を食す。対岸のタイの町の明かりも少なくなってきた。トゥクトゥクのお兄さんと仲良くなって帰りにも迎えにきてもらった。この時間、さすがに遅いので足を如何しようかと思っていたので助かる。それも激安だ。ラオスって何がいいっていろいろいいところがあるんだけれどラオス人がいいんだよね。もちろん、アバウトすぎて腹を立てることもしばしばだけれど面と向かって付き合っている中で、いやな思いとかだまされたって事は一度も無い。自己責任とよく言うが、この国の人たちは本当に「良い人」が多いなと思う。会計を済ませてホテルに帰る。あまりほど食べて飲んで5人で20万キップ。大満足である。久しぶりに12時前に解散する。久しぶりのラオスの夜。ノボテルの快適な部屋でぐっすり就寝。

2006/11/25
7時起床。よく寝た。9時朝食。今日の連絡事項を確認する。食事もそこそこに10時出発。ゴーさんが迎えにきてくれた。一行は会場となるNational culture Hallへ。そして、会場に着くととりあえず待ち。いつもの流れだ。だれも「リハはまだですかねぇ」なんて聞かない。見れば分かること、聞いても仕方が無いことは聞かなくなったメンバー。始まる時間がくれば始まる。だから待てばいい。といいつつ、10時にリハーサルといわれたのが延々と他のリハーサルが続いている。なんだか進行順でリハーサルをやっている。となると。。。だったら僕らのリハは。数時間後である。昨日、「明日10時からGYPSYQUEENのリハーサル」と言われたのに。まあ、といっても仕方が無いのでだらだらしているとアレキサンドラが来た。やった!彼女なら何か知っているぞ。しかし彼女は「は〜い、元気してた?ところで今日の出演時間とか持ち時間わかる?」と聞いてきた。


お互い?の文字が頭の上に浮き上がる。ということでアレキサンドラも混じって待ち時間は始まった。時折他の出演者達が僕らの楽屋をとおる。「サーバイディー」声をかけるとわから無そうだ。そうか、アオザイを着ているしとおもって「シンチャオ!」と声をかけた。そうしたらみんな笑顔で振り向いてくれた。この人たちはベトナム人のチームだった。気を良くしてみんな話し掛ける。でも彼女達からは答えが無い。そのうちの一人が手話で会話し始めた。そうだ、今回はいろいろな障害を持った人たちが出演する。ラオスにきてラオス語を覚えるように僕らも少しでも手話を覚えておけばよかったとおもった。ん?でも手話って世界共通なのかな?そんなことも知らない僕ら。まあ、みようみまねの手話で(ゼスチャー)でなんとなく仲良くなる。触れ合うことで人は仲良くなれるんだな。

そう考えるとこの待ち時間もまんざら無駄じゃないわけだ。しばらくするとアルーナが現れる。Vangviengから到着したての彼女と再会を喜ぶメンバー。ここの所ほぼ毎月彼女と会っているわけだ。なので、「よぉ〜」みたいなノリであなり感動は無い。そうなれたことを嬉しく思う。しばらくすると午前中のリハーサルが終わりランチタイムになる。それぞれがなんとなく食事に向かう。ぼくらはラオス料理の店に行った。昼間のビアラオはこれがまた効くものですっかりいい気分になる。のんびりと会場に戻ると僕らのリハーサルの番となっていた。時間がかなり押しているらしく、10分ちょっとしかないので全部はやりきれない。そして、そのあとにはアレキサンドラとアルーナとの合わせがある。ばたばたと準備をはじめてリハーサルスタート。ここ3日間。アンプで音を出していないので気持ちがいい。ラオスの機材も毎年毎年良くなってきていて今では日本にあるアンプと変わらないものがあったりする。さっさとGYPSYQUEENのリハーサルを済ましてアルーナとアレキサンドラとのコラボ曲「Kobjai」をやる。しかしアルーナの姿が見えない。ということで僕が代りに歌ってリハーサル終了。あっという間だった。

14:00とりあえず一度ホテルに戻ろうということになり戻る。ちょっとした時間にマッサージにネットカフェ。使える時間は無駄にしたくないからね。ネットカフェでは10分で帰ろうとする僕らを不思議な目で見ていた。きっと何てせわしいんだろうと思ったんだろうなぁ。でも、時間がないのよ。そんなこんなでホテルに戻り17:00衣装を持って出発。アルーナと合流していろいろ打合せをしながら時を過ごす。


19:00。会場に到着。もうお客さんは入り始めていて、なんとなくにぎやかな感じだった。さらに楽屋まわりもごった返した様相となりもう大賑わいだ。だんだん気分も高揚してくる。主催者の挨拶が始まりいよいよスタートだ。準備不足もあるがステージが動き始めれば数時間ですべてが終わる。一発勝負の本番の時間がやってきた。しばらくして夕食の時間。何せ待ち時間はたっぷりある。今日はアルーナと一緒にランサンホテル前のオープンエアのカフェに入った。ここは昨日の場所とは異なりちょっとリゾートチックでいい感じであった。本番前なのであまり飲むと寝てしまう(いそうなので)こともあるので要注意。簡単に済ませて会場に戻った。

戻る途中に公演会場前の巨大ポスターをみると僕らがメインに移っていた。思えば01年の中国ツアー。主役はずっとスィートライズであった。僕らはそれ以外の外国人。そんなくらいの扱いであっただろう。当時の彼女達にはクルーもついていてメンバーだけでの参加を強いられた僕らにとってはとてもうらやましい存在であった。そして、今その順番が回ってきた。01年を経験したMasaoとShinonはきっと感動シキリであったであろう。その巨大なポスターを見ながら喜ぶメンバーとは裏腹に緊張の面持ちがはっきりするのはその責任を良く分かっているからなんだろうね。日本人らしく余裕の行動、ということで足早に会場にもどる。しかし、僕らの出番は2時間以上先である。プログラムは全体的に押し気味である。ちょっといやな予感。そしてそれは的中した。ゴーさんが楽屋にやってきてこういう「このままでは12時を回ってしまうので(最初からわかることだとおもうのだが。。)持ち時間を短縮して欲しい」という。うーむ、微妙だ。それできちんと表現できるのか?中途半端なものになってしまう可能性も多い。一瞬の思案。しかし結局は全体公演の中の一部である。僕らが好きに曲をやればいいってもんじゃない。とにかく今日中には終わらなければいけない主催者の気持ちもわかる。メンバーを集めて事情を説明。いきなり編曲会議となる。そういう意味ではたっぷりと時間があったおかげでこういった恐ろしくドラスティックな変更にも耐えられるのだった。これっていいことなんだろうか?いや、慣れてはいけないイレギュラーである。しかし、今はこうするしかないんだ。と自分に言い聞かせる。自己主張だけでけんかするのはいやだしね。何よりもメンバーがみな納得して作業にかかろうとしている。うーむ、大人だ。そんなこんなでいろいろメンバーで意見を出し合ってとりあえずメドレーを作成することにした、やはり日本人バンドとしてみんなが元気になるようなメッセージを込めた明るめの曲をやったほうがいいという視点とテンポを落とすのではなくポップ感で乗り切ろうという事をお互い確認した。でも、これって結構たいへんなのである、音が出せない環境で、しかも譜面を見てやるわけでもなくみんなのイメージだけで構成する。

もちろん、ぶっつけ本番の最新アレンジとなるわけだ。しかし、失敗すればお客さんには事情もわからず「なんかへんじゃない?」と見られてしまう。厳しい仕事だ。特にキーだしをするMasaoは責任重大だ。実際かなりかおがこわばっている。突貫工事は始まる。「ここできろうよ」、「つなぎの部分は新しく考えないとね」。

楽屋の裏ではステージが進行している。出番も近くなってくる。結局3曲を一曲に凝縮したメドレーとしてそのあとにしっとりとラオス語の曲を歌い、そして最後にはアルーナもユニセフに向けて歌ってくれている「未了」を演奏することになった。一度もこのアレンジでステージに立ってはいないがそれでも安心感に溢れる。そう、本番前にこれだけ時間があったのも始めてであるからだ。そして、僕らの出番が来る。幕が開きステージはスタートしてあっという間に終わった。個人的な感想からすればしのんのラオス語がうまくなったかな?という感じである。そしてアルーナと「君の悲しみが僕を変える」を演奏。彼女の情感溢れる歌は本当に素晴らしい。日本でも彼女の歌唱力には評判が集まった。ここラオスで聞くとよりいっそうである。そして、最後にアレキサンドラがでて、再び僕らの出番だ。ここも思いっきり短縮された。時間は23:50.さすがにちょっとまずい。僕らもこの時間にライブをやることはない。大体打ち上げも中盤という時間ではないか。結局ヴィエンチャン音頭とコプチャイの二曲に絞った。



ヴィエンチャン音頭も急遽の変更。まあ、慣れている?僕らはよいがセンターに立つviviちゃんは大慌てだ、とおもったら結構冷静でびっくり。でも、普通本番直前に構成が大きく変わったらもうちょっと驚くもんだよなぁ。とおもったりもしつつ安心。それでも、切り刻んだ構成にはメンバーもちょっと不安げでもあった。そして、最後の一曲となる。この公演のしめくくりだ。このコプチャイは前回のラオス公演でも歌っているがもっと世に広げていきたいと思っている曲だ。いろいろな言語で「ありがとう」を表現したら楽しいことになるのではないか?今日は実現しなかったけれどいつか試してみたい試みである。「コンサートを終えるときにはいつもこの曲を」。そう思った。それにしてもこの曲のアレキサンドラは圧巻であった。前回は初めてという事もありたどたどしさが残った歌であったが今回はバッチリ自分の歌にしてきた。まるで彼女がいつもコンサートの最後に歌っているナンバーであるかのようにだ。アレキサンドラの才能を垣間見る。ラオスのトップシンガーといわれる彼女にしてみては当たり前なのかも。そうしてフィナーレも終わり時間を見れば12時を回っている。こんな遅くまで桂大使もいらっしゃっていてくれて本当にありがたいことだ。

僕らのパフォーマンスが大丈夫だったか心配は募る。僕ら自身、ここまで短い時間のステージはあまりやらないのできちんと表現できたか、ということについては不安なのだ。すぐに撤収して明日に活かせることを考えよう。初日、こうしていろいろなことに遭遇したわけだが明日にはそれを「あたりまえ」にしておかねばならない。部屋でのミーティングは続く。今までとどこが違うかを問う。曲の反応などの分析も必要だ。ポジティブにみんなが意見をいう事は重要だ。だから時には全部メンバーに聞いたりする。「明日のセットリスト任せるよ」これは投げているのではない。一緒にやるメンバーだからこそ一緒に脳みそを使ってやりたいだけだ。4人が対等に音楽に対して言葉を言える。それがこういう現場ではとても重要なのだ。やることはありすぎるくらいの夜。結構楽しんでいる僕らがここにいる。それにしてもタフになったもんだ。睡魔が襲ってきてリハもままならない。僕自身がやばい。寝ながらベースを弾く。初日からきちんと寝ていないので疲れが出たか?なんとか一通りやって終了。そして、ほとんど寝た状態で今日のVTRを確認、正直きちんとみていない。ぼろぼろになりながら就寝。明日もがんばるぞ!

2006/11/26
7:00起床、この時間に起きるともう外はかなり暑い。8:00朝食、昨日の反省事項を再確認。この日は9:00に出発して市内を回ろうという事になった。そういえば4回目のラオスだが僕らはお寺に行く機会がなかなかなかったのだ。という事で早起きして半日はVientianeお寺めぐり、となったわけだ。定番のパトゥサイは前回もきたところ。それでも初めてのメンバーは感動しきりである。気温はどんどんあがりレンガの照り返しがきつい。もうすぐ12月なんだけれどね。そして、一行は市場へ。ここでちょっとの買い物タイム。


前回はお土産ひとつ買えなかった。その反省を生かしたかんじだ。Managerのviviちゃんは早速シンをオーダー。素早い。どこの国にも伝統的な衣装があるがこの国の伝統衣装はとても美しい金の刺繍の入ったドレスはもうフォーマルな場でも十分であろう。女の子はいいよね。買いたいものがたくさんある。買い物で時間が押してしまったので中心部のスカンジナビアカフェでランチ。パンのとてもおいしいところで軽くビアラオを飲みつつすごす。今日は12:30にラジオの生放送に出演しなければいけない。これはラオス国営放送のDJさんで前回も「マイアヒ事件」が記憶に新しいところだ。彼女の番組で30分ほどGYPSYQUEENに時間を貰ったのである。食事中でそわそわと落ち着かないshinonを先に行かせる。まあ、最初は打ち合わせだろう。ということで残りのメンバーは食事継続。それでもはやめに済ませて国営放送に向かう。到着するとすでにshinonとの打ち合わせは終わっていた。


早速録音ブースに入る。前回はブースのないところだったのに今回はちょっと格上げかな。番組では英語とラオス語でバンドの紹介や今回のコンサートについて聞かれた。特に今回の公演の主旨についてはきちんと伝えた。チャリティは宣伝とは結構無縁のものであったりする。なので、少しでも広めていくことができればとおもうのだ。きっとよい宣伝となったのではと思う。今回マイアヒが聞けなかったのが残念であったが、僕らに気を使ってか日本の曲を多く放送していたとおもう。収録も盛り上がりつつ終了。もっとたくさん話すことがある気がする。今度は1時間くらい欲しいな、などと贅沢なことを思ったりする。13:30.収録も終わりようやく会場入り。今日の進行はどうなるのだろうか。まあ、行ってみて状況を見てみればわかることだ。


13:45。会場で情報文化省の方と待ち合わせ。何の打ち合わせかと思っていたが、ここでビッグサプライズを耳にすることになる。「来年のピーマイ(正月)にGYPSYQUEENを招待したいがきてくれるか?」ん?なに?きてくれるかってコンサートをやるということですか?いきなりの依頼にびっくりだがよく聞くと来年のピーマイにルアンバパンでコンサートをやる予定であるというのだ。そこへゲストとして是非!というのがお願い事項であるらしい。ルアンバパンには行ったことがないし、その新年のイベントがどれくらいの規模でどこでやるかという事はよくわからないのだが、そのイベントにはアレキサンドラも出演するらしい。かなり大規模だという事はわかった。

そして、その打ち合わせをやりたいので明日情報文化省に来て欲しいという事だったが、翌日がVangvieng入りのためNG.結局、翌々日に伺うことになった。なんということ!まあ、この先どう話が進むかわからないがお正月のビッグイベントに出てという話が来ることは嬉しいことだ。さっそくメンバーに伝えるとメンバーのテンションも高まっていい感じに。タイミングよく僕らのリハーサルの時間となり昨日の経験を活かした形での確認を始める。出演時間が少ないのでリハーサルもあっという間に終了。そこにL.O.Gというラオスでは人気のラップバンドのアレックスという青年がきた。今度一緒にステージに出て欲しいという。もちろん、OKですよ。なんでも彼はそのルアンバパンの新年のイベントにエントリーされているらしい。という事は昼間の話ってまんざら計画予定とかじゃなくて確定なの?なんて思う。でも、それって来年の四月だし、今から決まっていることはないよなぁ。と思うけれどまあ、そのときがくればわかることだ。僕らはそうなるときのことに備えていればいい。別に準備をすることは無駄じゃないからね。リハーサルを終えて一度ホテルに戻ることになった。16:00会場を後にする。ホテルに戻るとティンが来た。ティンとは来年のプロモーションについていろいろ話すことになっていた。ティンは先日の日本での公演でもその才能を見せてくれた。キャラクターが生み出す魅力はものすごいものがある。



実際に会場に来ていたレコード会社の人が早速触手を伸ばしていたくらいだ。しかし、彼女に問題があるのかそれともレコード会社に問題があるのか彼女の環境はあまりにも不安定だった。事務所の移籍が続き、連絡もなかなか取れない。今回の公演も当初は出演予定であったがいつの間にか消えていた。それでも彼女はラオスの若者にはナンバーワンの知名度と人気がある。このギャップは何かとおもった。そして、彼女とよく話してわかった。

彼女は歌が好きなだけでアーチストではなかったと。多分、ここ数ヶ月、ティンといろいろ話してまたその周りの環境を見てわかったことだがまだ彼女は自分の持つ才能を理解していない。自分を売る方法を知らないのだと。アーチストとしてしていいこと、いけないことがわからない彼女がマーケットに乗ることはないだろう。でも、まだ19歳。しばらくして自分の中で何かが変わったときに再び世に出て来ることも可能な年齢だ。「また、東京で会おう」きっとちょっと成長して会うことになるんだろうな。そして、そのあと撮影タイム。バンドメンバーはいつものように部屋に集合してリハーサルとなる。明日のvangviengの準備も同時進行で進めなければいけない。そういう意味ではメインである今晩のステージの負担が少ないという事はラッキーでもあった。何でもプラスに考えていくのはGYPSYQUEENの得意なところである。

約一時間ほど確認をするともう夕刻。18:30.ホテルを出発して夕食に向かう。ちょっと今日は気分を変えてという事で市内の外れにある「カサブランカ」というカフェに行く。ラオ料理ばかりだったのでたまには違うものを食べようという事で向かう。ここがまたとてもいい感じのレストランでびっくり。オープンエアの席で蚊取り線香にむせながらビアラオを飲む。ここでも飲むのはビアラオに限る。会場に行く時間も迫っているがゴーさんは「大丈夫」を連発。時間に几帳面な僕らはちょっと焦り気味である。それでも、20時。会場入りの時間であるがまだレストランに入る。大丈夫かなぁ。食事をしていても気になる小心者の僕ら。まったく気にせずビアラオを追加するゴーさん。でも結果はゴーさんの正解。全てスケジュールは押していたようでまったく問題なかったみたいだ。郷に入ってはゴーに従え。そういうことだったね。ということで食事をしてホテルに戻り衣装を持って出発。あわただしい。

会場には20:40到着。すでに遅れが出ているようで今日の出番もかなり遅くなるような感じであった。あわてて準備したのがちょっと損をした感じだ。会場を見ると昨日同様満員だ。最後まで残っていてくれればなぁ。と思う。前日、11時を回った頃に工藤さんから電話を頂いた「出番はまだですか?」そう、本当に遅い時間なのに待ってくれている人がいる。そんな人には申し訳ない気持ちだ。せめてスケジュールどおり進んで欲しいと願う。23:00.昨日よりは少し早く(でも遅いよね)出演時間となる。今日はアルーナもいないので少しさびしい感じだったが僕らの持ち場をきちんとこなすことだけを考えてステージに臨んだ。今回のイベント。東京での打ち合わせからいろいろな人がいろいろなところでサポートをしてくれた。五カ国が絡みさらに政府関係者が多く参加しているプロジェクトだからそれはそれは大変であったろう。その第一ラウンドのラオス。そして、そのグランドフィナーレを僕らが飾るのだから。全ての関係者に感謝の気持ちを込めて「コプチャイ」を歌う。今日は僕も参加しての演奏。そして、この二日間のコンサートの幕は閉じた。これをよい経験として、そして次につながるものになればいいと思う。参加した全てのスタッフ、各国から集まった出演者に感謝とこれからの成功を願いたい。難しいことは抜きにしてこうして音楽によるコミュニケーションは障害があってもなくても、お金があってもなくても全ての人をつなぐ魔法の言語である。メンバーの笑顔はこのコンサートに参加してよかった、というサインだ。


さあ、あとは!打ち上げだ!財団の石井さんを誘って打ち上げに!といってもこの時間。もう12時を回っていてやっている店がない。仕方なしにホテルのプールサイドのレストランで深夜の打ち上げとなる。この場所、かなりいい感じでまずはこの第一ステージの反省会をかねて乾杯である。話は尽きないものであっという間に02:00.明日は移動日で早いという事もあり終了。トゥクトゥクで帰るスーツ姿の石井さんを見送りそれぞれ解散。メンバーは部屋に戻り今日のビデオ反省会。この日も僕はぼろぼろで半分目をつぶりながらの参戦。03:30就寝。4度目のVientiane。今までとは異なった公演であった。これもひとつの経験として、この愛すべきラオスとのかかわりとして活きて来ることがあるだろう。そう思って今日を終える。

2006/11/27
06:00起床。まだ昨日が残っている。ホテルをチェックアウトしなければいけないのでめっちゃ辛い思いを乗り越えて起きる。07:00朝食。今日の連絡事項を伝えて足早に部屋に戻り荷造りだ。そういえばmasaoがきていなかったが。と不安に思いつつも準備をして08:00何とかチェックアウトをする。続々とチェックアウトをする中masaoとsakaiさんが来ない。嫌な予感。朝食もいなかったし。部屋に行ってみるとまさに「今起きた」状態であった。今日は移動時間が割合の多くを占める。そのために早い時間に出発しなければならない。誰もが眠いのは当然だ。その中で決めた時間を守れない人は集団の中では認められない。その状況を感じたのだろうか08:25出発。おきて10分程度でバスに乗り込んだことになる。次回からはちゃんと目覚まし時計をセットしておいたほうがいいね。辛いのは自分だからね。という事で今日は3時間チョットのバスの旅となる。市内を抜けてまっすぐな道を行く。だんだん民家が少なくなってきて田園風景となる。この15人乗りのバンにスーツケースと10人。満載の旅だ。

道がだんだん悪くなり時折舗装が途切れる。山間部に入ってからはさらに悪路になったが運転手さんはお構いなしで爆走を続ける。ちょっと怖い。ガードレールのない谷が間際に迫る。うーむ、さらに怖いぞ。そんな道を行くこと2時間。途中の山間からVangviengの岩山が見え始めた。絶景だ。ラオスの自然が好きだと以前僕は行った。それはVientianeの街中のことであった。でも、こうして一歩郊外にでると本当の大自然があった。まだまだ、みなければわからないことがたくさんある。ぼくはいったいどこまで見ることができるのだろうか。アジアは広い。峠を越したところで、途中ヒンフープの街で休憩。いい感じで売店などがあってちょうど宿場町的なエリアなのであろう。いろいろな見たことがない食べ物やお菓子がある。保守的な僕はコカコーラをGet。なにやら魚やあの半分孵化した卵が串刺しで売っている。この暑い気温の中で腐らないのだろうか?不思議である。暑いといえば直射日光はじりじりと暑いのだが市内に比べて空気が涼しい。山間部であるからであろうがこんなにすごしやすい風は久しぶりである。再びバスに揺られ11:30。Vangvieng到着だ。長かった。そこは旅の疲れを一瞬にして癒すリゾートだった。タボンスックリゾートというのがアルーナの家だった。彼女は歌手のほかにこのリゾートのマネージャーもやっている才女だ。

このリゾート、目の前にソン川という川が流れていてその先には岩山がそびえている。そよ風が街を通り過ぎる。ここはアジアのリゾートだ。滞在者も欧米人が多いという。そんなリゾートに到着するとアルーナが満面の笑顔で迎えてくれたのだった。「ん?ステージの時にこんないい顔してたか?」そう思わせるほど彼女は「自然」であった。リゾートのコテージに案内される一行。長旅で正直かなり疲れている。でも、僕らが宿泊するであろうコテージ群をみてみんなハイテンションになる。川のほとりに広がるグリーン。川面に向かって点在するコテージ。「ここはどこ?」欧米のリゾートではないか。そう思うこと自体ラオスにこんな絶景のところはないと思っていたわけで失礼ではあるが、みんなの正直な気持ちである。それほどこのリゾートはすばらしいのだ。


チェックインをして昼食、そして、午後はタムチャンの洞窟へ向かう。ここは鍾乳洞のようなところで岩山の中腹にお寺があったりするところだ。Vangviengのさわやかな風の中147段の石段を登る。きつい。。へとへとになって登った先はものすごい展望が待っていた。そして、ボートに乗って上流へと向かう。これがまた最高に気持ちいいのだ。どれくらいの時間だろうか、30分程度のボートによる川くだり。ボートも水面すれすれなので、時折びしょぬれになるときもあり緊張感タップリだ。最初は緊張していたがだんだんなれてくると回りの景色が見えてくる。尖った岩肌に指す光のコントラストは美しい。川の周りの大木は縦横無尽に蔦を這わせている。その蔦を使っての木の上のログハウスやブランコなどどこかでみた風景だ。そうだ、ベトナム戦争ものの映画などで見たのかもしれない。川岸の木々に埋もれる掘っ立て小屋。そこに集う米兵は今では普通の観光客だ。ラオスにきて町の中の自然は堪能した。でも、ここでみる風景はそれとはまったくことなる僕にとってはじめてのラオスの顔である。2名ずつに別れたボートは上流にたどり着き終了。

日も翳ってきたとおもったら16:30。ちょっとのどが渇いた。桑の葉のお茶やハイビスカスのお茶を胆嚢。そうとう体に良いらしいよ。といわれてがぶ飲みをする。アルーナはワインを飲みだしたのでちょっと付き合う。うん、うまい。なんだかこういうところにいると人間の生き方を見直したくなるね。さっそくエンジニアのsakaiさんは「人生やり直したい〜」と叫んでいた。その気持ちよく分かります。日の暮れないうちに今回の大きな目的でもある撮影に入った。場所はいろいろ考えたが結局アルーナのリゾートの中でということになる。夕日との闘いで撮影。Gucchi氏の強力な機材に驚きつつも無事撮影を終える。何気なくとった写真もとてもいい感じだ。さすが!である。その後今日のリハーサルを部屋で実施。

またもや眠気との闘いである。1時間弱の簡単な打合せを行っているうちに夕食の時間となった。夕食はラオス料理と洋食を合わせたようなもの。このリゾートにくる欧米人の数が多いからであろう。味付けも食べやすく、あっという間にすべて食してしまった。食後お土産を買う時間を作った。リゾートの横で手織りの織物を売っている店があってそこがまた美しいのだ。赤に金、漆黒のブルーに食べたくなるような黄色。原色の美しさについつい呼び寄せられる。アジアの血であろうか、なぜかそのお店と雰囲気がものすごく気に入ってしまった。そうこうしているとギターの音が聞こえ始めた。ステージが早速始まるらしい。最初はオーナーであるアルーナのお父さんの時間。そして、僕らの時間となる。


急いで部屋に戻って(広いので部屋に戻るのも結構時間がかかるのです)ベースを持ち出しスタンバイ。スイスからきたという一団はかなり盛り上がっており、いい感じに温まっている。いよいよ僕らの出番である。ドラムのない今日のセットはmoonlight&sunshineのアコースティック版だ。このアレンジは結構気に入っていてなんとなくこの曲のもつ切なさが演出されていると思う。会場の環境に合わせてどんな場所でも演奏を出来るのって結構貴重だと思う。続けて数曲僕らの演奏は続いた。そして、ゲストボーカルとしてアルーナ登場。いや、この場所では僕らがゲストであったのかもしれない。彼女と共演するのは三回目。それでも同じバンドのメンバーのように息が合う。気を使わない仲間としてベストマッチであると思う。さらにアルーナパパも参加しての公演となる。途中、Beatlesのカバーをアルーナパパとやる。ところがキーが違うといって自分のキーで歌い始めてしまうのだ。結局アルーナパパにあわせて僕らはキーチャンジを余儀なくされる。これくらい強引なDADはさすがラオス人というしかない。それでもメンバーは必死にこの展開に合わせる。久しぶりに緊迫感タップリの公演である。その後も演奏は続き、masaoだけがアルーナパパに付き合うことになった。さすがだね。何でも出来るすばらしさ。彼は本当にライブにつよいね。そう思った。



宴席も盛り上がりゴーさんは続けざまにビアラオを飲む。「This is Beer Leo!」5本単位でどんどん飲むビアラオはあっという間に空き瓶の山となった。のりにのったゴーさんが一曲歌うという。おいおい、大丈夫か?と思うけれどやはりここでは郷に入ってはゴーに従え(しつこい?)心配するまもなく絶妙なバラッドを歌い上げる。その曲はめっちゃ美しく、このラオスの自然を感じさせるものであった。鳥肌の立つ歌。この川沿いのせせらぎの中聞く情熱の歌。それはもう言葉にならないものであると思う。

さっそくタイトルを効いて曲名を探る。Dane e sala(デンイーサラ)。いい曲だこういうところでなければ知れない曲もある、ラオス語のどの曲をやろうと日本で考えていても進まない。こうして身をもって体験した曲。これは絶対にカバーしなければならない曲であると思った。すでにアレンジのイメージがどんどん沸いてくるのがわかる。

音楽を肌で感じている瞬間だ。そこそこ酔っていてもこの感覚は忘れない。ゴーさんが戻ってきて、宴席はさらに盛り上がる。Masaoは?そうmasaoはずっとアルーナパパのバックでパーカッションを叩いていた。「ルックサイマイ(新しい息子)」masaoは今日からアルーナの兄弟となった。23:30.さすがに寒くなり部屋に。ラオスで寒いって感じたことは初めてだよね。部屋に戻っても宴席は続く。といってもただの飲み会ではない。昨日のVTRを見ながらベトナムでの準備のためだ。いつもいつも照らしているのは足元ではなく一歩先の行動だ。あわてずに進むために。そのために記録を見ることを怠らない。それが失敗をしないための秘訣だ。といいつつ僕は寝ていた。寝ていたらしい。たぶん、24時すぐにメンバーは解散。Vangviengの夜はあっという間に通りすぎていった。

2006/11/28
6:00起床、リゾートのコテージでエアコンの寒さで目がさめる。窓をあけるとすがすがしい風と対岸の岩山から漏れてくる朝日でグリーンの芝が色づいている。うむ、爽快な朝だ。睡眠不足と二日酔いがありながらこの景色を見ない手はないな、とおもって思い切って散歩。コテージなので気軽にスグに外に出れるところが魅力である。鳥のさえずり、ソン川の調べ。

しばらくぼーっとしているとmasaoがビデオをもってテラスに出てきた。考えることは同じようですでにGucchi氏は一撮影を終えようとしている。先日のティンに続いてアルーナのイメージカットの撮影だ。彼女の「才」を引き立たせるためにあえてリゾートのゼネラルマネージャーというポジションの写真をとっていた。アジアでは音楽だけではだめだ。いろいろな才能を兼ね備えないと生きていけない。そんな厳しい社会だからこそ、そこで輝いている人はとても眩しい。8:00朝食、ゆっくりと時間の流れるこの場所。モーニングコーヒーもおいしくガブガブ飲む。うまい。昨日の余韻からかアルーナファミリーと語る時間はなんとも贅沢だ。「また来年着て欲しい」そういわれて断る理由は何一つ無い。なんというのかな。ここは人を好きにさせる場所である。このvangviengにきたことは僕らにとってとても有意義であった。もう一日のんびりしたいところだが僕らには限られた時間。9:00に出発すべく準備を整える。バスの運転手がなかなかこなくて結局出発は9:25出発。全員が乗り込み出発。なんだかさびしい。手を振るアルーナの姿がだんだん小さくなってくる。さて、これからまた3時間か。そうおもい車内をみるとなぜか一人多い。ん?だれだ?「この一誰か知ってる?」当然誰も知らない。ゴーさんに効いてみると運転手のソンさんの息子だという。Vientianeにいくので乗せてあげたという。

まあ、まったく問題ないがこのアバウトさがラオスだよね。と思う。結局バスの中は日本人9名ラオス人4名の旅となる。Gucchi氏の助手のラオス人カメラマンは日本語を勉強中だという。たどたどしいがかなりはなすことが出来て、こういう若者をみるとこの国の未来は明るいとおもったりもした。山道の悪路。当然二日酔いのゴーさんはぐったりしている。もし、粗相をされては大変だということで途中休憩。「ラオス人は翌日の事なんか考えないで楽しいとどんどんのんじゃうんですよ」そう聞いていたがまさに本当であった。黄色のTシャツを着てぐったり姿はかわいそうだけれどなぜか笑えてしまう。彼とも本当に仲間になった気がした。僕らはツアー中は大体みんな一緒。食事もずっと一緒だし、良くある現地の人だけ別テーブルみたいな付き合い方じゃない.彼らの食す店に行くし、たとえはじめてあった人であってもみんな仲間だ。同じ釜の飯というと古臭いが本当にそうなのである。一緒にいることが重要であったりするのだ。そうして3時間、Vientiane市内にたどり着いた。みんなお疲れ様!そういいたいくらいみなお疲れだ。しかし、今日はこれからが長い。いろいろなところにご挨拶に行かねばいけないのだ。音楽をやっていれば良いわけじゃない。たとえ疲れていても相手は待っている。12:10センパチャンホテルへチェックイン。

荷物を解くまもなく12:30集合&出発。前回の浴衣ダンサーズで活躍してくれた学生達に「会いに行く」ためだ彼女達はLJセンターというところで学んでいる。名前の通りラオス、ジャパンセンター。日本を愛する人たちが学ぶところだ。前回の浴衣ダンサーズ女子部設立以来頻繁にviviちゃんとメールのやり取りをしていた彼女達。ラオスにきたら是非会いたいという事で、それなら全員でいこうということになった。今回のコンサートでも出演をしてくれる予定だったがプログラムを見ると23時の出演。さすがに22時を過ぎると学生達の出演の許可が出ない。泣く泣く断念した思いがあった。実際のステージでもやはり大勢で踊るから楽しいこのパラパラダンス。Viviちゃん一人で奮闘したことは対したもんだと思わせた。余談だが人数の少なさをカバーしようと考えたのがマジックショウ「なんでマジック?」いやそれはわからない。なんとなく「花とか出しちゃわない?」ということでもりあがりそれからviviちゃんのマジック特訓は始まった。飛行機の中でもミーティング中でも「花だし」に専念していたviviちゃんの姿はほほえましい。ま、そんな経緯で今日に至っている。センターに到着すると窓口となってくれている花園さんが出迎えてくれた。そして、懐かしいダンサーズの面々がやってきた。もう緊張をすることもなくいきなり女子部再結成となり、どこかに行ってしまった。

僕らはセンター長の鈴木さんとお会いしていろいろな話をした。ここで日本語を学ぶ人はとても優秀な人たちで校舎の中もとてもきれいだし、何よりも人々の顔を見れば分かる。それは本当に未来に繋がる夢を抱える若者たちばかりであった。次にきたときには一緒に何かやりたいですよね。そんな話をしているとviviちゃん一派が戻ってくる。庭でVientiane音頭を踊っていたらしい。みんなものすごくうまくなっているようで次回はもっと複雑に、と言ってきているようだ。うれしいことではないですか。こうして一つの出会いでお互いを知ることが出来、仲良くなって一緒にステージに立つことで連帯感がうまれ、向上心が生まれる。ラオスの若い彼女達はいま率先してみんなで踊ることを楽しみとして感じているように思える。最初に会ったときにはもしかしたら、「何をやらされるのだろう」と困惑していたかもしれない。初対面だから思ったことも離せなかったかもしれない。でも、ほんの数日間でお互いの気持ちを理解し、たとえ小さくても一緒に何かを作り上げて、そうすればもう全員は仲間。何でも言い合える仲間として日本とラオスの間にラインを作った。このくもの糸のように細いラインはいずれ大きな強力なネットワークに変わってくる。

今から1年、2年。僕らとの出会いが確実に彼女達の人生に影響してくる。そうであれば少しでもその舵をまっすぐに前に進めるように手を貸すことが僕らの存在意義になるのではと思った。そこには僕は必要なかった。学生達がみんなで楽しそうにやっている姿を見て妙に満足した気持ちになった。明日に繋がるということはそういうことだよね。私、大満足。


そうして、LJセンターで1時間ほどの時間を過ごす。もっと長く話したいが次の予定が詰まっている。名残惜しそうにするみんなと別れ。Vientiane音頭を踊ってくれたことが脳裏に焼きつく。また会いに来るよ。会いに来たい人がまた増えた。13:40.出発。およそ20分で情報文化省に到着した。ここでの目的は二つ。一つは過去3回にわたる公演のバックアップのお礼と来年のピーマイのコンサートについての相談だ。「ピーマイにルアンバパンでコンサート」の中身を確認しにきたわけだ。情報文化省は思ったよりこじんまりとした建物だった。天井の高い日本でいうと明治時代の建造物(古い学校の校舎かな?)のイメージがある。

部屋に通されると壁面に大きなラオスの国旗。そうだ、ここは政府の建物なんだ。ここで数人のキーマンを紹介してもらう。前回のラオス公演が全国放送されたおかげでお会いした方々はみな僕らのことを知っていて、ルアンバパンのことも「そう、是非参加して欲しい」ということを言われた。拍子抜けするような感じだがなんとなくこれで僕らのピーマイの予定が決まった。それでも、費用とかはどうなるんだろうか?きっとそういったことでまた右往左往するんだなとちょっと憂鬱になるがそれでもこんな話をくれたこと自体とても嬉しいことだ。まあ、どうなるかわからないがやってみよう。今までに経験していない新しい何かが見つかるはずだ。話は盛り上がり円満終了。さあ、時間が無い。15:00に日本大使館に向かう。ラオスではいつもお世話になっている小野寺さんと西村さんにご挨拶。大使公邸には数度行ったことがあるのだが大使館自体は初めてだった。市内を20分ほど走り到着。町が小さいので移動が便利だ。今回の公演のお礼や来年についていろいろ意見交換を行い出発。食事をする時間もないということでスカンジナビアカフェでランチを取る。ラオスのパンは本当においしくてビックリする。のんびりお茶をするまもなくラオス航空へ向かう。毎回協力いただいているのでご挨拶をと思い訪問する。行ってみると前回のGYPSYQUEENのコンサートのポスターが張ってあった。「Vientianeばかりでなくラオス国内でももっとコンサートをやって欲しい」といわれて即答で「ラオス国内ツアーをします!」と言い切る。ラオスも広い。昨日のvangviengで実証済みだ。この国を回るだけで何年かかるんだろうとおもうがまずは最初の一歩から二歩目を踏み出した。とは続けてかけていけばいい。シェンクアン、パクセー。いろいろな都市でのコンサートを思い浮かべながら本社を後にする。ここで運転手のソンさんとはお別れだ。バスから荷物を出そうとすると「終わるまで待っていてくれる」という。契約時間はとっくに過ぎているのにまあこのナンプーからホテルに帰るのは大変だろうという思いやりだ。嬉しいよね。本当に。僕らはその好意に甘えることにして次のアポVientiane Timesに向かう。ここでは毎回取材をしてもらったりしていてとても僕らにとって関係の深いところだ。

Vientianeを代表する新聞社。そして、到着後早速インタビューが始まった。毎度のことだが、ラオス語と英語のみの取材。難しいところはおのずとラオス語になるし、ぼくらも言いたいことをすべてきちんと英語で伝えられるかというとかなり高度な話になる。それでも1時間ほどの取材を終え、また責任者の方といろいろお話をして新聞社を後にする。ここでも、「Vientiane以外の都市にも是非行ってください。私たちが取材同行します」といってくれた。ラオス国内全土で日本の音楽を聞けるという環境は極めて少ない。今僕らはリアルにこの国の中で初めて日本の音楽を伝えるものとして、動き始めている。それも航空会社、新聞社、政府に理解と協力をもとめて実施しようとしている。このレールにきちんと乗ってその成果を出すことができればそれはみんなの幸せに繋がる。そうなればもっともっとラオス語やラオスの楽曲をまなばなければいけないね。幸い、ラオスのトップスターといわれるアレキサンドラ、アルーナ、ティン、ノイの4人と僕らは仲がいい。一緒にコラボレイトした仲であるから気心も知れている。僕らがこの国で何かをはじめるときに彼女達の支援は絶大だ。

そして、その4人すべての携帯電話番号を知る唯一の日本人カメラマンGucchi氏も加わり最強の布陣となるだろう。本当に近い将来、この国を横断するコンサートツアーを行いたいと思った。すばらしいシンガーたちを連れて日本ともラオスとも区別しがたい「共演」をテーマにしたものを。そして、17:50今日の大きな予定はおおかたすんだ。あとはアレキサンドラとの打合せと撮影を残すのみだ。予定より大幅に遅れて待たせてしまったソンさんに御礼を言ってホテルに送ってもらう。「明日は大丈夫か?」いろいろ気にしてくれて申し訳ない。明日の足は確保していないがこれ以上は申し訳ないので大丈夫!と応える。ソンさん、またきたときには会いたい人だ。ホテルにいったん戻りアレキサンドラの家に行くことになった僕らは待ち合わせの時間までの合間にネットカフェそしてマッサージにいこうということになった。このままホテルで寝ていたい気分でもあるがとにかくメールチェックを怠っていたここ数日。開くのが怖い。そんな気持ちにかられて18:30。再びナンプーに向かった。

ここでネットカフェ組みと散歩組みに別れる.僕はスペシャルでマッサージ&ネットカフェ組みだ。先日と同じように20分ほどでメールチェック。そしてマッサージに向かう。ここラオスのマッサージは本当にヒーリング効果満点。思い出すだけで気持ちがよくなるような空間だ。それもたった二ドルで1時間。まさに天国のような時間である。携帯がなりgucchi氏一行がいるナンプーカフェでビアラオを飲む。ラオス滞在も最終日。キーボードのtakuoも最終日である。今日はまだまだ長いが、まずは乾杯。そしてぼくらはトゥクトゥクを捕まえてアレキサンドラの家に向かうことになった。




Gucchi氏の知り合い(なんでトゥクトゥクの運転手が知り合いなんだ?)の運転手を探したがそこは目ざとく僕らを発見したほかのトゥクトゥクの運転手がやってきた。説明をすると往復20ドルだという。それはちょっと高いんじゃないですか?お兄さん。10ドルなら考えるけれど高すぎるよ。ということでそんな交渉中に遅れてやってきたGucchi氏の友人に頼もうとした。気持ちよく(何が?)行きたいので一人一ドルで合計9ドルでどうだ。と交渉したのだがまあお友達価格ということでOKをくれた。あまり細かいことは言いたくは無いが僕が価格交渉するということは僕がその金額に満足することは重要でない。一緒にいる仲間、お金を払う仲間が納得しなければただの「たびの交渉自己満足」になってしまう。だからぼくは激しく値切る。いいわけではないけれどね。まあ、商談成立。しかし、そこに割り込んできたさっきのトゥクトゥクが「いくらになった」ときいてくるので「一人一ドルだよ」と答えた。するtお「こっちも9ドルにするから」と粘り始める。まあ、後から安くした彼のところに乗る気はなかったのだが、なにやら怪しい雰囲気。この業界にも縄張り争いがあるのであろうか?まあ、友人のためにもここはそこのしきたりに従って友人のトゥクトゥクは諦め乗車した。悪いことしちゃったかな。なんて思う。結局、彼のおかげもあって結局一人一ドルで行けたわけだ。一度ホテルに戻りちょっとトゥクトゥクには待っていてもらいGucchi氏の機材をもって再び出発。

それからパトゥサイを越えてタットルアン方面のアレキサンドラ家に向かった。彼女の家に着くと番犬祭り状態。そんなに恐れなくても。というくらい吼えられた。暗闇に大きな防犯扉が開きアレキサンドラママが出迎えに来てくれた。豪邸だ。彼女の家はやはりラオスではかなり高級というか最大級に大きく、見るからに裕福な暮らしぶりが感じられた。ピアノ室やレコーディングルーム。そこにコンピュータとミキサー。東京でもこんなスタジオあったらものすごいというようなものであった。うむ、うらやましい。そこでいろいろラオスの音楽について語った。音楽をビジネスにするのは難しい。何を引いて何を引いちゃいけないのか。そんなことから話は盛り上がった。やりたい音楽とビジネスになる音楽は違う。これはどこの国でも同じなのかもしれない。

その後にアレキサンドラの撮影となる。ドレスアップした彼女はエレガンスでティンとは対照的な美しさがあった。その間他のメンバーはアレキサンドラパパとコーヒーを飲んでいる。Gucchi氏は結局今回のツアーでアルーナ、アレキサンドラ、ティンの写真をとったわけだ。これはいつか写真集として成り立つだろうね。今回アメリカに行っていてノイとはあえなかったけれどラオスのスター3人の写真をきちんととれたことはとっても凄いんじゃないか?と思う。撮影後に来年放映される現在撮影中のタイのドラマ(アレキサンドラ主演)の宣伝素材を見せてもらった。彼女の役柄は外国からきた美少女。恋愛ありトラブルありのトレンディドラマである。表現力も十分で彼女の才能が素晴らしく輝いたものであると感じる。さて、結局2時間近くアレキサンドラの家で盛り上がってしまった僕ら。もう夜も遅い。22:00。とりあえずトゥクトゥクを呼んでナンプーのコプチャイドゥに行こうという事になった。タットルアンからの大通りまでもどりトゥクトゥクを待つ。程なく爆音を立てて到着。「さっきはごめんね」「ボーペニャン」。そんな会話で9名が乗り込んだ。

このトゥクトゥク。若干のサイズの差もあるが基本的には6人くらいで乗るもの。そこに毎回9名乗るので必ず誰か一人は箱乗りとなる。「男らしさ」を見せようと大体masaoがその役目になるがたまにmachaになると危なっかしくて仕方が無い。こんなところにも性格は現れるんだなと思う。夜の町を風を切って爆走。パトゥサイを抜け、市場を左手に見てメインストリートに入る。ラオスでの滞在も今日で終わりだ。今回は長かっただけにちょっと寂しさが募る。このドライバー、とにかくいい人でもう「GYPSYQUEEN公認トゥクトゥク」に認定したいくらいだ。よく海外にくると必ず言われるのが「ぼられる」ということ。これを恐れて相手がコミュニケーションを取ろうとしても結構敬遠したりする観光客も多い。ベトナムではシクロに乗るとぼられる、というのが定説になるくらいだ。しかし、必ずしもそうではないと思う。たしかに日本人はお金を持っているし、中には必要以上にお金を支払ったりする人もいる。彼らも仕事であるから当然、対応良くということを考えていると思うのだが、その好意に感動して多額の「チップ」を渡したりする。それはその人の気持ちだからかまわないと思うのだが、それによって彼らの相場が崩れてくることも確かだ。簡単に大きなお金を支払う日本人観光客は彼らにとってありがたい上客だ。

しかし、日本人はみな裕福でお金をざくざくもっているかというとそうではない。日本人だからとちょっと割増の相場をいきなり突きつけられては「ん?なんで?ちょっと高いんじゃないの?」とおもうことだろう。そして、それが「ぼられる」という意識に変わることもあるのだ。だからということではないが警戒心が生まれる。でも、それは善良なトゥクトゥクのドライバーにとっては不幸なことだ。何事も適正な価格と対応というものがある。その範囲で考えても彼は優秀な人材だ。きっと僕の友人がラオスにいくなら彼を紹介するだろうね。それは安いと思うし、小さい町だから小回りがきくほうがいい。そうして、また一人ラオスを好きになる人が増えればと思う。


そんな気持ちになりつつコプチャイドゥに到着。思えば今まではいつでもこのコプチャイドゥであった。今回はなかなか来る機会もなく初めてこれた。とっても雰囲気がいいけれど絶対に行かねばという店ではない。では何故行くかというとここには僕らのラオスの思い出がたくさん詰まっている。ここで教わった事、話し合った事、食べさせてもらったもの、飲ませてもらったラオラオ梅酒、飛び入りでのステージ。それらのすべてがこの店に詰まっているから僕等はまるで実家に戻るようにこの店に来る。ここに来ると今ここにいない人たちの姿が浮かんでくる。ラオスの最後の夜はここにきてそんな人たちに感謝をしたかった。乾杯!最後の夜に、Vientianeに!スケジュールもきつく深酒はしたくないがここの酒に酔いたかった。そうしているとgucchi氏の友人が訪ねてきた。ここvientianeで働く友人たちだ。さすがである。ここで僕らがライブをやるという情報もあり、そんな僕らを見にきてくれた人もいたが、この日はステージのプログラムが決まっていて(バンドセットがそろっていなくて)出来なかった。要望があればどこでも音楽を伝えたいところだが、肝心のバンドセットがないと何も出来ない。ちょっと申し訳ないことをしてしまった。でも、また来る。来年これるだろうか?いや、必ず来る気がする。そう皆も思っているだろう。今ここには「これからどうする?」という疑問は無い。「次もいいステージを見せよう」というポジティブな気持ちにあふれている。

GYPSYQUEENは確実に新世代になった。12:00。営業終了である。このところ営業時間の規制が厳しいせいか本当に12時に出されてしまった。そう考えると今回のコンサートはこの時間ですらまだ僕等はステージに立っていたんだよね。お客さんも大変だったと思う。店を出るとトゥクトゥクの彼が待っていてくれた。なんとなくメンバーもみんな彼を仲間として迎え入れている。GQ専用号でホテルに戻る。3ドルにまけてくれた。それは安い。そして、明日の帰りのバス(ホテルのバスが市場から出るのだが、なにぶん機材が多いので市場まで運ぶのが至難の業なのです)まで送ってくれるという。送ってくれるといっても朝の7時だ。しかも一台では無理なので2台は必要。そこまでやってもらったら悪いなとおもったが、「友達なんだから気にしないで」という。そんな友達。だから僕等は遠慮無しに「明日の朝待ってるよ!」といって別れた。気持ちいい関係である。ホテルの部屋に戻り明日の準備をしていたら結局2時を回ってしまった。明日も早いのでmasaoと飲むのを泣く泣く断念し就寝。ラオスでの今回の経験は僕らにとって実りあるものになった。

2006/11/29
6:00起床、Vientiane最後の朝。タイル張りの床が冷たい。エアコンフル稼働で思わず窓を開けたくなった。急いで荷造りをして朝食へ。今日は食欲ないなぁ。とおもいつつ行ってみるとおかゆだった。これがめっちゃうまくてなんとおかわりをしてしまった。健康的な朝だ。

7:30。全員チェックアウトをして出発。そこに情報文化省の人がきてくれた。予定は無かったのだが、ぼくらの帰りの足を心配してくれたのだ。朝早くにありがたい。「市場発のバスにのるためにトゥクトゥク2台で機材をはこぶんだ」というと「そんな面倒なことしないでいい、空港まで一人2ドルで機材者とバンを用意するからそれでいきなさい」という。これは安いし、なんといっても精密機器。トゥクトゥクで運ぶよりも安心だ。それでも彼はすでに待機中。さすがに申し訳ないので「人はトゥクトゥクに乗ります」というかいわないかの間にホテルのオーナーらしき女性と情報文化省の方が彼に話をしてキャンセルするすばやい行動にでられた。彼も「そのほうが安心できるし気にしなくていい」という。こればかりはさすがに申し訳ないので、それでは乗ったと思ってお金を払うよ。という。これは気持ちで払うお金だ。しかし、彼は要らないという。「友達だからそんなことをしなくていい、また今度来たときは僕が迎えに行くよ」といって走り去っていった。うーん、なんていいやつなんだ。本当にこの国は人を好きにさせる国だ。7:50.空港に向けて出発。最後にまたみんなのやさしい気持ちに見送られることになる。コイマックラオ!だ。メンバー一同みんな最後のVientianeの景色を楽しんでいる。いろいろな出来事があった今回のラオスの総決算だ。コンサートツアーも思えばもう半分となった。

セカンドステップを折り返しツアーもこれから後半の旅となるわけだ。8:15。空港着。空港には小野寺さんと西村さんがきてくれていた。いつも本当にありがとう。大感謝です。カウンター右端のベトナム航空でチェックインいつもラオス航空ばかりだったのでちょっと勝手が違う。重量もほぼ問題なかったが若干オーバー。でも、払える予算はないのでおまけしてよと交渉。いつものことだ。そこにラオス人の運転手がきて「この人たちはラオスの為にコンサートにきたんだからちょっとくらいまけてあげな」といってくれた(らしい)それが効いたのか何とかチェックイン完了。何よりも嬉しいのが現地の人たちがそういってくれることだ。僕らの一つの目標はそこにある。ラオスでコンサートをやるのは本当にそこに住まうラオス人が喜んでくれることだ。いいものも見せたい、かっこいいものも見せたい。でも何よりも大切なのは僕らが見せたいものではなくて僕らが見たいもの。彼らの笑顔だ。

その笑顔のためなら僕等は何でもできる。その笑顔をもらったお礼として僕等は最大限に努力し、ラオス語を懸命に話し、出きり限りの時間を彼らとの交流に費やす。人は一方的ではダメだし、与えていると思うのも間違いだと思う。与えているのではなくてその分違う何かをもらっているのだ。だからこうしてコンサートに着てあげているのではなくて「あなたに会いにこさせてもらっている」といつもおもう。小さなことだと思うでしょう。運転手の一言にそれほどとおもうことでしょう。でも、違うのです。僕等はこの一言をもらうためにこの国にきているといっても過言ではないのです。そして、この一言から次のたびはスタートするんだな。これは僕らに対する最高の贈り物なのです。


9:00。無事に税関へと進み、小野寺さん、西村さんとお別れ。また来ますよ!そんな別れのシーンはいつもちょっとさびしい。搭乗ゲートで待つこと数十分。Shinonの携帯がなる。ゴーさんだ。そういえば昨日、帰りのバスの途中で降りて「ここがうちなんだ。またね」といって別れた。その後合流することも無く(僕等は情報文化省で合流するものと思っていた)「なんだかしりきれとんぼだよねぇ」なんていっていたのだ。そんなゴーさん。今空港についたという。でも、ゲートに入ってこれるわけ?なんてみんなでわいわい言っているとあっさりと登場。そうかこの人は役人だったのだ。そんなさりげない登場に「おいしいところもってくな〜」の声。憎めない人です。そして、一枚のCDを差し出した。「約束のCDです」。そう、vangviengで演奏した曲を僕らもカバーしたいとおもって是非その曲を教えて欲しいと昨日いっていたのだ。それをちゃんと覚えていてコピーしてきてくれた。律儀といえば律儀。ちゃんとカラオケバージョンも収録されている。

ゴーさんとはここ数日ずっと一緒にいた。最初に空港で会ってITEQQに行ったときにはお互いあまり話をしなかった。お酒を注ぐだけでちょっと退屈な仕事モードだった。コンサートが終わったあとものすごくよかった!と喜んでくれた。二日目の公演では集合時間になってもまだまだ大丈夫とビールを追加注文していた。Vangviengでは大酔っ払いとなり、大声で歌ってmasaoにビールをつぎまくってshinonとダンスを踊るおちゃめさ。翌日の帰りのバスではぐったりしてまったく動けなくなっていた。たった一週間でいろいろな顔をみせてくれた。そして少しづつ僕等は仲間になった。今回のフィナーレはここだ。この空港の別れからそれくらいの時間がたつのかわからないがまるでワープしたように再び彼と会うことだろう。そのときはこの曲をマスターした僕らが歌う番だ。コプチャイ!ゴーさん。ラオス最終日の最後の最後まで本当に最後までみんなのやさしさに触れて僕等はベトナム航空に乗り込む。今回はコンサートでは100%満足できるものを残せなかった。しかし、単独コンサートでないのでそれは仕方が無いことだった。しかし、今回ラオスに来たことは僕らにとって正解だった。こんな最高の経験をさせてもらった関係者のみなさんにただただ、感謝。ベトナムではどうなるだろう。「もっとここにいたいよぉ」shinonはいう。ぼくらのインドシナでのホームグラウンド。それでも出発の時は来る。


あまり深く考えてはいけない。楽しく、面倒くさくなく、あっさりと。それがラオス人の気質であると思う。さあ、これからHo Chi minhだ。気持ちを切り替えていこう。10:10VN841便にてHCMCへ飛び立つ。Vientianeの町があっという間に小さくなる。ポッカンマイドゥ!また来るよ!ほぼ満員の機内ではラオスを懐かしがっている余裕は無かった。この移動時間で様々な事務作業をこなさなければいけない。もらった名刺の整理、デジカメデータをPCに落とす作業。ベトナムでのスケジュールや楽曲の考え方。主催者のカバントランさんからは「ベトナムについたら電話を下さい」と一言言われただけだ。

おおよそのスケジュールはもらったがかなりアバウトなもので結局「ついてみないと」まったく分からない状況である。コンサートのスケジュールも増えたり消えたりで不安定だ。まあ、そのへんのことは「ついてから」考えようということになり、それぞれの作業に没頭する。一通りやることも終えて窓の外を見る。だんだん高度を下げているので大地も見えるようになって来た。広大な茶色の台地だ。ふと、昨日のJLセンターの子達のことを思い出した。ほんの数ヶ月前に初めてあった子達で、僕自身はそんなに会話をしていないからよく打ち解けていない部分もあった。それでもviviちゃんを見たときの彼女たちの反応は「私たちの友達が帰ってきた」というような感じだった。この「私たちの」と見えたところがなんだかとても嬉しかった。もうひとつの社会ができていた。彼女たちは僕らと関係なくこれからも連絡をとり会話をし悩みを相談しそして成長していくのだろう。その中に僕らの仲間がいる。交えてもらっているのではなくて必然として彼女たちと一緒になっている姿を見て、そして、viviちゃんと話す彼女たちのあまりにも打ち解けた表情をみて何かを感じた。

そんな風景を思い出した。よかったなぁ。Vientiane。そうしているうちにシートベルト着用のサインが出る。着陸だ。Vientianeから1時間ほどでプノンペン着。ここでまた乗り継ぎをしてho Chi Minhに向かうのだが、結構ここでも1時間が長く感じる。ショップのお姉さんにクメール語を教わったりしつつ時間をすごす。途中Viviちゃんが無料のネットカフェがあるといっていってみると有料であった。「無料のところってどこ?」ときくとさっき僕が行ったところだった。そこは有料と書いてあったのだが、「隣の人も勝手に使っていたので」という。まあ、そのとおりだ。あいているんだもんね。そのたくましさに脱帽。 そんなこんなで搭乗時間となり再び同じ機材へ。そして13:10。Ho chi minh着。機体を離れるといきなり蒸し暑さが襲ってくる。そうだ、ここはラオスよりもずっと南の国。一週間前を思い出させられた。ちょっとヒーリング気分に浸っていたのでみんないきなり目を覚まされるといった感じだ。税関を出たところで坪田さんと合流。なんやかんやで今回はものすごくお世話になっている。コンサートまでの予定を相談させてもらって一安心。ラムチューン関係のことには気を使って準備をしなければいけないのでいろいろ質問をする。

そうしながら出国のサポートもしてもらって何事も無く外に出る。クラクションの音、ざわめき。都会に帰ってきたという感じだ。そこに僕らを迎えにきてくれたVNAHのスタッフと会う。タンさんだ。彼はVientianeにもいたらしくコンサートの様子を知っていた。15人のりのバンに乗り込み出発。荷物があるのでこのときはぎゅう詰め。蒸し暑い、空気葉汚くセキが出る。みんな覆面バイク祭りである。今日から第三ラウンドの始まりだ!



市内に向かいバスは走る。途中線路を越えてから入り組んだ道に入る。おおよそ地理に詳しい僕だがまるでまかれているかのように右折左折を繰り返して今自分がどこにいるかわからなくなる。細い路地に入ってまっすぐ。ちょっと派手派手しいカラオケの隣の小さなホテルがDong Dung Hotelであった。地味ながらも南国特有のカラフルさもあってまあまあだ。

14:30チェックイン。さっそく荷物を置いて出かける用意をする。なにしろ滞在期間は短い。初日に何を準備できるかでここ数日の行程が段違いに変わる。そんなこともあり荷物を置いてすぐのスタートだった。15:00。まずはいろいろな人に連絡をしなければいけない。そのために携帯電話のシムカードを購入しラオスのものと交換をする。便利になったよね。このカード一枚でさまざまな情報を管理できる。難点といえばなくしてしまったら何もないということ。まあ、それはあたりまえか。今回ここで会う人に片っ端から電話。アポを取らせてもらう。そんな連絡をとりつつまずは戦争博物館に行った。別に観光をしたかったわけではないがこの国の歴史を知る上で見ておかねばいけないところだと思ったからだ。そこは無造作に米軍の戦車やヘリコプターが展示されていて、その周りに数軒の展示スペースがあるという感じだった。最初にみたのは僕らが日本でよく見るベトナム戦争の軌跡を追ったものだった。正確にいうとそれをもうすこしリアルにしたものだった。

そして、戦争時代の監獄のもようや歴史書、世界の反応など様々な展示がされている。見ているだけで気分が悪くなるものもあった。これは過去であって現在でない。この展示物にはベトナム語、英語、そして中国語とたまに日本語と説明がついている。それらを真剣なまなざしで見ている米国系の若者がいる。それが現在であった。人間は過ちを犯す生き物だ。ただ、何かを知ることで学習機能を持ち同じ間違いを犯さない能力をもつのも人間だ。人は本質的には怖い。僕らだって大切な人を奪われたら、奪われそうになったら全力でそれを守ろうとするだろう。守るための諍いなのか、それとも奪うための諍いなのか。どちらであっても残るものは大きな傷跡だけである。

このベトナムはとても若い国だ。30代を中心としてそれより若い人がたくさんいる。逆に40代より上の人間はとても少ない。ここは戦後30年。日本でいえば昭和50年。新しい息吹と変革のターニングポイントの時期に差し掛かってきているとおもう。なんとなくメンバーも言葉が少ない。見ておいてよかったと思った。軽口をたたかないように、知らないのに語らないように。まだまだ、知っておかねばいけないことはたくさんあるし、今はその入り口だ。でも、ことあるごとに知ろうとしよう。知らなきゃ始まらない。

戦争博物館を出て僕等は中心部にあるZENPLAZAに到着した。ここの社長の福川さんに会うためである。ベトナムでがんばっている日本の経営者にあえばいろいろな現地事情が分かるに違いない。そう思っての訪問だった。到着してみるとまるでパルコのような白いきれいなビル!入り口では蒸し暑い中でクリスマスの装飾がなされている。こんなに暑いのにサンタはソリに乗って雪原を走っている模様。なんだか不思議だ。ちょっと訪ねたときにシンガポールの航空会社JETSTARのキャンペーンをやっていた。これは奇遇。何故奇遇かはまたいつかお話できると思うが今回は内緒。
館内を丁寧に案内してもらってなんとなくベトナムでの日本企業のことや経済のことを教わる。僕らがここでコンサートをやるにはいろいろな仕組みを知っておかないとね。時間的には1時間程度しかいることが出来なかったがかなり満足。そして、僕等はバスに乗り込んだ。タンが言う「今日の打合せは中止になりました」ん?コンサートのことは大丈夫なんだろうか?何を差し置いても公演の打合せをしなければいけないタイミングなのに打合せ中止。かなり不安になる。公演を成功させるにはまずはコミュニケーションだ。

多くのグループが参加するこの公演にはそれなりの意思疎通が必要だ。まあ、主催者がそういうなら仕方ない。不安に思いつつも僕等は予定を変更して「ノーン」というレストランに行く。そういえばベトナム料理をきちんと食べるのははじめてかも。そのお店はとても混雑していた。人気店なのかな。常々思うが僕等はこういった観光客の多い有名店は望まない。もちろん、文句は無いがどうせならベトナム人が普通に行く店で食べたいものだと思う。ここでようやく「333(バーバーバー)」を飲む。うまいっ。これは最高だ。やはりその土地のビールはどこでもうまいよね。そんな話をしつつ盛り上がる。ミーティングがなくなったことはすっかり忘れていた。この切り替えもアジアでは必要だ。悪意があってやっていることではないしね。「気にしない」の精神である。20:30夕食後ここでtakuoが帰国する。ツアーメンバーが一人減ってしまうことはさびしい。みんなで見送りにでると本人はちょっと恥ずかしそうだった。今回、初めてのラオス、ベトナムツアーにきてもらったがその性格からかあっという間にメンバーに溶け込んでくれた。これは旧友として非常に嬉しいことである。そんなメンバーともお別れ。一足先に日本へ帰る。

Takuoを見送ったメンバーはタンの良く知ってるマッサージ店へ移動して足裏マッサージへ。8万ドンで70分という激安!ちょっと怪しい雰囲気の店だがメンバー全員で受けていれば問題ないだろう。そうおもって全員でGO!それなりに心地よかったのだが終わりがよくなかった。一緒にいったメンバーがぼられる。マッサージ料金12万ドンにチップを20万ドンとられたのだ。トータルで32万ドン。まあ、日本円にすれば2300円程度だがやはり気持ち悪い。こういうことがあるといきなりテンションはローに落ち込む。いやだよね、このはっきりしないということ。僕はといえばなにやらチップをくれといわれたのだが、「no」と答えて終了。マッサージしている人は給料をもらっていないという。だからチップで生活をということらしい。しかし、そんなはずは無いでしょう。と思い無視をしてすました。とはいえ誰でも強気でいけるわけではない。でもこういう経験が元でこの国を嫌いになる人も多いだろう。それはこの国にとってマイナスだよね。くれぐれもぼり過ぎないようにて指導を入れたいところだ。チップって感謝の表しで決して義務ではないからね。そこにタンが迎えにきた。タンは「どうだった?」ときいてくるので「最悪」とだけ答えた。

些細なことです。でも些細なことで人は気分を浴したり悪くしたりする生き物なんだよね。なんとなく怒りの雰囲気があふれる僕等はタクシーに分乗してライブハウスに向かうチームとホテルに戻るチームに分かれる。ライブハウスチームのテンションは高まっている。Masaoも「チップを10万ドンくれ」といわれて「なにいってんのあんた」と日本語で反撃。そんなテンションのままサイゴン川沿いのSeventeen Salonに向かう。何かおきそうな予感。である。


22:30。Seventeen Salon到着。ここはこの町でもかなり盛り上がると有名なライブクラブである。一階にフィリピンバンド、二階にベトナム人バンドときいたので迷わず二階へ。会場にはいるとよく海外でみる普通のライブクラブといった感じだった。僕が想像していたものとは大きく異なった。といっても具体的なイメージがあるわけではない。なんとなく社会主義ということで欧米や日本のそれとは異なるものであろうという気がしていた。多くの期待をすることもなく、もしここで何か出来たら楽しいよね。みたいな感じだった。会場に入ると聴きなれたロックががんがんにかかっている。このハコのバンドが演奏しているのはみな洋楽のヒットソングであった。

「ベトナムは社会主義だから」「アメリカと戦争をしたから」そんな思い込みで「別なもの」と思っていた。しかしここは何の変わりない「ロックの現場」であった。唯一厳しいのは終了時間だという。12時には終わらなければいけない決まりがあるそうだ。そんなのみんな守れるのかなぁ。と思う。まあ、その時間までいればこたえはでるけれどね。ここで福川さんと合流して僕、macha,masaoタン、vivi、福川さんの6人で飲む。足裏から爆発気味のmasaoがむずむずしている。これ以上放置しておくことは危険である。

「masaoたたいてきてよ」というと「いいですよ」とかなり乗り気である。さっそく店の人に「ちょっと2,3曲やらせて欲しい」と打診、あっさりOKをもらった。ただ、なんとベーシストが左利きであったりして、「逆さに持てば大丈夫。」とかわけのわからないことをいわれたが、僕は断る。結局masao一人がゲストドラマーとして参加することになる。ステージで「masao sa-n」と派手派でしく紹介されて早速フィルから入る。この辺はさすがである。最初にガツンとやることは重要なのだが、たいていの日本人は軽めにスタートするものだ。でも、masaoはいつも最初が肝心。怒涛のドラム嵐だ。結局2曲たたいたのだが終始masaoがリードする形でステージを降りた。これはめっちゃ凄かった。なんだか嬉しいね。仲間がこうして評価を受けることは心からの喜びだ。Masaoのドラムは本当にものすごいパワーがある。いつもドラムから始まるのは彼のパワーを信じてのことだ。

オーナーも「いつまでいるの?次はメンバー全員で出演してくれないか?」という。快くOKを出す。よいものであればこうして評価されるのね。そして飲むこと一時間。マッサージのトラブルもあっさり忘れ12時に迫る。ギターがカウントダウンをはじめる。そう、12時の鐘だ。そして見事に12:00。ステージは終わりそそくさと外に出た。さすがに価格的に結構高いお店で思わぬ出費となってしまったことをご報告。でも、最高の気分転換となった。0:00。ホテルへタクシーで向かう。着後0:30よりミーティング。明日のスジケジュールとかいろいろ確認事項もある。ここでも眠くなりかなりやばい。まずいなぁ。今回は充電するポイントがなかなか見つからない。1:00。終了し自分の部屋に戻る。やたらだだっ広い部屋で就寝。

2006/11/30
6:00起床。最上階の部屋の窓を開けると街は静かに朝焼けに染まっていた。今日はmuineに向かうために一度チェックアウトしなければならない。このホテルにおいていくものと持っていくものを整理して朝食へ。7:00朝食、主催者がそこに現れる。昨日打ち合わせできなかった分いろいろはなしたかったのできょう調度よいと思っていろいろ話をする。そこで次々にわかる事実。「コンサート会場にアンプはないけれど持ってきているか?」「2日のスイティエンパークのオープニングに出てもらうことになった」「今日このあと10時から打ち合わせを行う」。。全てがいきなり、そしてあまりにも話が違うことばかりだ。今回はコンサートをおこなうために来ているのでそのために全ての時間を費やす気持ちでいた。予定が決まりあまった時間にいろいろなアポを入れた。昨日もこちらの予定を確認したはずだ。しかし、そんなことはお構いなしで予定を組まれる僕ら。でも、僕らにも約束がある。約束とは断ると約束をした相手に迷惑がかかる。だから予定を組む、スケジュールを確認するということがおこなわれるのだがそれをあまりにも無視をした言動にいささかカッとしてしまった。

アンプについても2日の公演にしてもあまりにもでたらめなやり方に英語のわかるメンバーはらは明らかに不満の色は隠せない。ここでスケジュールを変えると関係ない人に迷惑をかけることになる。そんななし崩し的なことは絶対にしたくないので、今日の打ち合わせを全て断る。いわゆる予定通りだ。僕らが音楽の中でできることは全てやってきた。Yesという美徳があったが、他の第三者を巻き込まないためにもNoといわねばならないときがある。今わかっているのは最悪、今日の予定をキャンセルしMuineのホテルもキャンセルし、当日はアンプなしで演奏する。ということだ。鵜呑みにすればそうなるが僕らはその言葉を呑まなかった。とりあえず携帯で会議の状況は確認することになった。アンプについても確認するという。2日はあえて断ることはないので状況しだいでできる範囲で対応したいと告げた。

その場にいたベトナム系米国人のサンドラからも「あなたたちの言っていることはよくわかるわ、私も協力する」といってくれた。きちんと主張するときはしよう。それが合っているか間違っているかはわからない。でも公開しない選択肢を舵取りの僕はしなければならない。そして、ぼくらは北東に進む。8:40.ホテルを飛び出すように出発だ。

今朝の食事のときのごたごたがあったのでみんな心なしか気分が乗らない。それはそうだ、あさってのことが見えない形でこの街を離れることは不安があった。でも、そこはぼーぺにゃん。携帯で逐一確認すればいい。それにこうして出発した以上考えても何も変わるものではない。僕らにできるのはこまめな状況確認とその時々での最善と思われる判断だ。市外をあっという間に抜けてまっすぐな国道に入る。今日は4時間のロングドライブだ。しばらく混雑した道を行くとだんだん車の数も落ち着きを感じさせる。バイクの量が減って車中心の道になる。こうなるとここがベトナムかどうかわからない。40分ほどたつと右側に大きなモニュメントが見えてきた。岩山。まるで小さくしたビッグサンダーマウンテンのようだ。そう、ここが明後日の公演地であるスイティエンパークであった。どこか中国を感じさせる金色の竜やなにやらがま蛙のようなモニュミエントが入り口にそびえる。中には入らなかったがなんとなくイメージをつかむ。ミッキーマウスらしきもの、キティチャンらしきもの。もちろん違う名前のキャラクターではあると思うのだがこの辺の感覚が面白い。妙な感心をしつつ車は飛ばす。

1時間もすればすっかり田舎風景だ。今回はvangviengといい今回といい長旅が続く。道中では少しでも休養ととろうとお休みモード。でも車の振動でなかなか眠れない。そうしているとドライブインのようなところについた。ここでちょっと休憩。Viviちゃんがエンゼルパイのようなものを買っている。保守的な僕はカッパエビセンのようなものを購入。ドリンクも多種あったが僕はコーラ。Machaはみたことのないドリンクを飲んでいた。しかし、machaはおおはずれだったようでかなり苦戦。

車に乗り込むとviviちゃんがエンゼルパイもどきをみんなに配る。ドライバーのトンのために一袋空けてあげたのだが、なぜか中は真っ白だった。よく見ると白カビが。ちょっと不安に思ったがまあ、なんとなくそのままトンに渡してしまった。トンはそれをおいしそうに食べていた。大丈夫かなぁ。まあ、大丈夫だろう。そしてぼくも試食。甘いイメージだったがまったく甘くない。まあよくあることだよね。海外のお菓子って。さらに1時間。アオザイをきた学生たちが道路わきを自転車で走る。特徴的なのはアオザイのすそをハンドルの手に持ってのっていること。たしかにひらひらしているとタイヤに巻き込むよね。みんなそうして乗っているので見ているとなんだかおかしい。助手席に座るmasaoとコンビを組んだトンは遠慮なしでベトナム語でいろいろ説明をしてくれる。不思議となんとなく大体のことはわかるものだ。そうしているうちに右側がだんだん開けてきて南国特有の果物畑が出現。そして程なく見えてきた。海だ。端を渡りファンティエットの街で少し休憩。海につながる河口にはたくさんの漁船が止まっている。それもカラフルな色使いで写真を撮るには絶好の被写体だ。地元の子供たちも寄ってくる。シャイなそこのたちにカメラを向けると恥ずかしがる。なんだか、ほのぼのとした街だ。Ho Chi Minhとは異なる感じである。そしてさらに走ること10数分。


僕らは海岸線にたどり着いた。ここはmuine。最近開発されつつあるビーチリゾートである。なんだか湘南にきて海が見えてきたごとくみんなのテンションは高まる。「やばいっすよ」日ごろスタジオとコンビにの往復で人生を行き続けているSAKAI氏も感動。海岸線が見える。真っ青な海だ。ベトナムにこんな素晴らしいビーチリゾートがあったとは!13:30僕らの滞在先のパルミラリゾートが見えてきた。カラフルな建物が空の青さに映える。喧騒を離れまるで違う国に来たようだった。その後ランチに向かう。海沿いのシーフードレストランに行く。どれも新鮮で価格も安い。うーん、なんてすごしやすいんだろう。しばしバカンス気分を満喫。ツアーも折り返して疲れも出ているところだったので本当に精神的に休まるといった感じであった。食後ホテルに戻り海の見えるビーチサイドのコテージへ。

アルーナのリゾートでは川沿いのコテージ。そして今回は海沿い。なんとも豪華である。で、やることといえばリハーサルだ。ここが他のお客さんとは異なる点。海を見ながらリハーサルなんとも贅沢な使い方ではないか。ここで、僕らはベトナム国歌、ラムチューンの曲の音とり作業に取り掛かる。今日こんなにのんびりした分この先は日々ことなる公演だ。2日にスイティエンパークとライブハウス、3日にオオペラハウスの主公演、4日にビンロンの小学校、6日に天皇誕生日レセプション。それらの曲はことなり、また同じ曲でもアコースティックの場合とバンドの場合など複雑に組み合わさっていた。それらを確実に頭に入れるためにもビーチサイドでビール。とは行かないのである。ちょっと残念。でも、遊びに来るのはいつでも来れるからね。15:30。そう割り切ってリハーサルをスタート。ここにきてmasaoにスランプが訪れる。

国歌のドラムが構成できない。まあ、確かに国歌を演奏する機会もないので「こういうパターン」と決まりきったものはない。全てがイマジネーションで構成される。こういった根本からのアレンジというのはもう歌心を感じるしかない。その曲のイメージ、歌っている人の感じ、会場の雰囲気。それらを想像してそれを音にしていくのだ。かなりはまってしまったmasaoのためにリハーサルは打ち切り。部屋に戻り個人で仕上げてから再度集まることにする。その間にmachaは「涙のキッス」のラムチューン版の音取りをするという。僕とmasaoはいったん部屋に戻った。この曲、基本的にエイトビートをたたけばなんなくできる。スタジオミュージシャンであれば間違いなくそれでOKだ。

だが、僕らはGYPSYQUENという個性を持ったバンドだ。誰にでもできることをやりたくはない。だからこそ曲に合わせたリズムは重要であるのだ。ちょっとしたことにも工夫を凝らしたい。たいていの人にはわからないかもしれない細かいこと。デモ中にはそんな細かいところをサーチしてくれる人もいる。ちょっとしたウイットをだすために僕らは時間を費やす。部屋のベッドでmasaoは何度も同じフレーズを繰り返す。僕は海の見えるデスクでこのツアレポを書く。「うーん」悩んでいるmasaoの声が聞こえる。僕はひたすらレポートを書く。ツアーのときは余計な遠慮は要らない。一人の苦しみはみんなの苦しみだ。一緒に戦うという事はただ手を貸すことだけではない。同じ時を無駄にしないようにそのほかの部分を組み立てる。次の一歩のために。それがパートナーだと思う。いい物を作ること、やるべきことをやるために全ての時間を費やしたい。


撮影に出発の準備。そう、ここmuineに来たのは撮影のためだった。ここはベトナムでもっともきれいといわれる赤土の砂漠がある。海に突き出した半島の部分にあり、写真でみた風景は海と砂漠のコントラストがとても美しかった。写真ととるなら光線のきれいな夕刻しかない。夕暮れのワンチャンスを狙うために僕らは砂漠に向かう。といっても結構な距離があり30分弱の道を行く。途中muineの漁港に差し掛かる。海には小船がたくさんうかび、たくさんというか海一面といったほうがいいかもしれない。何をとりにいくのかわからなかったけれどもう活気にあふれた漁港である。ここはニョクナムの産地でも有名だ。窓を開けると独特の強烈なにおいが社内に漂う。それでも不思議なものでここにいるとその匂いもあまり気にならなくなるのが不思議だ。砂漠が見え始め期待感は募る。海沿いから内陸に進路を帰るとすぐに砂漠は姿を表した。さあ、行こう。この暑い中、衣装をきた不思議な一団が砂漠に入る。砂漠の砂は思ったよりも細かく歩くのも困難だ。


サンドソリで遊んでいる子供も多く、そんなことだからものすごく滑りやすくて歩くのに苦労する。そして、台風「ドリアン」の影響空かものすごい風だ。写真をとるたびに髪の毛はツッパリ君モードに。うーん、ちょっと微妙だ。とはいえ僕らに時間は無い。「今日は風があるから撮影は明日ね」なんて余裕は無いのだ。一発勝負。そして、陽は刻一刻と落ちてゆく。さらに時間との勝負。Gucchi氏のたくましいダッシュとなれば助手を務める美香さんも大変。なんだか申し訳ない感じだ。こうして夕暮れのmuineの砂漠でのショットは完了。ギリギリセーフで太陽は西の山に沈んでいった。デジカメのよさで取れた写真をその場でチェックする。これはもうすばらしい世界でした。(モデル以外)本当にいい絵を取るよね。と一同感激。きっとこれは来年のアルバムなどに遣わさせていただくことになるだろう。Gucchi氏のダッシュに報いたいものだ.砂漠で見た砂はとても美しかった。光の角度で表情は変わり、些細な風の流れデモ用は変わる。自由自在だ。なんの規則性も無く刻々と変わる砂漠の表情。久しぶりにすばらしいものを見た感じだ。夕日が落ちるといきなり暗くなる。街灯も申し訳程度のものしかない。かすかに海の果てに見える夕焼けに映し出された漁港は命の息吹を感じる。小さな灯りが見える。それぞれの小さな船に一つ一つの生き方、人生がある。こうして、漁をして生計を立てている街。幻想的なほど美しい夕焼けと雑然とした港をあとにして僕らはホテルに戻る。ホテルに戻る途中は海側はリゾートホテルやレストラン、内陸側はショップと大きく分かれている。一度ホテルにもどり、僕はトンに近くのネットカフェに連れて行ってもらう。

そろそろメールチェックをしなければ、とおもいつつアクセスをするが日本語のフォントが無くみることができない。Niftyからの転送なのでそのサーバーが見れないとなるとこれはもう無理なので断念。夕食の場所探しとなった。ずっとベトナム料理だったので気分を変えようということでイタリアンか韓国ということになり、結局イタリアンになった。ここがベトナムであることを忘れさせるようなイタリアンなレストランへ。吹き抜けになった店内は開放感があり、アジアと欧米のいいところの融合である。ものすごく素敵なレストランでやはりぼくらは「333」を飲む。トンも一緒に食事をしてみんなで盛り上がる。

ツアーは何事も全員一緒であにとね。これにはちょっとぼくなりの理由がある。僕は子供のころから登山に行っていた。というかつれられていった。山というのは不思議ですれ違う人みんなに「こんちは」と声をかけるのだ。それも全員。なので、大勢とすれ違うと「こんちは」祭りとなる。登っていて、下っていて疲れて意気の上がるときでも「ほんちはぁ」と。そんな理由を親父に聞いた。「何で知らない人に挨拶するの」。「山は危険なところだからいつどこで危ない目に会うか分からない。すれ違った人に助けられることもあるし山を登っている人、みんなが仲間だと思うと心強いだろ」。そうか。子供後ごろながら感心した。確かに大自然は危険なことがある。そんなときに助け合えるのは同じ人間同士である。だから、出会った人はみんな仲間だという意識をもっていけばさびしくない。ということでもあるとおもった。そんな生き方をして数十年。いまだに仲間意識は強い。一緒に旅をしていればなおさらで、みんなで助け合っていかねばツアーはうまくいかない。異国の環境において僕ら同士、どれだけ強く手をつないでいけるかというのはイコールツアーの成功に繋がるのだ。

そうしてトンもツアーメンバーとなった.夜。21:30。ホテルに戻る。かなりムイネーだが(失礼)まだまだやることはたくさんある。昼間machaが音をとったラムチューンの曲の合わせだ。酔いもあってへんな盛り上がりをする。こんなに眠いのに。でも、眠いときってテンションが妙に上がるんだよね。なんとなくいい雰囲気になってリハーサル。Masaoも勘を取り戻してきたようだ。元々のパフォーマンス力はめっちゃ高いわけだから自信を持つことが一番。自信ってどこから出てくるかというと努力をした自分の中の達成感。昼間とは異なってパートとしてのドラムではなくメロディを効きながら一つの音を出すドラムとなっていた。これで大丈夫だ。プールにはいるまもなく一人練習したかいあって無事終了である。23:30.取り合えず打上げ(なんの?)となる。たった一泊であったがここに来てよかった。いまだにHoChiMinhの状況は見えてこない。電話をしても繋がらないので今日のジャッジはさけることにした。でも、明日には分かるだろう。みんなそう思っている。中国式であればあたりまえのことでいちいち目くじらを立てることは無い。そうしていろいろ話も盛り上がり気づくと1:00.もうだめだ。スーツケースも片付けていないので一足先に部屋に戻る。まあ、masaoは当分戻ってこないね。片づけを簡単に済まし国歌のアレンジをもう一度見直す。全体の流ればかり気にしていたので肝心の自分のベースラインの構築をしていない。ベーシストとして恥ずかしくないように一人でフレーズを作る。メロに酔ったほうが良いか、シンプルにバックに徹したほうがいいか、と考えた末にオーソドックスなパターンを選択。ドラムが複雑なビートを出しているのでお客さんに分かりやすいように組上げてみた。なんとなく出来た頃には2:30。Masaoも帰ってきた。早く寝ておかないとと強制就寝。ここでできた作業はかなりツアーを建て直す上で有益な時間になった。明日からがんがん行くぞ!


2006/12/01。6:00起床。Muineで始まる12月だというのにここは夏だ。世界は何て広いんだと実感として思う。窓を開けると熱気交じりのさわやかな潮風が部屋中に流れ込んでくる。Gucchi氏はきっと一足早くこの素晴らしい海に上る太陽をみているんだろうなぁ。あとで写真で見せてもらおう。そう思いつつも僕も外に出たくなって朝の散歩をする。プライベートビーチから波打ち際を数分歩いたところで漁師たちが地引網をやっている。一寸法師の乗るような丸いおわんのような船で器用に網を手繰り寄せている人もいる。うーん、ここは海の町なんだ。すっかり観光気分に浸って散歩も終了。それにしても本当に言葉で言い表せない美しさよ。なんだろう、海なんだけれど潮くさくないんだよね。

7:00になったので朝食に向かう。これもオープンエアの空間だ。こんな雰囲気でメンバーと食事。なんだかイメージが合わない僕ら。ちょっと豪華すぎるシチュエーションだ。SAKAI氏はしきりに「人生見直そう論」を語る。そうだよね。僕もこの環境にいると人生やり直したくなってくる。昨日までの緊迫感は何処へやら、十分にみんな充電できたみたいだ。太陽の光をたっぷり浴びてきれいな空気をたくさん吸って心の光合成は完璧だ。さあ、街に戻ろう!部屋に帰って荷物を整理する。部屋にはなぜかヤモリが住みついていた。このヤモリの大きなものをトッケというらしいがこれはvangviengから僕らの話題の中心。Gucchi氏の解説はみんなの笑いのつぼに思いっきり入り、そんなことからもリラックスしている感じが伝わる。今までたくさんのツアーをしてきたけれど今回は本当に和気藹々としたツアーになっている。

それはバンドの精神衛生上とてもいいことだ。なにしろ、ステージで緊張はしないとはいえ、真剣勝負。いろいろ気疲れをするものだ。だから、せめてツアーメンバーには気を使わない信頼関係が必要。それは演奏面にも必ず影響するからだ。部屋をチェックアウトし9:00出発。名残惜しいが僕らはmuineを出発。程なく走るとトンが急に車を止めた。なんでもとてもおいしい干物があるらしく、お土産をかいたいらしい。つられて試食するとめっちゃおいしい。それはやばいね。ということで思わず2袋購入。2つで3万ドンだからかなり安い。バンは昨日来た道をひた走る。途中目の前にたくさんの木の枝を積んだトラックが走っていた。信号で止まるとその車の後ろに伸びている枝を引き抜いてもっていってしまう人がたくさんいた。「あれは何?」ときくとサトウキビだという。これってちょっと泥棒では?まあ、小さいことを気にするなという事か、トンが大声で笑っていた。いろいろ明日にせまったステージに備え車の中では曲の練習をする。昨日来、すっかりうちとけたトンに歌の発音を教わる。ベトナム語の発音は本当に難しくてかなり難解だ。それでもトンの行った後に続いてなんとかそれっぽくなるように教わる。Shinon,viviちゃんと積極的なのはいつも女性である。トンもこの二人にどんどんベトナム語を教えている。僕も歌の発音をチェックしてもらう。思えば今回、タンが予定がつかず運転手のトンだけで、ということになった。

「彼は彼は英語がわからないので何かあったら電話をくれ」。そうタンにいわれたのだが、もうそれは必要なくなった。タンから電話が入る「問題あるか?」。すかさずviviちゃんは答える。「大丈夫トンに聞いて何とかなっているよ」そんな会話をしつつ旅は続くのだ。この頃になって僕はこのツアーを通じて作り始めた曲のイメージが固まってきた。今回、(まだ終わってはいないが)一番強く感じたのは「ここは人を好きにさせる町なんだ」ということ。そんなことをいろいろなところで知ることができた。まあ、つきつめればそこに住まう人を好きかどうかという事になる。出会ったことによってその人もそしてその街も全て好きになってしまう。そんな魅力的な街や人について歌う曲だ。まだまだ、旅の途中で完成はしていない。でも、きっと残り少なくなったこの道程を行くうちに完成となるのだろう。日々イマジネーションは拡大しつつある。そんなここでなければ体験できないことを文字にして残そうと思う。一期一会。そして、それは大事にしたい人が増えることに等しい。退屈なバスの中は充実した時間にするのに最適だ。ラオスで作った「ヒューレオ(おなかすいた)song」もなんとなくアレンジしだいではかっこよくなるのではと思う。メンバーのインタビュー、viviちゃんのベトナム語講座とネタには尽きない。


そして、12:00主催者から一本の電話がきた。明日のスイティエンパークのコンサートに出演して欲しいというオファだった。ん?ちょっとまてよ、明日はないって言っていたよね。そう思いつつまあ、悪い話ではないし、主義主張はまったくないので「お客さんが喜んでくれるなら」という軽い気持ちで引き受ける。そして、機材の確認をしたいので会場に来て欲しいという。でも、それは不可能だ。僕らにはアポがあってそれをはずすことは失礼に当たる。だからここを出発のときに予定についてしつこいほど聞いたのだったが。そして、shinonにも連絡が入る。「下見をしなければ明日は出演できない」。ん?なんだかおかしいぞ。いきなり予定をいわれてなんとかなるものと思っているのか?それはおかしすぎる。あれほど「優先させるので」と伝えてあったのに結局連絡もなく、そのままだ。それでいて「今すぐ会場に来い、絶対にこなければいけない」という。理由なきルールを乱発する人は好きじゃない。それならば答えは「NO」だ。僕らにも計画がある。それを時には貫き通すのは僕の重要な役目となると思う。メンバーを守ることも仕事だ。明日の公演はキャンセルをした。「誰か一人でも」といわれたがその誰か一人がどうやってそこに行き、だれと何時に何を会話するのだ。そういったことをきちんとできない相手との約束は危険だ。12:50。再びホテルにチェックイン。そしてすぐに外出だ。会場に向かう。明日の公演を断ってよかったものか自分の中の葛藤はある。でも、よかったのだ。地に足をつけてやらないと、全てがうそになる。今は一緒に旅をしている仲間を大事にしよう。 そして、14:00。オペラハウスへ。ようやく会場を見ることができた。思ったより小さいけれど奥行きは結構ある。なんといっても歴史的な重みを感じる会場の雰囲気である。ここなら大丈夫。ここに集中しよう。そう思っていたときだった。再び主催者から電話が来る。「今ニューワールドにいるので打ち合わせできないか?」とのこと。ん?明日の会場にいっているんじゃなかったの?まあいいか、直接話して現状を聞こう。僕らはNEW WORLD HOTELに向かった。

15:00。スケジュールの合間を寄せてNEW WORLD HOTELにて主催者と会う。話を聞くと明日はかなり大規模なセレモニーとなるとの事だった。それなので君たちのためにも出演をしたほうがいいという。僕ら的にはへんなこだわりがあるわけではなく主旨には賛同しているので、内容が問題なければかまわない。機材が用意されることと出演時間を確認してOKした。結局、明日はお昼前に行けばよくなった。さっきの電話では朝7:00にきて7:30から演奏といわれたので「そんな早朝に誰に見せるのかな?」と思っていたのでほっとする。そう、ここでは主張しだいで内容はどんどん変わる。余計な主張は入らないが自分が思っていることをきちんと言わなければ生きていけない国なのだ。それを痛感する。

とにもかくにも明日、ステージにたつことになった。それならばそれようの準備も必要だ。今日の空いた時間でミーティングをしようとメンバーに告げ、主催者に御礼をいい、次の約束の場所に向かう。15:30目抜き通りにあるクリスマスの装飾のされたビル。ここに電通アルファが入っている。そこの金子社長に会いに行った。僕らが今後ベトナムでどうして行こうか、ということの相談でもあった。もちろん、具体的に何かあるわけではない、日本にいる信田先生というアジアの恩師のご紹介で今回お会いすることになったのだ。尋ねてみると気さくそうな方で一安心。僕らの活動の話などをする。金子社長は僕らのためにいろいろベトナムのCDを用意してくれていて「最近流行っているこっちの曲だから」とプレゼントしてくれた。大勢で押しかけてしまったが会議室でいろいろ話すことができてよかった。公演をつくりには順序が必要で、行きました、はい、やりました。では続かない。その国のニーズや情勢を理解して、さらにその国で活動できる基盤を作っていかなければいけない。そのためには理解してくれるパートナーを探していかねばならない。そんなお願いをしてきた。

その後16:30。総領事館に向かう。サイゴン川に程近い場所にある総領事館はビルの中にあった。入り口で警備の人が「コンニチハ」と話しかけてくれてなんだかリラックス。建物に入ると坪田さんとニューさんが出迎えてくれた。ここで、6日の公演についての詳細を打ち合わせる。今まで五月雨式に集まってきた情報やデータがここで集約される。この時点でここまで詰まっていればまったく問題ない。ぼくらもあとは演奏に専念するだけである。久しぶりにきちんとした打ち合わせができてほっとする。

陽もくれかかり、おおよそ今日の予定をこなした僕らはマジェスティックホテルに向かう。今回のツアーで僕が唯一「行きたい」といった場所。それがここのカフェだった。サイゴン川を一望するカフェ。夕陽の落ちるときにここからの市内を見たかった。きっと何かを感じるに違いないと思っていた。ホテルに到着し、なんだかとっても豪華なロビーを行く。ここベトナムのひとつの魅力でもあるのだが、ホテルがフランスっぽいというか豪華な装飾がおおいのだ。上海のワイタンにも似たこの西洋文化の集合体は歴史を感じさせられる。屋上のカフェにでるともうすぐで日の暮れる時間。間に合った。

そこから見る赤く焼けた空と大きく左に曲がるサイゴン川の景色は絶景であった。できることならばここでのんびりと景色を見てすごしたい。そんな気にさせる場所である。陽も落ちてカフェを後にした僕らは一階のロビーでAEFAの坪井さんを待つ。今晩はAEFAの谷川理事がいらっしゃるという事で一緒に食事をしようという事になったのだ。ベトナム語の堪能な坪井さんは強力な味方だ。今晩の予定を相談しぼくらは明日の夜にコンサートを入れたライブハウスに向かう。場所はコンテンカフェ。市の中心部あたりに位置するライブカフェだ。到着してみると大きな看板がでている。AIVAN。ん?明後日一緒にやる人じゃないの?しかもこの人が明日やることになっている。ということは一緒にやれるのかな?この偶然にちょっと血が沸く。結構こういった偶然の出会いでいろいろな関係が生まれることが多いのだ。

何かをやっていれば何かが起こる。ホテルの部屋にこもっていては起きないことがたくさん生まれるのだ。会場を見てみるとライブカフェというイメージとは異なる大きなグランドバー的な感じだった。昔の映画で見た。背の低いイスと小さなまるテーブル。それがフロア中に一杯になっている。500人は収容できるだろう。なんとなくやるき倍増。紹介してくれたニューさんに感謝だ。来るときも「オーナーがベトナム語しかはなせないのでうまくすすむかどうか」とちょっと心配してくれていたのだが問題なく話は進む。顔を合わせて話せばたいていのことはクリアする。お互いが良いことを、面白いことを目指しているのであれば解決は早い。そうして明日のコンサートは決定。そういえばSeventeenSalonも明日出演すると言った。うむ、どうしよう。それはまた明日考えよう。19:30.ホテルに戻り谷川さんと再会。異国での再会はなぜか嬉しい。近くのベトナム料理やにいこうという事になった。

ここは日本の雑誌でもよく書かれている「パインセオ46」というお店。なんだか同じ名前でパインセオ49とかあったりするのでどれが本物かわからない。店は半分オープンエアで直火ででかいフライパンでなにやら作っている。見るからにおいしそうな店で地元の味が食べられそうでおなかのすいたメンバーの目からは星があふれ出している。今までの行程の話をしたり、ビンロンの小学校への訪問の話をした。せっかくここにきているのだからできる限りいろいろな人に音楽を伝えたい。そんな思いの僕らのサポートをしてくれ本当にありがたいと思う。満腹状態でホテルへ。歩いてみると結構遠くてまさに喧騒の中を行く。市民の生活がここにあるといった感じである。ホテルについて22:30ミーティング。今日はかなりやることがある。

明日のスイティエンパーク、夜のライブカフェ、明後日の主催公演や4日のビンロン、6日のレセプション。環境や客層を考えると同じプログラムは使えない。それぞれの特徴を説明してセットリストを決める。ここでもみんなの意見を貰う、というかセットリストを決めてもらう。どのシーンで何をやるかはみんなの頭で考えていきたい。今までとはやり方を少し変えた。これが今年の一つの僕らの進歩、あるべき形であろう。それが2006年の中で新しい方程式を身につけた新しいGYPSYQUEENの形なのだ。


0:50。おおよそ打ち合わせもビデオチェックも終わり解散、即軽い打ち上げ(なんの?)。今日買った干物をなぜかviviちゃんは食べない。なんでだろう。僕も手を止める。Masaoが普通に食べているので様子を見ることにする。そういえば昨日ちょっと真っ白になっていたエンゼルパイを食べたトンが今日は調子が悪いといっていた。もしかして僕のせい?明日は比較的ゆっくりな朝だ。しかし明日は長いぞ。そうおもいちょっとセーブをして部屋に戻り選択をしてまだまだ暑いHoChiMinhの夜空に洗濯物を干す。明日の朝には乾いているだろう。02:30就寝。

2006/12/02
7:00起床。ゆっくり寝れた。久しぶりに太陽の上がった後に起きる。テラスの洗濯物はすでにからっからに乾いている。でも、街の空気が汚いせいかなんだかみんな煙りくさくなってしまっていた。まあいいか。8:00朝食。メンバーも十分の睡眠をとったようで食欲もばっちり。dong dung hotelの麺とベトナムコーヒーはかなりおいしいのだ。ネットにつなぎ日本からのメールをチェック。ブログにもアップしたいがたくさんのメールチェックで精一杯である。9:30にロビー集合。衣装を半分着込んだ形で僕らは会場に向かう。

10:20会場着。ディズニーランドに似せたつくりという感じだ。暑さは真夏のサンリオハーモニーランド(大分にある)を思い出す。裏ゲートから車で入りそこからは徒歩。リヤカーに機材を乗せてゆく。Takuoがいないので機材も少なめ。今日はキーボードなしでやらなければいけないし、やはり旅をともにしてきた人が一人抜けると実感としてさびしい気がする。迷路のような会場内を10分ほど歩くとステージが見えてきた。すでに1000人を超える人々集まっている。ここでいろいろな催しがありその中で午後、僕らが演奏することらしい。到着すると政府の関係者を紹介された。とてもいい感じの人だ。よいステージになればとおもう。ここに来ている人たちに喜んでもらえれば。楽しい思い出の休日になればと思う。今日は世界障害者デー。この企画は政府の仕切りで行われる。戦争の被災者も含め福祉には手厚い国なのである。早速機材をチェック。しかしアンプがない。ドラムセットもない。そこにVNAHの主催者がきたので質問をする。「機材はまだきてないだけか?」聞いてみるとアンプの手配はできていないという。まあ、それでは臨場感にかけるがPAに直接入れれば問題はない。それはなんとかしよう。でも、ドラムセットは大丈夫だよね。と確認をする。「もうすぐ届くと思う。」ま、あわてず待ちましょう。会場は屋根もあり、ほっとする。本当に暑いのよ。なんだろう、日本だと真夏の沖縄という感じ。それが今ここの雰囲気だ。日に当たっているとしぼんでしまいそうだ。そうしているうちに昼食の時間となった。

会場の一角にあるレストランに通される。なにやらベトナム風の鍋が出てきた。なまずがにがてなのでちょっと僕は引き気味。でも、こんなとき「うまい!」といってばくばく食べるmasaoをちょっと尊敬したりもする。。食後会場に戻りドラムセットは届いたか確認をする。そうすると「ここにある」といわれる。指差されたものは。。PA卓のよこにちょこんと置かれたA4サイズのパッドだった。メンバー一同絶句。僕が怒るよりもmasaoの顔色が変わった。「do you know drum set?」まあなんとなく変な英語だがその気持ちはわかる。これはドラムではなくパッド。キーボードを演奏する人が手で叩くものでドラマーがこんなものを使えるわけがない。これではできないという絶望感が僕らを襲う。回りは常夏。ステージではインド人の格好をしたコメディアンがやる気なさそうに芸を続けている。衣装をきて困惑する僕ら。この風景はなんだかとてもおかしい。ステージにでて、ドラムセットもアンプもなしに演奏はできない。あれほど昨日頼んで「わかった。」といわれて今日ここに来たのにそれが何一つ用意されていないのだ。目の前にはたくさんのお客さんがいる。きっとこの人たちの前で演奏をすれば盛り上がるだろう。見たことのない日本人が演奏するベトナムの曲に喜びを感じてくれるだろう。でも、僕らとおきゃくさんをつなぐ線は断ち切られたのだ。どうしようもない。メンバーは片付けをしている。感情的にモノは言いたくないが僕はかなり強い口調でクレームをいれた。あまりにもレベルが低い話で一番の被害者は楽しみに待っていてくれるお客さんたちだからだ。彼も困惑していた。それでも、音楽をやるという事は最低の準備がなければできないのである。このまま帰りたい気持ちであった、すでにメンバーは機材を撤去してバスに戻って行った。もう一度主催者に話をする。

「機材が用意できたら出演をする。だが、ここで待っているのは辛いので近くのカフェを探して移動しているので連絡をしてほしい」。およし2時間程度で手配できるのでといわれ、最悪のことは避けられた。デモ、何時になるかは不透明である。僕は一人会場を後にする。やらないということはみんなが悲しい思いをする。ぼくらだって苦しい。おきゃくさんの脇を帰るのは忍びない。でも、セットがなければ音が出せない。ぼくは振り返らずに会場をあとにした。メンバーと合流してバスにのる。しばらく待機していると電話がきた。今日は休日の大渋滞もありイベントの時間内に手配は間に合わないという。それならば仕方がない。残念だ。ここまできてかえるのは残念としかいいようがないが、明日の準備の念を押して僕らはホテルに戻る。

13:30ホテル到着。14:00から気分をいれかえてベトナム語の曲のリハーサル。嫌な気持ちを持ち越さないためにもリハーサルは重要である。今晩、そして明日もお客さんたちは「初めて見る日本人」を楽しみにしてくれているのだから。14:50VNAHのタンがきた。今後の打ち合わせをする。今朝の話をしてかなり怒る。頼むよ。やるならちゃんとやろうよ。その思いは強い。その後いったんそれぞれ部屋に戻り休憩。Gucchi氏は再びマッサージに。僕はツアレポを書いている。こういう時間はあっという間に過ぎるもので17:30再び集合して市内に向かう。今日は明日の公演のレセプションがあるのだ。18:00サイゴン川沿いに到着。橋がないため、連絡線による交通が主である。バイクを吸い込む船にちょっと驚く。川沿いにはレストランを備えた客船があり、ディナークルーズなどが華やかにおこなわれていた。都会だなぁ。と思う。19:00。マキシムにてレセプション。明日の出演者が一同に会して食事となる。いろいろな方とご挨拶し、ラオスから来ているセサリオさんにも挨拶をした。なんとなくラオス人と会うとほっとする。ステージで余興で一曲演奏をした。「BorLuenVientiane」.

遠くにいてもヴィエンチャンを忘れないというこの歌。ラオスからの代表団にプレゼントだ。そうしてレセプションを終えた僕らはコンテンカフェに向かう。今日はまだ音を出していない。みんなうずうずしているのがわかる。バンドマンは音で表現をする。さあ、今日のライブはこれからだ。


21:30ライブバー「コンテンカフェ」に到着。機材をおろして会場に入るとすでにライブは後半だった。ベトナムは一日に何組もの歌手が数曲づつ歌うという習慣がある。そして最後の最後にメインが出るといった感じらしい。そして、この日のメインは明日共演するAIVANであった。彼女がどんな人かも知らない僕らだが、まあ、明日出てくるという事はベトナムでは有名であるという事の証だし事前に会えるというのも何かの縁であると思う。ステージではイケメン風の子が歌っている。台湾のポップスターのような感じのスタイルだった。到着が遅れたという事もありしばらくたつとすぐに呼び出された。ある意味きっちりとしたスケジュールの中でコンサートは進行しているようだ。そりゃそうだよね。一般営業をしているんだから。ということで楽屋を通りステージに。おもえばそのときに楽屋にいた黒いドレスの女性がAIVANさんだった。ステージにでるとすでにshinonがインタビュー中。僕らのセッティング時間は異常に早くで1分もあれば音が出せる。

きっとセットに時間がかかるだろうと思っていた司会者に「OK」サインを出すともっとしゃべりたそうな顔をしながら僕らを紹介してくれた。初めての環境ではあったがとにかく気持ちよく音が出せた。お客さんの顔色をみながらどんな曲で受けてどんな音量で引かれるかなどテストもできた。意外に大音量でも大丈夫なのは先日のライブハウスでも実証済み。でも、こんなちょっとしゃれたライブバーでもOKだということはおおよそこの国の人のニーズがわかるというものだ。他の歌手はもうちょっとムード歌謡っぽく歌っている。それでいてロックの大音量もOKだ。新旧入り混じった感覚だがこの線で曲を作ったりアレンジをしていけばいいという事だな。なんて演奏をしながら思ったりする。パーティの帰りでの出演ということもあり僕は衣装らしいものは持っていなかったのだが、muineで買ったベトナムの国旗をデザインしたTシャツを着用。Masaoももっていたが同じものを着ると兄弟に見えるのでmasaoは別の服にしてもらった。曲はラップ系の「SeaLine」からアジアンテイストな「Moonlight&sunshine」までなるべくイメージを散らして構成することになった。そしてあっという間に終了。こちらの習慣に習い20分ほどのステージを終える。


気持ちよかった。明日の公演にプラスになる演奏であったと思う。終了後近くのテーブルに座っていた音楽プロデューサらしき人からなんとレミーマルタンのボトルをプレゼントされた。これってめっちゃ高いのでは?とおもいつつみるとその人たちはなにやら高級そうなワインを飲んでいる。うーむお金のある人はあるんだな。そして、そのプロデューサがやってきた。「年末にカウントダウンコンサートをやるんだけれど出てくれないか?」あまりにも突然なのでなんとも答えようがなかったが、ということは好評であったのだろう。たしかにベトナム語の曲をやったときは会場が沸いた。でも、終了後スタッフの人に聞いてみるとまだまだベトナム語の発音は厳しそうだ。確かに付け焼刃ではある。でも、本番に向けて少しでも精度を上げなければいけない。この手の指摘にshinonは弱い。「この曲明日のステージからはずせないかなぁ」などと弱気なことをいい始めたりする。TVの放送もあるきちんとしたコンサートだ。不完全なものは出すことはできない。でも、何事も最初は不完全であり、いつしか努力と経験で完全なものになる。完成していないものを封印していたら何もできなくなる。やりながら進むしかないのだ。

今日のステージをうけて今晩shinonはよりいっそう努力をするだろう。もちろんバックの3人もだ。キーボードが不在という事でタイトになった分スカスカになった部分は否めない。3人でできる肉付けも必要だろう。そんなことを話しているとAIVANの出番となった。基本的には歌謡曲とシャンソンを混ぜた感じの曲調であった。ムード歌謡にブランデーグラスを傾ける。そんなイメージでちょっと僕らのロックとは色が違った。彼女のステージを最後まで見て僕らも帰ろうとする。この日の営業はこれで終わりでAIVANに挨拶をしてから帰る。「明日一緒ですよね」というと「gypsy queenでしょ。知っているわ明日よろしくお願いします」と丁寧に答えてくれた。ベトナムのポップをいまいち理解できていないので明日の出演者のことをよく知らない。というよりもあまり詳しい内容は知らされていないのだ。そんな手探りの中でローカルにもこうして知り合うことができて本当よかった。メンバーもそれにうなずいていた。今日、こうしていろいろな人たちにステージを見てもらえたのはよかった。僕らはバンドマン。ステージに出て何ぼの世界だ。明日はこのベトナムでのメインステージ。がんばろう!ホテルに戻り明日の微調整をしているとあっという間に2時過ぎ。明日も早い。

2006/12/03
6:00起床。本番の朝を迎える。それぞれが食事を済まして7:30出発。今日も一日が長そうな予感である。



8時過ぎに会場につくとすでに各種の準備が始まっていた。今日は生放送も入る関係でHTV(ホーチミンテレビ)の関係者が多い。てきぱきと動く姿は日本のそれと似ている。会場に入ってまず最初に確認したのがドラムセット。あった!当たり前だが嬉しい。主催者との待ち合わせであったが8:30を過ぎても来ないのでとりあえずお茶をしにいく。僕ら的にはドラムやアンプ類が確認できたので後はサウンドチェックをすればという感じであった。ラオスほど仕掛けもないし何しろ生放送である。あっという間に進みあっという間に終わるのであろう。気持ち的にはかなりリラックスできる。「今日は時間通りにいくよね」そう語るメンバーの言葉が状況を表している。オペラハウスは市内中心部の目抜き通りの端にある。ここをまっすぐ行くと大体主要なところにいけるのだ。そう考えるとこの街はわかりやすい感じがする。中心部自体がそんなに大きくないという事かもしれないがこれは便利だ。僕らはタンに連れられてメインストリートにあるカフェにはいった。「このとおり沿いは物価が高いんだ」とタンは言う。確かにちょっと割高。それでもゆっくりと過ごせる店内はいい感じであった。僕はベトナムコーヒーが結構お気に入りである。きっと日本ではこんな甘いコーヒーは飲まないんだろうね。でも、ここの暑さがなぜかこのコーヒーを絶品の味に仕立ててくれる。


会場に戻ろうとするとすでに入り口ではオープニングのセレモニーかなにかをやっていた。吹奏楽団がホールの入り口の階段で演奏しているのだが見ている人はみんなバイクに乗っているのだ。なんだか日本ではありえない風景。立ち止まる人というのではなく、立ち止まるバイク。そんな感じだ。その演奏の脇をとおり会場に入る。会場に入ると問題発生。なんとドラムセットが使えないということをいわれた。

「なに!!」昨日の悪夢がよみがえる。何故、会場にセットがあるのにNGかはわからないが、こればかりはokといえない。猛烈に講義しようという事になる。「僕らにドラムセットは絶対に必要だ」。坪井さんにフォローをお願いした僕らだがあっさりと「大丈夫だそうです〜」と回答が来た。ん?拍子抜け。そういえば坪井さんにお願いしたときに彼女はまったくあわてていなかった。きっとこの国の進め方、考え方なんだろう。そうだ、ちょっと前に自分でそういっていたではないか。この国は主張をきっちりしないと飲み込まれてしまう国なんだと。そして、それをしたものだけが生き残れる国であると。メンバーは用意された楽屋にはいりリハーサルの準備をする。窓の外はこのオペラハウスの脇のオープンカフェになっていて人々がくつろいでいる。都会だなぁ。と思う。きっと今まで行った国の中でもかなり過ごしやすい国なんだろうと思う。

僕らのリハーサル時間が来て準備を始める。アンプのセットやシールド類のフォローもきちんとスタッフが動いてくれていて、当たり前だがTV番組仕様となっている。こういうときは僕らはそのスタッフに身をゆだねればいい。そういうシステムになっているのだ。リハーサルで数曲確認。20分程度でリハーサルは終了した。時間を見てみると11時。うむ。素早いぞ。終了後、プロデューサーがやってきた。「素晴らしい!」と絶賛、しかしやろうとしたベトナム語の曲一曲が公演の内容と異なるためにやめて欲しいといわれる。まあ、僕らが強く主張すべきことではないので快諾。進行を含めこのプロデューサはかなりしっかりしていると思った。まあ、土曜日の8時からの生番組のプロデューサである。優秀で当然だがここにきていろいろなギャップを経験しているので僕らも多少慎重になる。

楽屋に戻ろうとするとViviちゃんが主催者にお茶を飲みに行こうと誘われたので一緒にどうですか?と言ってきた。ちょっと凹み気味の主催者であったのがわかったので僕らもついていって激励でもしようかと思っていたが「二人でお茶をしたかった」ということで一緒に行くのをやめる。昨日強く言いすぎたこともあるし、他の出演者からもクレームを言われ続けて若干萎えてのがわかる。こういう姿を見ると弱いんだよね。「なんかいいすぎちゃったかなぁ」自分で自分に言い聞かせている僕。それでも「二人で」なんて誘う余裕があるという事でまだまだ大丈夫な感じがした。これもベトナム式なのかもね。ちょっと安心。天気はいいし順調な流れでなんだかメンバー全員リラックスして町へでた。



12:30ランチへ向かう。ドライバーのトンがなんだか一冊の本を持ってきて僕らに見せたそうにしている。すばやくそれをviviちゃんが発見。「えー」という声にみんなが注目。トンは日本語の勉強の本を持ってきていた。それも新品でなにやら最初の数ページが折れていて読んだ後がある。きっと僕らと話をしたいと思ってくれたのだろう。Viviちゃんに「すごい〜」といわれると日本語がわからないはずなのに照れている。これが最高の交流だと思った。たかだか日本語の勉強を始めようとしたこと。小さいこと?そんなことない。これが一番大事なんだと思う。縁あって僕らに出会って、僕らを好きになってくれて、その結果きっと次に会った日本人に対してトンは優しい気持ちになれるだろう。そうされた日本人はきっとトンを、ベトナムを好きになると思うしその他全てのベトナム人を好きになると思う。そんな旅行者が日本に帰って来ると、日本にいるベトナム人やベトナム料理量好きになるだろう。何よりも旅の思い出としてたくさんの「ベトナム」を友人に話すことだろう。そして広がっていく。どんどん口コミで広がっていく。確証はないがありえる話である。これはやさしさの連鎖だ。なんだかものすごくいい気分になれた。さて、食事という事でトンに「どこかいいところない?」と聞いて連れて行ってもらう。ついたところはガーデンテラスのあるいい感じのフレンチっぽい店だった。

今回のツアーの中では初めてかも。店内に入るといつも僕らの行く店とは異なりちょっとおしゃれ。メニューもコースとなっていて15ドルでフルコースが食べられる。これは安い、でもここでは高い、と思ったが人数も多いしとても静かな雰囲気なのでここにする。他のテーブルではベトナム人のセレブが食事を楽しんでいる。ちょっと場違いなメンバー、といえるくらいの感じのきちんとしたお店だった。車に戻ってトンは「どうだった?」と聞いてくるので「おいしかったけれどちょっと高かったな」という。それをかなり気にしたみたいでしきりに謝るトン。うん、ぜんぜんいいんだよ。そんなことを気にしてくれる彼。僕らは本当にいい人とめぐり合った。

15時過ぎに一度ホテルに戻り今日のステージの準備をする。機材や衣装等持って行かねばいけないものがたくさんある。そして17:00に再出発。いよいよ今日のステージが待っている。「あっ、わすれた」。会場に向かう途中でSHINONが衣装のふわふわを忘れたことに気づく。「どうしよう」と言ってもどうしようもない。一刻も早くとりに行くのが方策だ。ちょっとかわいそうだがその判断は本人にしかできない。「とりにいってくる」と結局一人でタクシーを捕まえてホテルに取りに行く。がんばれSHINON。ということでSHINONがホテルにもどっている間に夕食をとっておこうという事になる。ステージ前なので軽いものをと思い前々から食べたかったフォーを食べに行く。「どこがおいしい?」ときくと「一番おいしい店を知っている」という。でも、そこはちょっと遠くて集合時間までにもどってこれそうにもない。なので「二番目においしいところ知っている?」と聞くと「もちろん」と答えて連れて行ってくれた。18:30フォーのみせ。ベンタイン市場の前の角にあるフォー2000。簡素な壁にはなんとクリントン元大統領がきたときの写真が大きく張り出されていた。そういえば上海でもそんな店に入ったな。クリントンに縁があるGQだ。そんな店であるがビール80円程度。フォーも160円程度の激安庶民の店だ。味もよくてみんな満足。店をでてバンを待っていると警官に話しかけられた。

「ダイジョウブデスカ?タクシーヨビマショウカ」そんな日本語で話しかけてくる警官。なんとも親切なのでひとしきり盛り上がり今日のコンサートに来てというと「シゴトガアリマスノデイケマセン」という。まあ、あたりまえだがなんとなくみんな盛り上がり気分となってきた。大混雑の夕方の街角にトンのバンが到着。僕らは会場に向かった。もう日も暮れてきている。街はネオンライトで一層の活気を感じさせてくれている。19:00会場入り。入り口で待ち合わせをしている大使館の坪田さんと会う。今日は総領事もいらっしゃって頂けるということでちょっと緊張である。楽屋に入るとフィナーレにでてくる現地の歌手の子達も一緒だった。この子達も片言の日本語を話す。「コンニチハハジメマシテ」程度の日本語であるがこれは本当に強力な交流の一歩だと思う。僕らがいつもそうしているように「まずは話しかけること」が重要なんだろう。相手からの言葉を待つのではなくて自分から行かないとね。こんな一言で楽屋の雰囲気もよくなるもんだ。いすれの子達も日本には行った事がないと言い、一堂日本に行きたい。という。僕らの国がこんなにもアジアの国で「行きたい国」として考えられているって知っていただろうか?日本は憧れの国なのである。今の日本がそこまでアジアの人たちの夢をかなえられるかはわからない。それでも日本を好きだと言ってくれる人たちがいる。ちゃんとしなくちゃだよね。自分に言い聞かせる。僕らを通じて日本を知る人は多い。コンサートも始まり矢継ぎ早で進行していく。テンポもよくそれぞれの出番が短いので(これもベトナム式)あっという間に出番が近づく。そして僕らの出番がやってきた。ステージの袖で待機するように言われる。シルバーの衣装を着たシンガーはものすごくエモーショナルな歌声だ。大きな拍手があり、僕らの名前が呼ばれる。21:37。ステージに向かう。


ステージにスタンバイ。アンプのシールドがなくなっていてスタッフがダッシュで探す。僕らの前に出た人が違うところにおきっぱなしにしていたようですぐに見つかりスタンバイOK。ひやひやものだ。演奏始まる。会場のお客さん、カメラの先のこの国の人々に伝わるように。一曲目は「Moonlight&sunshine」だ。ステージ演出上、バンドのセットがステージ最後部にあるので曲の始まりとともに前にでる。Masaoだけが残された形になるが仕方ない。Machaが踊る。キーボードがいない分3人で演奏を固めなければいけない。そして、アピールしなければと意気も上がる。曲間はshinonのMC。Shinonのベトナム語は通じているみたいだ。よかった。会場の受けもいい。やはりその国の言葉でやるかどうかは大きなポイントになる。そして、ベトナム語の歌を演奏。大うけだ。最初、この曲を入手したときは「いったいこの曲をどうアレンジすればよいのか?」と悩んだ。そして、その挙句に出来上がったのがこのバージョン。京劇の中に出てくるような曲をテンポを変えずロックにアレンジするのは結構時間がかかった。でも、それらの苦労が一瞬にして昇華される瞬間である。ステージはおもいっきり派手なエンディングで終わる。メンバー4人が声を合わせて叫ぶ「カムオン!」本当にありがとう。駆け足でステージから降りる。

他の出演者が拍手で迎えてくれる。MCが入り僕らが舞台袖に戻ったときには最後の出演者がステージに出て行った。ステージ袖のコンソールの前にはテレビがあってまさに今行われているこのコンサートの放送が映っていた。「本当にやってるんだね」それが実感である。それでも生放送と聞いたのだが、放送上では僕らの出番の前の人が終わったところだ。おかげで僕らの出番が丸のまま見れたのでありがたいことなのだが生放送ってこうなんだろうか。きっと生ゆえの危険防止なんだなと思う。トラブルとかあったらまずいよね。そういう点では社会主義国なりの厳しさがあるのであろう。TVで僕らの演奏を見終わるころにはステージ上はグランドフィナーレのスタンバイが完了していた。

僕らもステージに呼び出される。ステージには所狭しと出演者たちが集まる。日本、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ。これらの国の異なった障害を持つ人々。その国のホストとして出演した著名歌手たち。そして僕ら。全員が入り混じってのフィナーレだ。僕はステージ中央にいたAIVANに呼び出されて僕も最前列へ。彼女とは昨日同じステージに立ったことでなんだか何かを共有しているような気がした。


それは相手も感じているのだろう。いろいろなことが思い出される。一週間前ラオスのステージを終えてこの先どうなるかとおもった。そして、今日に至るまでもいろいろなトラブルがあった。それでも結果的には今日このステージを満足に終えることができた。課題はたくさんあるが致命的なものはない。それぞれが経験値を積んで中国がそうして発展したようにいろいろな文献、経験などを元に新しくスムーズなステージ作りに貢献して欲しいと思う。いずれにしても長かったツアーの第三ラウンドはここで終了だ。ステージをおり、スタッフや他の出演者とお礼の言葉を交わす。

「いつまでいるんだ」「次はいつくる?」そんなトークで盛り上がる。いつの間にかこの国が好きになっていた。金子さんや福川さんも見に来てくれた。この国に来てはじめてであったがこうして知り合うことができてよかったと思う。会場の入り口で主催者と会う。「MrCavanTranどうでしたか?いろいろ大変だったと思うけれど私たちはあなたに感謝しています」そう伝えると彼も満面の笑みで返してくれた。不思議とこの二週間。一緒に仕事をしているとトラブルも多かったが良い思いでばかり思い出される。決して彼一人が悪いわけではない。何事も新しく始めるという事はみな冒険だ。そのひとつの経験値を活かしていけばいい。もとものこの人はベトナムの義足支援をやっているNGOの代表だ。音楽とはまったく関係ない世界の人がよくここまでやり遂げたと思う。結果が全てで盛り上がったかどうか、意義が見出せたかどうか。それらが重要な中で考えればそれは成功であったのだろう。明日のフライトで帰国するということで今日は一緒に打ち上げができない状況らしい。またどこかで会うこともあるだろう。握手を重ねて別れる。

そして、僕がそんなことをしている間にどんどん片付けは進んでいた。蜂の巣をつついたような撤去の波に飲まれないように僕らの機材を持ち出す。とっくにトンの契約時間は過ぎている。あまりにも申し訳ない。それよりも待っていてくれているだろうか?会場入り口付近の混乱を抜けバンのほうに行くとすでに積み込みが始まっていた。よかった。待っていてくれたんだ。積み込み中のトンを見つけて謝る。「遅くなってゴメン。かなり時間オーバーだよね」そういうと彼は「カマイマセン」と笑って言った。彼は僕に日本語で答えてくれた。なんだか抱きしめたくなった。



車に積み込んだ荷物をホテルに戻す。全員は乗れないのでmachaとmasaoに託して残りのメンバーで先に打ち上げに向かう。23:00、近くのホテルのカフェで乾杯。六本木のおしゃれなカフェと見まちがうかのような場所だ。そんな打ち上げで飲むビールは他の何よりもうまい。福川さんからいろいろなベトナム事情を教えてもらう。本当に勉強になることばかりだ。そうこうしているうちにmachaとmasaoが合流。本当にお疲れ様でした。ここで飲み続けたいところだが24:00の閉店となり解散。01:00.ホテルの部屋にて今日のVTRを確認。明日からの予定を話して解散。なにしろ明日はメッチャ早い&チェックアウトをしなければいけないのだ。とりあえず片付けられるものをスーツケースに詰め込んで残りは明日の朝だ。今日は良き一日で会ったとおもう。2:30就寝。

2006/12/04
05:30起床。昨日の部屋に戻ってからのビールが効いたのかかなり二日酔い。辛い。6時過ぎにロビーにおりて荷物を預ける。谷川さんはすでにロビーで待機しており今回同行するという二人の大学生もいた。関西の出身だそうで、きっと関西のノリがあればこのベトナムもなんという事はないのだろう。とりあえずここHoChiminhのルール無用の交通ルールの中でバイクに乗っているというのでそれはたいしたもんだと思う。

昨日のTVも見てくれたそうで「あ、ちゃんとオンエアされたんだな」と実感に思う。朝食は7:00からだから開店時間前だったがレストランに人が入るのを発見してとりあえずコーヒーだけ飲ませてとお願いして飲む。6:30バンが到着し出発。今日は違う手配なので運転手も車も違う。かなり眠いのでテンションを高めていこうと思ったが歌を歌っていたら酔ってしまった。昨日の二日酔いが抜けるまでしばし我慢だ。今日の行程は長い。バンはビンロン州へと向かう。およそ4時間というのだから先日のムイネーをちょっと遠くした感じであろう。満員のバスはメコンデルタを目指して爆走する。途中休憩をする。もうすっかり田園風景である。人々がのんびりと暮らしている。ここでは時間の進みが遅いように感じる。台風の影響かかなり強めの風を受けつつそんなことを思った。そして、4時間ちょっとで僕らは到着地に着く。

「ふあぁ、やっとついた〜」と、おもったらバンでいけるのはここまででここからはバイクで行くという。バイクで?とおもうが道を見て納得。ここからは街道沿いの小道を行くのだ。小道といっても道幅1m程度のまさに本当の小道である。当然舗装はしていない。バイクの後部座席にのりいくのだが、何しろ僕は楽器を持っているのでちょっと心配だ。なんとか荷物とギターを互い違いにたすきがけにしてバイクの後部座席にまたがる。「ハイOK!」そういうとバイクはいきなり爆走し始めた。思ったよりもスピードがでているうえに道の上は天然のトンネル。そう、木々が覆い茂っている。当然背丈の高いギターはまわりの木にぶつかりっぱなし、さらに先発でメンバーを送ってくれた帰りのバイクの人とギターが接触しちょっとへこんでしまうアクシデントも発生。これは命がけだ。そして数分。奥深い樹林の中にようやく目的地の小学校が出てきた。まずはこんなところに学校を建てるなんてきっと大変な労力であったろうにと感心。というのも途中川を越えたりもしているので資材を持ち込むのは至難の業だと感じたからだ。さて、どんな子供たちがいるのだろう。夏にあったラオスの子供たちは純朴な子供たちであった。この日本で言えば真夏にもにた太陽を受けたベージュのカラーに塗られた校舎に近づいていった。教室は3つ(たしか)そして校庭がある。シンプルだ。すでに生徒は集まっていて僕らはその教室に入っていく。「シンチャオ!」そう挨拶をするとすかさず「シンチャオ」とかえしてくる。


元気がいい。そして、服装も涼しげで清潔感のある子供たち。そんな子供たちとの交流が始まった。もともとAEFAさんと話が盛り上がりアジアの子供たちに音楽を伝えたいというところから始まったこのプロジェクト。理事長の谷川さんの熱意に曲をプレゼントすることになった。そして、その曲は気づくと日本国内の交流校の生徒が、そしてアジア各地の子供たちが歌ってくれていた。

それは曲を作ったものとしてはとても嬉しい。ここベトナムの学校でもすでにこの曲がベトナム語に訳されていた。そして、一緒に歌おうとしたとたん子供たちは大きな声で歌いだした。ちょっとびっくり。ラオスの子供たちは歌うことを恥ずかしそうにしていて一緒に歌うまで20分以上はかかった。でも、ここベトナムの子供たちはあっという間に盛り上がりモードに突入なのである。まあ、子供たち本来の元気さといえばそうだろう。むしろバスの移動で疲れているメンバーのほうがその勢いに飲まれる感じだ。この曲はすでに日本語、ラオス語、ベトナム語に訳されている。いつかもっともっとたくさんのアジアの言語に直されてひとつの曲をみんなで歌えたらとおもう。「音楽に国境はない日本人も中国人も同じだ」ということを中国で中国人に言われた。それは感動的な言葉だった。そして、今目の前の子供たちも同じことだった。初めてあったこの小さな子供たちが日本人の僕の作った歌をベトナム語で歌っている。まるでIt’s A Small Worldのようにもっともっとひろげてそしていろいろな国の人々と音楽による交流をしていきたいと思った。

きっとこの子達は僕と会ったことなんてすぐに忘れるだろう。それが数年のことであればなおさらだ。でも、この歌を聴けばきっと思い出すはず。その時の思い出の映像とともにこの音楽がいつまでもみんなの中にあるように、そしてこの子供たちの喜びのために何か力になれるようにと思った。

僕らがすべきことはここにある。ご存知のとおりバンドマンは裕福でない。僕らが何か寄付ができるという事は付け焼刃的なことで難しい。でも音楽は別だ。僕らにできることは音楽を通じてこの子達と世界をつないであげることなんだなと思う。音楽にそんな力はないって?いや、あるのです。音楽で高揚した気持ちは自分を知らないうちに高めることができるもの。そんな小さな元気、勇気、力になることが僕らにできることなんだな。と思う。本当に小さいことで世の中の人々が行っている支援や協力には到底及ばないことだし、音楽でおなかが一杯になるわけでもない。それでも、目の前で楽しそうに歌っている子供たちの笑顔は僕らのやるべきことを教えてくれるのです。みんなで歌による交流を終えて校庭にでる。

東京から持っていったフリスビーの遊び方を教えているmasao。子供のほうが機敏なせいかすぐに打ち解けて仲良くやっている。僕らは校庭に残されている「絆の壁」と呼ばれる壁のまで記念写真。ここは昔、この学校の校舎があったところらしい。昔あったものを忘れないようにと壁の一部のみ残されている。こういったモニュメントがあること自体、この学校建設に携わった人々の意気を感じた。そうして学校を後にした僕ら。また同じ道をバイクで行く。来て良かった。理屈抜きでこの子供達との交流はバンドマンとして僕らに何かを伝えてくれた。

小学校からの帰りは行きの苦労の学習機能でギターを低く抱えたポジションでバイクに。なんとか街道沿いまで出ることができた。それにしても途中で渡った小川が妙にきれいだったなぁ。一行はバンに乗り込み昼食へと向かう。出発して一時間ちょっと。道路に橋が多くなり川を渡ることが増えてきた。橋を渡っているときに横を見るとメコンデルタの細分化された支流の数々が目に入る。細い川岸には住宅が立ち並び、軒下には小船が浮かび生活の中心にこのメコンがあることが良く分かる。そしてひときわ大きなメコン沿いにバンはとまった。ここから船で川を渡るという。いよいよ来たぞアドベンチャー。台風の影響で風がとても強く川は荒れている。

茶色に濁ったメコンは中国から始まり、ラオス、カンボジアと流れ着いた最終地点である。もしかしたら僕らが先日捨てたビアラオもここに流れ着いているかもしれない。そう思えるほど川は濁っていてそしてなんだかかなりくさいのだ。不安定な小型の船によたよたと乗り込み、船は行きおい良く滑り出す。強風による波を掻き分けるたびに水しぶきが体にかかる。そして強風にあおられて髪の毛はつっぱりくんになる。かなりの時間をかけて対岸の(中洲の?)陸地にたどり着いた。そこに南ベトナムの伝統料理を食べさせてくれる店があるのだ。かやぶきの屋根がいい感じで、足元は川になっている。これはおしゃれだ。ただ、情緒がありすぎて風が吹くたびにかやぶきがばさばさ落ちてくるので場所を移して昼食となる。ティラピアのから揚げ、鳥の姿ぶつ切り煮、いろいろな食用草などおおよそ日本では絶対に出てこない料理のオンパレード。僕はかなりだめなほうだが、相変わらずmasaoは「あ、脳みそが出てきました」などとのんきに言いながら鳥の頭をがぶっと食らう。さすがだ、尊敬の目。ここは時間がとてもゆっくりと流れている。近くでは酔った客がベトナム語の歌を歌っている。もし、こんなオフの日があったらきっとのんびりとハンモックの上で一日寝ているんだろうなぁ。なんて思う。

そうも言っていられない僕らは再び船に乗り込みもとの場所へ。帰りは若干大きな船で周りを見る余裕が出来た。ココは水上交通が中心となっている。だからもう行き交う船で水面は大騒ぎ状態だ。落ちたら大変なことになるなと思いつつ陸地に上がった。ビールで少し酔ったせいかウトウトとしながらHochiMinhを目指す。このHochiminhはもちろんこのベトナムの英雄のことなのだが、もう一つの意味で「都市」という意味もあるそうだ。だから「ホーチミンに行く」ということは「大都市に行く」という意味を成すらしい。

そんなことを教わりながら市内へ。しかし、市内に近づくといきなり大渋滞になっている。僕らはあせり始めた。この後の約束は18:30。すでに17:00を回っている。急いでといっても急ぎようの無い道だ。坪田さんに連絡をして若干遅れるかもしれないと伝える。今日は笹川さんも合流することになっておりすでに市内に到着している。待ち合わせなどを考えても17時にはチェックインをしたかったので気が気でない。まあ、あせっても道が好くわけではない。体力を温存するために眠れるときに寝ておこう。市内に入るといきなり迷路のような細い道をがんがん飛ばしていく。結局18:00。ホテルに到着。みなさん本当にお疲れ様でした。そしてこんな機会を与えてくださった谷川理事長、ホアンさん、大阪からの留学生の二人ありがとうございました。一同お礼を述べ、そして、谷川さんの好意でこのバンで僕らの今日からの宿泊先までいけることになった。全員で荷物を詰め込みまずはホテルへ。

18:30。Indochine Hotelに到着。ここでも荷物を降ろしただけで、総領事公邸に向かう。そうして若干遅れてしまったが無事に到着。今日は塩崎総領事との夕食会である。笹川さんとも合流。本当にタイミングが良かった。こうして異国の地であえることに感謝。公邸は時代を感じさせるとてもおしゃれな洋館だった。そのたたずまいにメンバーは恐縮。そして、久しぶりに食べるフレンチを楽しむ。ここでいろいろなお話をゆっくりとすることが出来た。毎回思うことだが日本の代表として異国の地に赴く人たちはみな日本の顔である。そんな人たちに最新の生きた現状を聞くことは僕らにとってなにものにも買えがたい重要な情報源である。


途中ツアーメンバーのsakai氏が帰国の為に席を立つ。あと二日と残した時点での帰国は本人もかなり残念そうである。まるでウルトラクイズの帰国組のようにみんなと別れを惜しんで出発。なんと坪田さんに送ってもらえるというVIP待遇のおまけ付だった。僕らからのプレゼントということで歌を一曲。「君の悲しみが僕を変える」である。これはアルーナもお気に入りでユニセフの歌としてラオス語でカバーしようとしている曲。人のやさしさを伝える曲だ。とても好評であさってのコンサートでも演奏することになった。こうして音楽を通じていろいろな方と会話できることはとても嬉しいことである。有意義な時間はあっと今に過ぎた。このお礼はあさっての公演でお返ししたい。


22:00。総領事公邸を出た僕らは笹川さんの泊まるソフィテルホテルへ。ここはもうすばらしい五つ星のホテルだ。Machaが笹川さんにマッサージをしてもらう。なんて恐れ多いことだが笹川さんは「いいのいいの」と言ってmachaを連れて行く。その間僕らはラウンジのバーで飲む。ラオスでのコンサートのこと、ベトナムの仕事の進め方、子供達との交流。いろいろなことがある。なんでもやればいいという勢いオンリーではいけない。何かをやれば何かの責任が生じる。そのなかで僕らがどう考えてやっているかということがとても重要だったりする。みな、それぞれ意見をもちそして、その意見は前向きだ。人には出来ることは限りがある。逆にいえば人はいろいろなことが出来る。だからこそ、僕らがしてはいけないこと、行ってはいけない道、やらなければいけないこと、やるべきことを明確にすること。ツアーの終盤。まだ現在進行中だ。そんなときに「まあ、それは戻ってから考えよう」という仲間ではなくリアルな感触の中で「僕らの進む道」を会話できるメンバーは非常にクレバーであり頼もしい存在だ。そうしているうちに笹川さんとヘロヘロになっているmachaが合流。再会の喜びと明後日へのアイデアを語りつつ、気づけば24:00。ソフィテルをあとに僕らのホテルに戻る。今度はこんなすばらしいホテルに泊まれますように。そうおもいつつタクシーに分乗。本当に長くそして充実した一日であった。
2006/12/05
6:00起床窓の外をみると大雨。このツアーではじめての雨だ。ニュースをみてみると過去最大級の台風「ドリアン」が海上に迫っているという。これは大事だ。今日はメコンデルタのマングローブの中での写真撮影を予定していたがちょっと怪しい。いや、かなり危険だ。Muineの風どころではない暴風雨。7:00に朝食に集まったみんなで打合せ。まずは出発を8:30に延期する。メコンデルタ行きは中止として午前中はチョロンに行くことにした。チョロンはこの街のチャイナタウンである。世界どこにでもあるチャイナタウン。それは中国を母体とした僕らにとってかなり居心地のいい場所である。時折まるでバケツをひっくり返したような雨が降ったと思うといきなりやんだりする台風特有の雨の中市場に到着。この市場が恐ろしく雑然としていてもう荷物の中に店員が埋まっているという感じ&強烈な客引きである。

ここは絶対に日本の観光客は無理だ。決して悪い人はいないけれど無理やり買わされることマチガイナシ。さらにスリが多いと聞くがそれも納得。満員電車のような中を歩くので無防備な人は狙われるよね。そう思った。僕らみたいに「一枚20ドル」といわれたものを「NO、10枚で20ドル」なんて交渉をするとすぐに追っ払われるのでそれはそれで快適であるが。Shinonはここでアオザイを購入。真っ赤な中華風アオザイだった。それぞれがはじめてできたオフを堪能する。チョロンのあとランチはフォー24へ。ここはフォーを扱うチェーン店なのだが、めっちゃきれいなお店で一度は入ってみたいと思っていた。先日入ったフォー2000とは180度異なる店で「これ日本でチェーン展開したら絶対はやるよ」なん盛り上がる。味もシンプルでスープもめっちゃ健康的だ。そして、その後ドンコイ通り沿いで衣装を作ろうと店探し。この辺では30ドルでアオザイが作れる。それも仕立てで。それはお得だと思う。そんな店で僕も衣装を発注。70ドルで衣装が作れるのだから格安である。仕上げまで二日かかるというのでなんとか明日の夕方5時までに作ってとお願い。言うと何とかしてくれるもので明日の5時にホテルに届けてくれることになった。Viviちゃんも今回3着目になるアオザイを発注。ついでにワンピースも発注。即効判断にみんな驚く。でも日本に帰ると真冬。披露は半年先かもしれない。

そして、ホテルに戻り明日の曲の確認をする。ここ数日移動が多かったのでまとまった時間を取れたのはとてもよかった。せっかくの機会だ。やるならば完璧にこなしたい。楽曲をもらって数日。しかもツアー中である。そんな中でもどれだけ出来るかということを試される。それが音楽の世界だ。理由は関係なくいいものを見せることがこの世界を続ける唯一の秘訣である。それでも国歌のアレンジには終わりは無い。こうすれば、こうだったら。多分本番が始まるまで続くだろうこの議論。結局シンプル路線を採用することになり明日のリハーサルで聞いてもらってきめようということに落ち着く。「このバージョンがだめならこっちね」二通りのアレンジを用意しておけば安心というものだ。そんなときにユニセフのイベントにという話が出てきた。話の出元はこちらのイベント会社。先日のコンサートをみてのお話だった。詳しいことを打合せしたいということで明日の午後に打合せをセットすることになる。どんな話かわからないが相手から来た話で悪いことではない。また一つ楽しみが増えた。そうこうしているうちにあっという間に街は闇に包まれる。台風も通り過ぎたようでもう雨も上がっている。

18:30。ディナーへ出発。明日の夜中のフライトを考えるとこれがベトナムでの最後の夜だ。福川さん、笹川さんとツアーメンバー一行、ドライバーのトンも一緒だ。トンともずっと一緒に過ごした。そして、仲良くなった。自然のことだ。そういえば昨日みたいな時にドライバーがトンだったらあたりまえのように送ってくれたんだろうなぁとみんなで話す。でも、昨日のドライバーとはあまりコミュニケーションを取れていなかったことも確かだ。そういったことがいろいろなことに作用する。それはそれで僕らも考えなければいけないことだな、と思う。そんな会話の中、何を言われているか分からないトンは「??」という顔をしている。行った先はホテルとも程近いドンコイどおりに出来た新しいレストラン「manna」だ。一言でいうとゴージャス。Ho Chi Minhのイメージをまたひとつ変えるようなお店である。あまりにものいい感じぶりにトンは車で待っていようとしている。「なんだよ。トンも一緒だよ」そういうと嬉しそうに来てくれた。僕らは全員いつも一緒だ。

最後の夜は自然と会話が盛り上がる。誰かれということではなくみんながみんな自然に盛り上がる。福川さんともはじめてあったのに毎日のように一緒だ。本当に心強い僕らのここでの恩人だ。ところでこの雰囲気抜群のお店。一つだけ気になる点がある。メニューの日本語標記がおかしいのだ。「人肉の香」な、なんなんだ。恐ろしいぞ。とおもうとニンニクだったりする。このなんともおかしい日本語標記。きっと日本語を勉強した人が書いたのだろう。でも、この豪華な店にこの日本語の怪しいメニューはちょっと似合わない。「こういうお店のさ、日本語のメニューとかちゃんと訳してあげる仕事ってどう?」oneasia飲食店部門はますますやる気満々。そうおもうと僕らの行ったmuineやラオスのvangviengなどきっとあまり日本に紹介されていないリゾートはたくさんある。こんなところをきちんと紹介すればきっともっとこの国は日本人に知られることだろう。「OL向けツアーを企画しようよ’私にご褒美ツアー’とかさ」さらにoneasia旅行部門も大盛り上がり。最後の夜としては最高の時間を過ごせたことに感謝。そして福川さんの行きつけのクラブに行く。トンとはここでお別れ。名残惜しい友よ。また会おう。会いたい人がまた一人増えた。

店内に入ると大音響でかなりはやっている。もうここはいわゆるベトナムの香りがまったく無い。そんなクラブの中庭でみんなで話しているとviviちゃんの携帯にトンから電話が来る。「サミシイデス」と日本語でいっているという。なんだか日本人と同じ感じだよね。彼もたくさんの日本語を覚えてくれた。それと同時に僕らも負けずにベトナム語を覚えた。お互い話たいという気持ちが言葉を覚えさせるものだ。クラブをでて僕らはタクシーに分乗してホテルへ。福川さんともここでお別れ。明日のレセプションにも参加されるということで明日の再会を約束して解散する。本当に良い夜であった。部屋に戻り荷物の整理、白で統一された室内はとても明るい。ベトナムの家具はオシャレというが本当にそう思う。調度品一つ一つセンスがいい。片付けも終わりTVも終了し時間を見れば2:00。もう明日で終わりなんだ。出来ることなら明日からまたツアーが始まればいいのに。

2006/12/06
最終日の朝。今日は朝から快晴。というかめっちゃ暑い。今日の午前中はフリーということで朝食もゆっくりで8:30に集合。今日の予定を確認してそれぞれ自由行動にする。僕は行きたかったマッサージで。ホテルに程近いマッサージ店は清潔でいい香りで一杯。思わず寝てしまいそうな勢いでタップリ90分。それでいて10ドルと激安だ。こんなマッサージを受けていたら日本でいけなくなってしまうじゃないか、と思うほどものすごくリラックスできる空間であった。ホテルに戻りメールチェック。このホテルはブロードバンド環境でメールもものすごく快適である。時間さえあれば充分ここで何でも出来る。とはいえ時間が無いのでチェックだけして終了。11時過ぎにチェックアウトして坪田さんの迎えの車に乗り会場に向かう。

会場は初日確認しただけあってまったく問題なかった。音響、照明ともこの会場を考えれば十分だ。早速リハーサル。国歌の演奏を総領事に聞いて頂く。演奏についてOKを頂き一安心。結局サブ案を出さずにOKが出た。こういったときは主催者と一緒になって進めるのが一番だ。出来る限り主催者の意図に合わせて、そして、アイデアがあれば自由に出せるように、そういった環境を作ることができれば公演はほとんど成功である。一緒に作る楽しさが生まれてくるときもこのリハーサルのときである。

そして、ラムチューンの曲のリハーサルに入る。結局アンプを通して合わせるのはメンバーも初めてなので本人の登場前に1回しやっておきたかった。そこにラムチューンがやってきた。この国のスーパースター。2003年のベトナム代表としての来日を思い出す。ちょっと大きめなサングラスをして入ってきた。お互い挨拶を交わす。Shinonはベトナム語で、彼は日本語で。きっと成功するだろう。この瞬間にそうおもった。今回は彼とは3曲を共演する。彼の持ち歌の曲、彼がカバーしているサザンオールスターズの曲、そして、ベトナム語の曲をshinonと一緒にという流れだ。彼の曲には僕らのアレンジが入っている。最初は入るタイミングを見失いそうになっていたが2テイクでOK。他の曲も問題なく進んだ。彼もこの天皇誕生日のレセプションで歌えることは光栄であると思っているようでちょっと緊張しながらも一生懸命日本語を話そうとしていた。堂々とカンニングペーパーをみながら話す所が大物を感じさせる(?)。

そして、リハーサルも終了。同じNew World Hotelの2Fにあるチャイニーズレストランで昼食を取る。午後いきなりの大雨。町じゅう水浸しだ。バイクの青年はびしょぬれでも平気で走っている。それも10分後には快晴。天気雨というか天気暴風雨というかこちらの国は何もかも激しい。15:30。昨日でてきたユニセフのイベントの打合せでタオさんがやってきた。彼女はイベント会社の人で07年3月をメドにユニセフのイベントを空港近くのスタジアムで行いたいという。そのときに協力してくれるアジアのアーチストを探しており、僕らにも声がかかったのだ。僕らだけだと心もとないので坪田さんとニューさんにも同席を依頼。先方からは何人でこれるか、とか費用がいくらかかるかとか、細かいことを聞いてくる。最近大雑把な仕事の進め方が多かったので拍子抜けするくらいにきちんとしている話に自分が戸惑ってしまう。また、アジアからのアーチストを招聘したいというのでアルーナやWingなど知り合いのアーチストを紹介した。まだ基本的なことしか決まっていないということでもう少し詳細がでたら連絡をくれるということになった。

そして、現地の新聞記者との取材。笹川さんのご紹介により興味を持ってくれた記者さんで現在日本語を勉強中とのこと。なので片言だが日本語で話してきてくれた。しかし、こちらの言っていることはあまりよく分からないようで日本語で聞かれて英語で返すという不思議な取材となった。記事に出来るかどうか考えてみるといった。結果としてそのときのインタビューは僕らが帰国直後、大きく現地の新聞に取り上げられることになる。どうなるか分からなかったのでこの掲載には驚いた。そして大感謝だ。初めての国ベトナムでの成果は大きかった。

取材を終えmachaは昨日オーダーした衣装を取りに行き、僕らはもろもろ準備を進める。18時。僕の衣装が間に合わず結局この会場に直接届けてもらうことになった。なんとも親切である。まあ、今回は公式な場なので派手な衣装よりも黒で行こうということで僕は黒のロングジャケットに、machaは出来たてホヤホヤの衣装に身を包んだ。でもなんだかmachaの衣装、ちょっとヘンだぞ。本当は最後のお直しをすればよかったのだがその点が若干雑なのが残念。それでも充分なものであった。開場。坪田さんが「みなさんこれを見えるところにつけてください」とスタッフバッチをくれる。


それは菊の紋章であった。生まれてこのかた菊の紋章をつけたことは無い。そして、それをつけてステージにあがるなんて事は無かった。なんだか急に緊張してきた。サッカーのワールドカップを見るとサッカー選手が君が代を歌い胸に手を当てて真剣な表情をしている姿をよく見る。開会式でアーチストが君が代を斉唱することがある。ただ純粋に日本人として生まれてその国の行事に参加するという事がとても嬉しくとても光栄に感じた。政府の関係者の方々にとってみれば毎年付けるものでもバンドメンバーを奮い立たせるには十二分の代物であった。「主賓の方がいらしたので始めます」そういわれて僕らは足早にステージに向かった。

入り口の金属探知機を横目に会場に入る。厳重な感じがする。僕らは会場入り口から普通に入り特にバックステージがあるわけではないのでお客さんがいる中を掻き分けてステージへ。そうして式は始まった。司会者の言葉で紹介される。最初に国歌を演奏するのだがいまいちキューだしが分からず、masaoに合図を送って演奏開始。最初にベトナムの国歌を、そして日本の国歌を演奏した。当然、ライブとは異なるので曲間に拍手や感性は無い。むしろ静かに聞いている人々だ。君が代の演奏のあと2番でshinonが登場。ここから歌となるが恐ろしく緊張している。まずい。この緊張の顔はかなりまずいとおもった。とはいえ盛り上げることは出来ないし、ラックスさせるトークが出来るわけも無い。無事(?)を祈って歌い終えるときを待つ。やはり緊張のためかちょっと声が出ていなかった。ここで一息。総領事のスピーチが始まる。ここ一週間いろいろお世話になった総領事だがその挨拶はかっこよく聞き入ってしまった。何よりも次の曲がmachaとshinonだけという余裕もあってだが。その後一曲演奏後ラムチューンとのコラボの始まりだ。彼の会場入りが遅れていてスタッフ関係者はヒヤヒヤモノだったが、ギリギリセーフ。会場入りして胸をなでおろしている彼の姿を見てさすがと思ったりした。日本だと予定に遅れると平謝りとかをするもんだが、それはアーチストとしてかっこよくないし、周りにたくさんのお客さんがいるのだからあまりポジティブな表現ではない。それよりも彼のように「間に合ってよかった!」というポーズをしたほうがみんなが明るい気持ちになれると思う。そんな民族なんだなと思う。

ステージに上がり2曲を演奏。さすがに当地のトップスターということもあってお客さんは写真をとったりしている。そんな人々にサービス精神満点な彼はギターソロの合間を縫ってステージをおり一緒に写真に収まるというサービスも。サザンオールスターズの曲の時はmachaにマイクを持っていって日本語のタイトルを言わせる。やはり数々の現場をこなしているのだろう。舞台さばきはたいしたもんだ。そんな姿を見ると僕らも安心して演奏に集中できる。彼とは緊張感のあるいいステージが出来たと思う。その後shinonが登場。GYPSYQUEENのステージとなる。会場には福川さんや金子さんの顔も見える。みんなここに来てから知り合った人たちだ。会場一杯の人たちに囲まれてステージは進む。


今回のツアーもこれで最後。一曲目はもちろん[Moonlight&sunshine]だ。日本語、中国語、ベトナム語を織り交ぜ歌った。トークもshinonの努力の結晶でベトナム語を一生懸命に話した。きっとまだまだだろう。でも、話さなければ始まらない。これは確実な一歩になっているはずだ。英語で通せば楽なのにベトナム語で、その精神はとても大切だ。そして、最後の一曲となる。再びラムチューンにステージに上がってもらっての共演。強烈なラブソングだ。リハーサルは昼間に2回合わせただけ。それでも、shinonとの息はぴったり。彼の魅力は歌ももちろんのことだが凄さはその目力にある。ステージ上で目が合うと男の僕でもついついひきこまれそうになる。(そのケはありませんが)そんな見つめる瞳にきっと女性ファンはみな魅了されてしまうのだろう。そうして40分、このツアーの最後の曲を終える。満足だ。メンバー、スタッフみんなが納得できた場を持てた喜びがある。演奏終了後、総領事がステージに上がってきてくれて僕らに労いの言葉を頂く。喜んでもらえて嬉しい。この笑顔をもらえて僕らも幸せだ。


ステージを終え僕らは楽屋に。お疲れ様!本当にみんなお疲れ様でした。メンバー、スタッフみんながお互いをたたえる。ツアーメンバーは家族だ。特別な関係なのである。坪田さんが笑顔で「お疲れ様でした」と言ってくれた。福川さんが「とてもよかったよ!」といってくれる。その言葉一つ一つで僕らは幸せになれる。間に合わなかった衣装に袖を通す。なんだかちょっとおかしい。なんとなくジャケットというよりも「ドクター」。これは直さないとと思うが今回は時間が無い。「次に来るときに持っていけば大丈夫だよ」誰かがそういう。そうだった次にまた来ればいいことじゃないか。これも一つの理由にしてがんばろう。

機材を片付けて会場へ。いろいろな人に挨拶をした。この会場にはこの街の日本人ネットワークを支える人たちが大勢いる。再びここに来るとすれば必ずお世話になる人たちであると思う。その後、散会。「大成功でしたよ」といわれてほっとする。このレセプションの成功は僕らにとっても成功なのだ。「帰りたくないなぁ」みんなが口にする。そんな言葉を聞くとなんだか寂しくなる。荷物は先に空港に行っているので僕らは身軽だ。今回は総領事館の皆さんに本当にお世話になってしまった。出発時間になりみなさんにご挨拶。総領事もわざわざ入り口まで見送りに来てくれる。ASEANツアーを思い出した。あの時も3日ごとに飛び回る各国の公演でとっても大切な縁をと恩を頂いた。本当にありがとうございました。バンの扉が閉まっても手を振って見送ってくれる。また、もう一度会いたい人が増えた。

空港へ向かう道。数日前とは異なる印象だ。車のクラクションの騒音も気にならなくなった。最初はうるさくていやだといっていたのに。今はあたりまえになっているどころか懐かしくなっている。15分ほどで空港に到着。ここも最初に来た喧騒感を今は感じない。人間って不思議なもんだよね。本当に。気持ち次第で状況や印象がどんどん変わる。今回はそれがいい方向に変わっていった。できるならばこれからも今回のように良い転がり方をすればと思う。出国手続きは相変わらず慎重で時間がかかる。ベトナム航空ってこんなに厳密なんだと思う。よくオーバーブッキングをすると聞くイメージとは異なるけれどね。ようやく荷物を全部載せて出国手続きに。ここで一番お世話になった坪田さんともお別れだ。「ありがとうございました。また来ちゃいますよ。」本当にまたこよう。これるようにがんばろう。

搭乗ゲートは夜行便を待つ乗客で大混雑である。そんなときトンから電話がきた。うーんいい人だ。なんだか嬉しいよね。しばらくすると僕らの搭乗時間となる。当然ゲートも大混雑。バスに乗り込み機体へと向かう。闇の中からライトに照らされた機体が見えてきた。Vietnam航空のモスグリーンの機体が夜の闇に浮かび上がる。幻想的だ。最近小さな飛行機ばかり乗っていたので大型機は久しぶり。いよいよこの旅も終わりだ。とおもったら寂しくなった。乗り込んでmachaと話しながら出発の時間を待つ。程なく動き始め23:55SGNを飛び立つ。「次はどこかな、ここから次の公演地に移動でもOKだよ」そんな話をしながら今回の15日に及ぶツアーの話をする。今回の公演にどんな価値があったのか。それはきっとこのあと分かるだろう。同行したメンバー全員が大きな意義を感じてこの便に乗っている。そういう意味ではすでに大成功だ。9人で出発したメンバーが今8人となって帰国となるのだがそれでも気持ちは9人のまま同じ便に乗っていると思う。きっとそう思える仲間であったという事が一番の成功の秘訣であったのだろうと思う。


ラオスでの障害者支援のコンサートへの参加から始まった今回のツアー。それは当日に近づくにつれ、そして、ツアーが始まってからどんどん変化してゆき、気づけばとても充実したハード旅となった。多くの偶然もあるがそれは必然でもある。必然に変える為の小さな努力を怠らなかった成果でもあるといえる。ちょっとした連絡、ちょっとした確認、ちょっとした挨拶。それらが予想外の展開に発展した。そして、それを受け入れる受け皿として成熟したバンドがあった。結局15日間で8ステージ。移動を考えると良くこなしたもんだと思う。それもほとんどがスタイルを変え内容を変えというもの。これは本当は結構きついのですよ。演奏側にとっては。よく巷では「2週間も旅をするとバンドはギクシャクする」。と言われる。

大体、遊びに行くわけではないので内容自体ハードであるし、環境も変わると人間ストレスを感じる。そこに個人の主張の強いバンドマンが行くわけだから、時折それがとても窮屈に感じられたりするようだ。でも、野球しかり、バレーボールしかり団体競技というのは旅と合宿の連続だ。チームワークの重視される競技はそうあって当然である。個人を切り売りするのではなくバンドもスタッフも一つのチームだ。ラグビーにたとえられるように「全員で一つ」のものであると僕は思う。それはGYPSYQUEENの方針でもある。そんな中一緒に戦ってこれたツアーメンバー一同は僕にとって本当にすばらしい仲間だ。そして、メンバーにとってもきっと同じ事が言えるのであると思う。だからみんな「やさしく」なれた。それが今回のすべて、総括である。Machaとの話は尽きないが少し眠るとしよう。明日も昼から動かなければいけない。ツアーが終わってゆっくり寝ている時間はないのだ。
2006/12/07
午前5:30。時計を日本時間に戻す。朝食の用意がされる。うん、やばいくらいに寝てないぞ。窓の外を見ると雲は冷たい色をしている。冬色の雲。そろそろ日本の空だ。誰よりも早い日の出を迎え12月7日の朝が来た。どうしよう、帰りたくない。みんなのそんな声が聞こえてくる。

よかったよね。そういえるのって。さあ、次に向かって頭を切り替えよう、これからどうする?今回もらったたくさんのチャンスをどうしてゆく?それもすべてこれからの仕切り方次第だ。よくアジアを総称して「のんびりした国」というイメージがある。

たしかにラオスではボーペニャン(きにしない)の精神といわれる。でも、本当にそうだろうか、それを彼らは望んでいるのだろうか?アジアはアバウトでいいなんていわれたくないと思っているひともたくさんいるはずだ。時代は変わっていて世代も変わっている。今まではそういった部分も多いかもしれない。でも、新しい世代ではルールも秩序も規律もあるような人たちがどんどん育っている。



そしてそういう人たちと僕らは付き合いそして共感を持つことを覚えた。きちんとしたことは欧米でのんびりしたのはアジアでというなんとなく流れる風潮はそろそろ認識を変えていいと思う。それが旅を続けていて感じることだ。「AKIは何故ラオスがすきなの?」。今年の夏に聞かれた質問に少し答えられそうだ。「ラオス人が好きなんだよ、だってみんなやさしいじゃないか」のんびりゆっくりガ好きなわけじゃない。(元来僕はせっかちだし)この人たちの気持ちが好きなんだ。まだ僕の気持ちに答えが出たわけじゃないけれど今回はそう言えるのかな。名前を挙げればきりが無い程多くのラオス人に今回もお世話になった。それはベトナムでも同じ事だが。結局、好きになるということにはたいした理由なんて無かったりするもんだ。第二章第五幕は僕らに新しい世界を見せてくれた。それば僕らが向かうべき「僕らのスタンス」の確立だ。それは僕らの本当の「New World」の入り口だ。

6:30。機体は降下を続け、「日本」が見えるようになって来た。白くなった山が見えた。そうだ、やはり日本は冬だ。南国から帰った実感だ。7:15タッチダウン。予想通りとても寒い成田。夏服のまま税関を抜けて閑散としたロビーにて解散式。おつかれさま!ありがとう!また会おう!

今回もとてもたくさんの人に日本で現地で間接的に各地でご指導を頂き、お世話になりました。あまりに多くの感謝です。このお礼として僕らに出来ることは次の公演を成功させることであると思います。みんなに育てていただいている気持ちを大事にしていきたいと思います。ありがとうございました。

GYPSY QUEEN ROAD TO ASIA 2006
NEW WORLD
2006/11/23-12/07



Photo by M.Kawaguchi/Vivi/Aki



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ビビは見た  
Staff VIVIが見たGYPSY QUEENTOURの側面