GYPSY QUEEN Road to Asia #18 Destination
2008/02/16-2008/02/22
Laos Wat Phou Festival

【Wat Phou Festival】

Laos Champasak.
チャンパサック王朝の拠点でありここを中心にカンボジア方面に勢力を伸ばしたクメール族はアンコールワット遺跡群を築いた。それと同時期にできたWat Phouは2001年ラオスで二番目に世界遺産として登録されることになる。もう800年も前にできたこの寺院は荒れ果て世界遺産といっても信じられないくらいの荒れようだという。そして、その土地の年に一度行われる祭り。2月の満月の夜をフィナーレとするフェスティバルに招待された。急なことだったが何しろラオス。インドシナのふるさとに帰らないわけには行かない。スケジュールを調整し、リハーサルを行い、現地でのさまざまな仕掛けをし、今日に至る。この間にたくさんの人の協力があったことはいうまでもない。ほとんどがすべて今まで出会った人たちの恩の中にある。その中に飛び込んでいくGYPSYQUEEN。自分たちの力だけではない何かに動かされて今回の旅は始まる。

2008/2/16
06:15。いつものようにmasaoの車で家を出る。そうか、もう18回目の旅か。いつの間にかにこの渡航にかかわる手配も準備も身についてきた。まるで週末に遊びに行くようにmasaoは機材で満載の車で迎えに来てそして買い物に行くかのように僕は乗り込み旅は始まる。ここ数日の寒さもちょっと和らいできたがそれでもこの時間まだ寒い。足早に荷物を積み込み出発だ。いよいよ始まるのだ。早朝の高速は混むはずもなくどんどん成田に近づく。以前一度だけ渋滞に巻き込まれて、出発に遅れたこともあり、その点は慎重だ。予定通りに(?)7:30過ぎに酒々井に到着。ちょっと早すぎるので朝食をとりつつパーキングに連絡。とりあえず8:00までまって出発だ。最近の駐車場は空港まで車を取りに来てくれて、帰国のときも持ってきてくれるシステム。超便利なのである。ゲートまでスムーズに進み8:20成田に到着。順調なスタートだ。

タイ航空は第一ターミナルになる。第二に比べるとこじんまりとしている。最近TGでの旅が多いのだがチェックインカウンターもそう混んでなくて快適である。重量はジャスト120kg。6人でこの数字。ベースやギターのツアーケースを含めてこの重量はたいしたもんだとおもう。みんな軽量化を心がけている成果だろう。難なく出国もすみ搭乗ゲートへ。まだはやいのでカフェでミーティング。スタート前にこうしてゆっくりできると気持ちも楽だ。10:15搭乗。今日のTGも満席である。11:00。TG641便は定刻を10分遅れてテイクオフ。バンコクまで6時間半の旅が始まる。

機体がほどよく上昇した後大きく揺れてかなり怖かった。これは寝れないかも。連日準備で遅くまでおきているので、ここで一気に睡眠不足を解消したいものだ。眼下には大島だろうか?大きな噴火口が見える。三宅島かな?スクリーンの地図を見ながらラオスの復習を。そうしているうちに食事になった。今は奄美大島あたり?今日はとにかくよく地上が見える。いい天気だけれど気流の流れが強いのか依然小刻みに揺れていた。食後少し寝て気付けば台北上空を飛んでいる。14:50.もう少しで半分という感じだ。昨年の9月のベトナム、12月のタイ、そして今回のラオスと比較的近い日程で3回のツアーとなった今回。それだけに記憶に新しい。それぞれの公演で何がうまくいって何がうまくいかなかったか?そんな分析をしながら時間を過ごす。

16:30。ダナン上空からインドシナにはいった。綿のような真っ白な雲に覆われているがきっとこのしたにはあの懐かしい大地が広がっているのだろう。あと1時間ちょっとでバンコク。時計を現地時間にして14:30.BKKには15:40到着予定だ。しばらくするとメコンが浮かび上がってきた。まさに浮かび上がる。雲と霧の下に大河の道筋が少しづつ浮き出てくる。なんて雄大な流れなんだろうとおもう。この川のおもうままの流れに合わせて人々は居を構える。川筋の周りだけが人の住まう色に変わっている。パクセー上空に差し掛かる。3日後にはここにきているのだ。いったいどんな町なんだろう。ヴィエンチャンからは陸路で10時間かかるという。そうとう長い旅になるね、覚悟が必要だ。

機体はタイ上空に入り高度を落としてゆく。緑がきれいだ。市街地が見えてきて懐かしい風景に変わる頃、15:40、予定通りにBKKにタッチダウン。2ヶ月ぶりだ。とにかく広いこの空港でトランジットのため4時間を過ごさなければならない。時間通りについてしまったのでまあ、いいことだが、きちんと空き時間が与えられた僕ら。どうしようか?まずはミーティングに時間を当てる。明日のライブの動きや楽曲などはおおよそしか決まっていない。みんなの意識あわせに時間を費やす。この時間はとっても貴重なもので、メンバーそれぞれのどうでもいいようなことまで口に出せる場だ。ちょっと気になった点、どうかな?とおもう点。そういったことを極力みんなで引き出して頭の中をクリアにする。それがステージでの一体感につながるのだろう。

そしてなんとか2時間前。ゲートに移動。とにかく広い空港。結局20分以上歩くことになる。「次回からはローラーブレードを」これが合言葉である。そして20:05.TG692便はほぼ定刻どおり飛び立つ。いよいよヴィエンチャンだ。


飛び立ってすぐに機内食。バンコクからヴィエンチャンまでは1時間のフライトなのでのんびりとしている間もないのだろう。ちょっと疲れ気味でたべられないかな、とおもっていたがレモン味のソースがかなりおいしくて完食。一息つくと機体はもう高度を下げ始めた。

高度を下げても一向に明かりが見えてこない。ちょっと不安な感じがしてくると、ようやく明かりが見えてきた。一本の光の筋はやがて複数の筋となり、そのまわりには家屋のものである明かりが点々とする。ヴィエンチャンの町並みが視認できるころ着陸。ちょうど21:10分。時間に正確だ。1年2ヶ月ぶりのヴィエンチャンはただ、ただ懐かしい。ワッタイ空港を進むと西村さんが文化担当の青木さんと一緒に迎えに来てくれた。何分機材の多い身。入国支援を毎回していただける大使館のみなさんに感謝。「なんとなく、空港も殺風景でなくなってますねぇ,広告ボードとかもあるし」なんて会話をしながらゲートをでる。小さい空港なのであっという間に外に出ることができるので楽なもんだ。

外に出ると交通省のソムディさんが待っていた。今回の車の手配は交通省の役人。ちょっといい感じの男で付き合いやすそうな人だ。また、空港には諸富さんもきてくれていた。メコンオーキッドで働いていたときに知り合った人である。息子のケン君も一緒。ちょっと恥ずかしがりやだ。そして、前回国営放送に出たときのインタビュアーも空港にきてくれていた。懐かしさあふれるワッタイ空港。幸先のよいスタートである。

市内に向かって走るとこの1年の変化に気付いた。道がきれいなのでゆれないのだ。完全舗装されしかも中央境界線まである道。1年2ヶ月でここまで変わったのかと思う。そしてなによりも道が明るい。街頭の数が圧倒的に増えている。最初にラオスにきたときの昭和30年代のスタイルと異なるのがよくわかる。裸電球にカラフルなネオン。広告ボードも非常に多くなっているのだ。ということはここにはクライアントがいて市場が存在するということ。これはいいことだと思う。

確かに初めてきたときのDEEPさは僕らを一気にこの国にのめりこませた。でも、そんなDEEPな世界はだれもが好むわけでもない。世のOLたちが旅をしようと思ったときにはきれい、安全は必須であろう。ノスタルジックに浸るよりもこの国は発展を求めている。便利なことはいいことだ。懐かしい景色がおよそきれいになっているので「おお!舗装されている!」とか「おしゃれな店できたねー」などと話しているうちに20分ほどでメコン沿いにでる。

今回はメコン沿いのホテルに宿泊。メコン沿いに泊まるのははじめてである。そのときにスタッフのコザックが自分のバッグがないといい始めた。やってしまったか。ツアーに来るときは個人の責任は重要だ。疲れているからということは通じない部分である。自分の荷物は自分で確認をするという子供でもできることを怠るとそれなりに代償を払わなければいけない。機材満載のバッグがなくなったら大変だ。すぐに西村さんにお願いして空港へ。

余計な迷惑をかけてしまって申し訳ない。とりあえずチェックインをして成り行きを見守っていたが無事空港に置きっぱなしになっていたということで解決。大事に至らなくて何よりも幸いである。ここでアルーナが合流。「ハイハイハイ アルーナサンデス」。気さくな男前な彼女。

一気ににぎやかな雰囲気漂う。とりあえず荷物を置きすぐに集合。メコンリバー沿いのテラスにのみに行く。うん、いいなあ、やっぱりこのメコンはなんだか安心できる。今の時期は乾期で拍子抜けするほど水量が少ない。イメージとはちがうけれどこれもメコンだ。一年ぶりにあうアルーナはラオスでヒット曲を連発しているトップシンガー。でも、この国はそんな彼女も普通に生活できる国だ。一緒に飲んでいてもちょっと気にする人はいるが別に騒がれるわけではない。車も自分で運転している。そして、何よりもステージについて自分で考え自分で交渉をする力を持つ。とにかく話が早いのだ。

明日のステージついてもてきぱきと話を進め、気付くと打ち合わせをすることはすべて終わっていた。12:30.初日の夜はあっという間に終わる。アルーナと明日の待ち合わせをして分かれる。ホテルに戻り連絡事項を告げて解散。02:00もうねるとしよう。日本時間だと4時になるわけだ。ほぼ24時間起きていたということで皆さんお疲れ様。


2008/02/17
07:00起床、08:00朝食。この時期のヴィエンチャンの朝は肌寒い。今日はめまぐるしいスケジュールが待っている。ロビーに集合するとすでに花園さんが待っていてくれた。今日はLJセンターはお休み。なのにフルに参加してくれる。ありがたいことです。そして、久しぶりの再会。浴衣ダンサーズが記憶に新しい。そんな彼女はいろいろな手配をしてくれたのだ。感謝である。

そして、昨年まで日本にいたという通訳のガイさんと合流。このガイさん、イントネーションも含めて日本語が完璧である。すごいぞ。ラオス人には難しい日本語の発音なのにほぼ完璧だ。ここには才女がたくさんいるなぁと思う。

9:15。時間通りホテルを出発。今日は最初にテレビの収録である。演奏があるかどうかわからないので一応楽器を持っていく。わからないときはフルセットで向かうのがGYPSYQUEENの常識だ。今日はひとつ遅れるとあとに全部影響してしまうので時間厳守なのだ。バスは内陸のほうに進み、ちょっと郊外といった感じのところへ。そんなところにこの局はある。新しい民放局で若者に人気の音楽番組が好評でラオス全土とアメリカで放送されているという。今回はその音楽番組「Lao star music TV」に出演するのだ。バスから降りてスタジオの中に進む。局というよりもスタジオ的な感じの建物だ。行ってみるともうスタッフは全員そろっていた。

ラオスの若者に大人気の番組らしく、製作スタッフもみな若い。とりあえず詳しいことは何もわからなかったので司会者のTIKに状況を聞く。このTIKというこ。ラオスの女優でキャスターもやっているという売れっ子らしい。今日の進行をきいてみるとインタビューと僕らの演奏があるという。「え、あるの」。楽器を持ってきていてよかった。アルバムの曲を3曲やってほしいとその場で言われる。番組自体はどれくらい?と聞くと1時間という。結構長いじゃない?まあ、いい、何とかなるだろう。と思い機材のセットを始める。で、アンプの電源を入れるも音がしない。おかしい。よくよく話してみるとこのスタジオ環境での生録音はできないらしくアテブリになるという。ということはアンプもダミー?まあいいか。収録の用意も完了。まずはインタビューから始まる。

インタビューもおもいのほか長くいろいろな話ができた。なぜラオスにきたかとかどんな曲を歌っているのとか結構質問攻めにあう。基本英語でたまにラオス語。おかげでshinonはいい勉強になったのではないか?残念なことといえば「vientiane」の音源を持ってきていなかったこと。ここでは当然この曲でしょう!とおもったがすでに遅し。いろいろ完璧に準備をしたつもりがひとつ抜けがあったわけだ。反省。機会は一回しかない。その機会を次につなげればもう一回。さらにつなげればまた一回。ただ、一度きった縁はよみがえらない。たかだか一曲とあなどるなかれ。その一曲の成果でここまできたのだから。ということで曲は「den Heng it sa la」「Alfred&Julia」「Endless wall」の3曲をやる。

インタビューのコーナーを終え演奏のコーナーとなる。リハーサルがてらに適度に動き、確認をしながらやった。2曲流れた時点で「これ本番みたいですよ」とviviちゃんがいう。「えっ」。ちょっと驚きだ。曲の頭から出ていなかったり、なによりも動きを確認するために弾いていなかったりmachaと話していたりした。そんなんでOKなの?そういえば昔policeが何か日本の音楽番組でアテブリで演奏していた。最後のほうになるともうめちゃくちゃでドラムとかたたいていないで遊んでいた気がする。音は流れているのに。そのときに初めて「あ、実際には演奏していないんだ」と思った記憶がある。子供心ながらがっかりした思い出だ。申し訳ないけれど取り直しをしてもらった。ここはボーペニャンは通じない。見ている人のためにもきちんとやらないとね。でないと日本人バンドは手を抜いていた、と思う人もいると思う。そんなことはたった一人でも感じさせてはいけない。ということで再撮。大型扇風機も登場して気分はTMレボリューション。そこそこ決めて3曲を終えた。

日本での収録のやり方をスタッフにつたえるとなんでも吸収していく。音楽制作も含めて日本にある技術や経験をどんどん伝えればいい。そうすればみんなそれらを取得して次の世代に残していくだろう。収録がすべて終わり11:30.ちょっと押し気味だ。終了するとTIKが花束を持ってきてくれてみんなで記念撮影。シャイなみんな。一人づつ撮影の輪にくわわるものだから、何度もシャッターを押す羽目に。最後にはスタジオの全員がカメラに収まった。最初から繰ればいいのに、そんなところもかわいいよね。1時間前に会った仲間たちはもう友人になって別れを惜しむ。「またこの番組にきてね」みんなの笑顔がうれしい。


一行はバスに戻り昼食会場のクアラオに向かう。結構かかるかなと思ったら案外早くついた。「えっ、もう?」。ここも前は工事中だったのできれいに舗装されていて気付かなかったくらいだ。会場にはすでに藤村公使が到着されていた。「遅くなりもうしわけありません」。初めてお会いするので多少なりとも緊張。でも、会ってみるととても優しい方でメンバーも一気に打ち解ける。今までのツアーのことや今回の目的を話題に盛り上がる。もちろん、ラオス料理についても。こうしてアジアの国にてコンサート活動を行うのは関係者の理解なくして成り立たない。僕らがどんな思い出この国にきているのか丁寧に話を聞いていただいて感謝。そしておいしい昼食にも感謝。本当にラオス料理は見た目にもきれいなものが多く、日本人にとっても口にもあうものが多い。Shinonのファンである子も同席してくれた。こうして待ってくれている人がいるのはありがたいことである。

午後は国営放送の収録でここでは生での演奏もある。クアラオを出発して5分ほどの国営放送へ。毎回ラオスに来ると出演させていただいている。今回の番組は1時間まるまる僕ら&生放送ということで気合もばっちり。到着後すぐにスタッフと打ち合わせ。こんなときも最初の「サバイディ!」は僕らからだ。一気に笑顔であふれる空間。みんな仲良くしたいのだ。すぐに仲良くなりたいのだ。打ち合わせを終えてスタジオへ。一時間タップリあるので話たいこともしっかり言えよう。その間にmachaはアコースティックのセッティングをしつつスタンバイ。そしてすぐに収録へ。ちょっと手狭だが問題はない。ラオスに対する思いや音楽に対するおもいを話す。どこまで伝わっているかはわからないけれど伝えようとすることは重要だ。

番組の途中に視聴者から電話が来たと後から聞いた。番組を聴いて感動して電話をかけてきてくれたらしい。印象的な言葉は「ラオスを好きになってくれてありがとう」だって。もし、これって立場が逆であればまったく同じことをおもうかも知れない。言葉から始まる人の連鎖。うれしいじゃないですか。大切にしたいね。番組を終えるともう15:20。このあと15:30からラオプラザにてヴィエンチャンタイムスの取材なのでダッシュで局を出る。見送ってくれるみんな。ありがとう!


ほどなくラオプラザに到着。ラウンジで待っていると記者が到着。早速インタビューを始める。内容的にはなぜラオスにきたか、それも複数回も。というところから始まる。僕らは僕らの思いを語る。思いつきやなんとなくでアジアにきているわけではないのでこうしてメディアを通じておもったことを伝えられるのは意味のある場だ。「パクセーの歌も歌うの」と聞かれたので「もちろん歌うよ」と答える。「じゃ、どんな意味の曲か説明してくれる?」うむ、ためしているのか?とてもクレバーな記者だ。こうなると取材する側とされる側でのバトル。やあ、よくきたね、楽しかったよ、で終わるよりもぜんぜん良い。ちなみにこの人もGucchi氏の知り合いである。僕らがヴィエンチャンに着く前にGucchi氏が話をしていてくれたのだ。取材も無事終了。どんな感じで掲載されるのだろうか?掲載が楽しみだ。別れ際に「今晩のライブにきてね」、と伝え分かれる。16:10。一度ホテルに帰る。このあと17:30からコプチャイドゥでリハーサルである。ホテルにもどりシャワーを浴びあわただしくも再び出発。あっという間に到着。コプチャイドウの前も舗装されてきれいになっていた。また、外観もなんとなくきれいになっているぞ。どんどん進歩していくのがよくわかる。

中に入るとアルーナがまっていた。アルーナがにこにこしながら「ドラム壊れて今はないんだって。ホホホッ」と笑う。笑うなよと思いつつ、僕も苦笑い。Masaoだけ笑い事ではなかった。「どうする?」とアルーナが聞くので「とりあえず探してもらって」と伝える。それ以外の答えがあるはずもない。オーナーが出てきて結局1時間後にドラムセットを用意するということになった。そんなのわかっているんだから最初から用意すればいいのにと思うがそうでもないのがここのやり方。「どうしよう」なんて内輪で議論するような状況では不満をどんどん身内にためてしまって爆発してしまうかも。でも僕らは違う。いうことはきちんとすぐにいう。ポイントはすぐに言うこと。会話しているときにその会話の問題点をその場で顔を見ながらする。この国では重要なことだ。ということでドラムがくるまでここで待っていても仕方がない。また1時間といって1時間でくるはずはないのですぐに店を出る。アルーナに「マッサージ行ってくるよ」と告げるとアルーナも一度家に帰るといっていた。一時間後に再び待ち合わせをしてそれぞれの時間をすごす。

ナンプーそばのマッサージ屋にいこうということになってみんなで移動。「確か1時間2ドルだったよね」うん、そうだ、そんなもんだった。でも、ここにも繁栄(物価上昇)の兆しが。1時間45000kipになっていた。倍増である。まあ、元が安すぎるといえばそうなのだが。マッサージの質は変わるはずもなく大満足である。日本じゃありえない安さだよね。結局、ちょっとおくれて19時に会場に戻る。僕らが到着してほどなくドラムも届いてちょうどいい感覚だ。この微妙なテンポ感は重要だったりする。さあ。今日のしめのライブの準備だ。

ドラムをセットしているとアルーナもいい感じで遅れて登場。さっそく打ち合わせだ。ミーティングをしているとオーナーからいろいろ差し入れの食事やビアラオを頂いた。「まずはたべよう」とアルーナが言ってミーティングは中断。20時からステージということなのでかなりタイトなはずだがまあ、ビアラオもあるしと思い食事。かなりおいしかったので結局数杯飲んでしまった。その間にmachaとアルーナで構成をチェック。新曲をいきなりやるので構成から頭に入れないといけない。2テイクくらいさらってOKが出た。ほんと?まあ、なんとなくつかめたらもうそのままステージ。あわただしいけれどこれもこちらのテンポでもある。会場には工藤さん、諸富さん、今日昼にあった大使館の通訳さん、そしてなんとアルーナパパまでと懐かしい顔が見える。ヴィエンチャンに帰ってきたなと思う。今まで何度となくここに来て飲んだり、ステージに立ったりした。ラオスで最初のビアラオはここで飲んだ。そのときのスコールにみな驚き、思いっきりラオスの魅力に酔った。それから5年弱。こうして続けてこの場所にこれることができてうれしい。ステージはGYPSYQUEENとアルーナが交互にやる感じで進んだ。明日からのテストも兼ねた楽曲を中心に演奏。いつの間にかラオス語の曲やラオスに関係する曲が増えたことを実感する。アルーナとは一年ぶりだというのに感動の再会もない。

まるで先週まで一緒だったかのようにステージは進行する。男前のアルーナ。実務を最優先する正真正銘のラオスのトップアーチストだ。アルーナのリードに戸惑いつつバックを勤めるGYPSYQUEEN。彼女、本番で構成をいきなり変えてくる所が多々ある。当の本人はまったく気にしていない。気付いてないのか?と思うくらいだ。(気づいてないかも)ぼくらは歌に合わせてなんとか追いつこうとする。これもバトルといえばバトルだな。なんておもった。この場を作ってくれたアルーナに感謝。そして久しぶりのヴィエンチャンのステージを終えてまずはビアラオ。見に来てくれた懐かしい人たちと酌み交わす酒はおいしい。前回のヴィエンチャンは06年12月。そうだ、深夜にも及んだイベントの最後の出演で僕らの出番は24時近くになっていた時だった。お客さんも疲れているけれどやる僕らも疲れていた

。イベントとしては成功したと思うが僕ら的にはいまいち納得しきれなかったステージ。それ以来のヴィエンチャンである。もう、懐かしいといえるほどの思い出になった前回。そして、今回。まだ始まっていないに等しい。今回のツアーに何が起きるのか。本当に楽しみだ。ヴィエンチャンの友人には「チャンパサックでもりあがってきます。そしてまたヴィエンチャンにきます」と挨拶をした。本当に戻ってきたい場所だ。あっという間に時は過ぎ23時を回る。アルーナが帰るというので僕らも撤収。「またね〜」また明日会うかのごとくアルーナは元気に帰っていった。次にいつ会うかもわからないのにね。帰りの足を心配したが、ソムディは「何時までも待っているから大丈夫」といって待っていてくれた。

頼もしいね。そんな厚意に甘えてホテルに戻る。一度荷物を置いてもう一飲みしようということでshinon以外のメンバー全員でメコン沿いへ。でも、川沿いの店はすべて終了。しかたがないのでトゥクトゥクを捕まえてとりあえず飲めるところに連れて行ってもらう。

川風がつめたい中爆走するトゥクトゥクは前回のチェンライを思い出させられる。結局ドンチャンパレスをこえ、さらに先にかなり遠くまで行くことになった。なんとなくにぎわった店が立ち並んでいたが、そこはクラブだったのでうるさいのが嫌いな僕らはパス。もっとほかのところないの?というとまた市内に戻ってきて今度はメキシカンっぽいクラブの前に出た。町はすでに静まり返っているがここはなんだか盛り上がっている。ここも僕らのイメージと違うのでさらに爆走。寒くて死にそうだ。川沿いから離れて空港方面へ。ノボテルをこえて右に入ったところでようやくいい感じのレストランがあったのでそこにする。結局30分以上走ったので体も冷え冷えだ。とりあえず最初に5万キップと約束したので支払う。なんだか振り回してごめんね。ついでに帰りの足がなくなるとまずいのでそのトゥクトゥクをキープ。以前、夜中に帰ろうとしたときに足がなくて困ったのでここは学習機能で抑えておく。薄暗いレストランでラオス語のみのメニューをみてオーダー。そういえば前回はレストランでオーダーがでいなくて困ったっけ?今回はそんなこともなく無事クリア。なんでだろうな。昨年一年かけていろいろタイと接したのがよかったかも。おかげで言葉に対する意識が大きくなった気がする。

タイ語とラオス語と日本語の混じったトークで店員と話す。日本じゃ飲まないビールをこんなに飲んでよいものかとおもいつつミーティングをかねた乾杯は続く。メンバーもスタッフもリラックスしてきた。これでいつものペースに戻った気がする。明日から始まるハードワーク。乗り切れるように今日は気持ちの充電をしよう。02:00、さっきのトゥクトゥクが待っていてくれてあっという間にホテルへ。部屋に戻り荷物をかたづけすぐに就寝。


2008/02/18
7:00起床。窓の外は意外にもさわやか。初夏?日本の4月くらいかな?でも、日差しを浴びるとそれなりに暑い。朝食をとり8:30にロビー集合。今日はいよいよラオス南部に向かう日だ。すでにソムディは待機している。運転手のカンパイもすでにまっていた。なまえがカンパイなのでいきなりメンバーも食いつく。覚えやすいよね。なんといっても。バスに乗り込むとソムディが乗ってこない。「出発するよ!」そういうと「僕は明日行くよ」という。ほんとかな?まあ、待ってるよ、ということで出発だ。市内は車で混んでいる。前回までトゥクトゥクで混んでいるということはあったが。。こんなにも車社会になってきたんだなと思う。去年、ベトナムでも思ったことだ。バイクだらけの国が来るまであふれていたっけ。きっとこの流れは加速していくだろう。だからこそこの時期のこの国をよく見ておきたいものだ。凱旋門を越えて、しばらくするとこの開放的な街道筋にずっと目隠しの工事中の壁が続いた。「なにがあるのかな?」スタッフに聞いてみると、ここに巨大なチャイナタウンを作る計画があるという。
環境についてはよくわからないがここ一帯だけすべての木が伐採されてしまっていてちょっと毒々しい。発展を取るのか、自然を取るのかという議論の前の話としてこんなに自然を破壊してしまっていいのか?となんとなく怖い気がした。一本道はどこまでも続き市内を出るともう順調である。がんがんに飛ばして10:30。バーンナ寺院に着く。


静かに佇むこの寺院。なんだか岩盤の上に直接塔が乗っているかんじの寺院で神秘的である。サイに連れられて本堂でラオス式お祈りも初経験。気持ちもテンションも高くまだまだOKだ。さらに2時間。だんだん車内も無口になってきた12:10。バカリに到着。

ここで昼食をとる。意外にもおしゃれな感じのオープンレストランに入る。雰囲気もよくて思わず長居をしてしまったのだがこれがあとあと響いてくることはまだ予測できていなかった。13:50.長めのランチを終えて支払い。全員で20万キップ。まあ2000円弱だ。ビアラオを飲みすぎたせいかすでにmachaは眠りモード。そしてバスは出発。まだ3分の1しかきていないことに一人焦る僕。

15:20.転寝からさめると景色が変わり始めていた。左側に乾いたような岩山が見えてくる。細長いラオスの背骨にあたる部分なのか?いずれにしてもメコンをちょっと離れたエリアを走る。途中、前を走るトラックの跳ねた石がフロントガラスにあたりガラスがかなり損傷する。これはやばいぞと思ったがなんだか気にしていないみたいだ。まあ、走らなくなったわけでもないし、これがいわゆるボーペニャンなんだろう。

日本人だったらきっと大変。車を降りて真っ先にチェックしたり、保険は?なんて会話するんだろうけれどね。16:00。ここで給油ポイントにはいる。体を伸ばすにはちょうどいい。街道に出てみるといわゆる地平線までずっとまっすぐな道が続いている。時折猛スピードでトラックや乗り合いバスが通り過ぎる。それも、まばらだ。メコンの方を眺めると雲の切れ間から指す太陽がいくつもの筋となって降り注いでいる。絶景だね。ひたすら広がる荒野に降り注ぐ太陽。風は乾いていて気持ちいい。息を思いっきり吸い込んだ。なんとなくメコンの香りがする気がした。16:10.ターケークに到着。ここでひさしぶりにメコンに出る。「おお!でかい!」川幅がかなり広くなってきて今までラオスで見ていたメコンではなくなっている。そうだ、ベトナムで見たメコンに近くなっているかも。西日が強烈に肌を刺す。町並みはかなり古く、フランスの面影があるような建築が多い。よく見ると欄干の装飾などが妙にアートしているのだ。昔からあるモノをうまく使うのがうまいんだろう。

何も新しく作り直しことがベストじゃない。あるものの有効活用はエコにもなるし、自然界のごく当たり前の流れなのだ。その後バスはさらに爆走。17:30.サワンナケートの分岐点で直接パクセーを目指す。すでにかなりのロスタイムもありこれ以上遅れられないのだ。チャンパサックの外務省から連絡が入る。「ホテルに花束を渡す人を用意しているけれどあとどれくらいかかる?」。すでに待機中のようだがあと数時間は確実にかかる現在位置。自然と気持ちだけが先にパクセー入りしている感じだ。18:00。日が沈み今日が終わろうとしている。朝からずっと太陽をみていて東の空からこうして西の日没まで僕らは南北にバスを走らせた。一日中メコンと一緒だ。

焼けた夕陽が西のメコンの果てに沈み、東から昇った月が存在感をあらわにする。19:30。サイが「あと160kmだから」と慰められる。でも、普通160kmというと逆にがっかりじゃない?距離感のギャップを感じるが男は黙ってうなずくものだ。赤い夕日がすべて窓の外の黒に吸い込まれるころ町の明かりらしきものが見えてきた。パクセーだ。ここが今回の話のねたになるのだろうか?高層建築のほとんどない町のシルエットにひときわ大きな建物が見えてきた。たぶんあそこが今日のゴールに違いない。そして、20:30。チャンパサックパレルホテルに到着。うーん、長旅だった。

ホテルに到着するとチャンパサック県の外務省の役人のカイケオさんが待っていた。とても怖そうな人である。その人の横にいる女性がたぶん数時間またされた花束贈呈の女性。Shinonが受け取るとニッこり笑ってくれて少しほっとする。ここは昔の王様の宮殿をホテルにしたもので、このエリアでは最高級のホテルだ。僕らがバスを降りると10人近くの人がでてきて荷物を持っていった。僕らはそのままレストランに通される。大きなレストランに僕らだけ。そして、そのまま歓迎の夕食会となった。カイケオさんはラオス語オンリーのようでサイが結局通訳をすることに。歓迎の挨拶を終えまずはビアラオということで打ち解ける。ビアラオ好きの僕らにはもってこいだが、この国でビアラオをほめるとみんな喜んでくれる。でも、正直にこのビアラオがおいしいんだからこれはラッキーなことである。会食を終え部屋にはいるとこれまた豪華な応接セット付のスイートルーム。なんとNHKも映る。ここでミーティング。気持ちを切り替えて明日からの準備を行う。一日車の中だったがそれでも結構疲れて早めに就寝。


2008/02/19
500起床。まだ真っ暗だ。6時朝食、朝早いのが僕らのツアーの特徴だがこの日の出前はちょっと早すぎる。なんとなく寝ぼけた顔であつまる一行。朝食を終えたころようやく日の出。僕らはこの町を一望できる屋上にあがる。そこはパクセー市内が一望できるところ。朝もやの中に町がまだ眠っている。朝日を浴びてなんとなくすがすがしい気分に。「早起きはいいよねぇ」なんて言えるようになってきた。7:00。カイケオさんに導かれて出発。昨日食事のときにshinonが滝を見たいといっていたせいか、僕らはワットプーではなく近くの滝の名勝に。今にも壊れそうなつり橋を渡ったり、なんといってももうイオンたっぷりの大自然に満足。風も気持ちよくすごしやすい気候も手伝ってか元気がかなり出てきた。

その後、パクセー市内でメンバーが一人追加。日本に留学しているエーちゃん。初対面だったがGucchi氏のことは良く知っていた。頼もしい助っ人である。そして、11時街道からメコンへの一本道をたどりメコンの渡し場に到着。ここには橋がないのでみな、この渡し舟を使うしかないのだがこれがものすごい

。船3艘が連結してその上にいたが張られていて車を載せられる仕組みになっている。乗り上げるときもぎりぎりでかなりスリリングだ。きっと年に数回は落ちちゃう車とかあるんだろうな。と思う。無事に乗船を済ますとみんな車を降りてメコンを満喫。

青い川には子供たちがはしゃいでいる。ヴィエンチャンであんなにちゃいろだった川に青が戻っている。きれいだ。10分ほどで川を渡りきり僕らはワットプーに向かい上陸を果たす。そこからは基本的に一本道。本当に何もない道をさらに10分ほど良くと僕らの今日泊まるホテルに到着。ワットプーエリアでは唯一のホテル。でも、期待したものとは異なりかなりDEEP感漂うホテルだった。

ここで岩月さん合流。いろいろ今回の準備において動いてもらってた人だ。以前一度ヴィエンチャンであったきり以来なので懐かしさ満点である。その後県庁のようなところに到着。目の前のメコンビューのレストランにて昼食。岩月さんいわく、食事をちゃんととるのはここしかないとのことだった。そのお店を出たとおりの横断バーナーを見るとGYPSYQUEENへの歓迎の言葉が。日本ではどうなっているかわからない状況だがこうして現地では準備が進んでいたことを理解できるものであった。

12時からランチ。そしてホテルに14時に戻る。荷物を片付けて14:30から打ち合わせ。曲の構成や最終的なセットリストを確認する。1時間もしないうちに出発。いよいよワットプーに向かう。日本を出て3日目。ようやくの目的地である。ゲートをくぐり博物館を左手に僕らのバスは突き進み、参道の手前で止まる。

いよいよ来たぞ。ワットプーの遺跡だ。初めて見るこの世界遺産。参道をたどり宮殿前に着く。驚くべきことにこの遺跡は特に立ち入り禁止などのスペースを持っていない。普通日本の遺跡だと、立ち入り禁止の札がたちロープか柵で区切られているだろう。ものによってはガラス張りだったりすることもある。しかし、この遺跡の建造物には何気なく普通に人が寄りかかり写真をとるもの、商売をするものなど思い思いにすごしているのだ。

その遺跡の多くは崩壊している、または崩壊途中のものが多かった。時の流れで黒く染まったその石は歴史の重さを感じさせる。昔、いったいここはどんな反映をしていたのだろうか、相当な立派なものである。そして、それが無造作に転々としているのだ。僕らはさらに参道をたどる。地盤の関係からだろうか、ゆがんだ階段はところどころ崩れ危険なくらいだ。そこをおばあさんたちがよじ登っていった。

中腹まで出て振り返るとかなり急峻なのぼりであったことに気づく。遠くに参道が一本に延びる。そうか、ここだったか。ここに来る前にいろいろ検索して風景としては知っていた。でも、この石の重み、山肌を駆け上る風に染み渡るお香のにおい。それはきてみて初めて感じるものだ。写真でみた斜めに倒れかけた神殿は今日にも崩壊をしてもおかしくない状況。これが倒れてしまったらそのほかの遺跡のように「くずれた美学」だけが残るのだろう。それも自然の摂理だ。しかし、この遺跡はなんとしても残っていてほしいと思った。今すぐに修復しないと。でも、それをする力は僕にはない。音楽で何ができるのか考えるのだ。もっと考えれば何かきっかけがつかめるかもしれない。次の世代にこの遺跡をどうのこしていくことができるのか、ずっとそんなことを考えていた。途中、咲き乱れる白い花を見つけた。神殿に上がるメインの階段の両脇にその木はあった。「これがチャンパの花だよ」そう教わってよく見ると、そうだみなれたチャンパの花だ。そうか、こんなに幹のしっかりした木に咲く花なんだね。イメージとまったく違うのでちょっと驚きだ。

この遺跡ができたのがおよそ800年前。きっとこの花はそのときからずっとあったんだろう。文明が栄えて壊され眠りまた注目され、それらの長い時間をこの木はみていたんだなとおもうと感慨深い。一つ一つのものがすべて印象的で結局戻らなければいけない時間に間に合わず最後の神殿までいけなかったのが残念であるがもう、おもいっきりこのイマジネーションを受け取った僕ら。ここにこないとわからない「気」を感じたのだった。

17:00。遺跡からもどってステージの打ち合わせに入る。打ち合わせといってもまだステージがぜんぜんできていない。本番まであと3時間でだいじょうぶなのか?紹介されたクルーと挨拶をする。その一人が「ペット」だった。ん?ペット?そう、インディレコードの社長だ。社長がなぜここでPAのセットをしているかわからなかったがようは何でもやらなきゃいけないんだろう。ステージにあがり内容をチェックするとドラムセットのボルト関係が一切ないことに気づく。「今日あるセットはこれだけであとは明日しか届かない」。届かないったってあなた、タムやシンバルがあってもそのスタンド類が一切なくてどうしてステージができるのか?わらっちゃう出来事だ。どこからか借りにいくことはできないのか?とりあえず探してもらうことにする。このままでステージをやってほしいといわれたがそれは無理だ。何でもかんでも必要という贅沢なバンドではない。

でも、最低限の事ができずにステージにたてばそれは完璧なものができなくなる。それを聞かされるお客さんだって納得しないだろう。僕らは無理を言っているんじゃない。でも、結果的には無理なことなんだろう。ここにくるまでの交通手段を考えるとあと3時間でできることは限られている。この時間まで、これで良いと思っている音響スタッフに腹が立った。今回、いろいろなラオス人にあい、その努力や上昇志向に感激した。でも、こうしてどうにでもなれ、とおもっているラオス人がいることも確かだ。エンタテイメント産業に従事しながらそんなこともわからないスタッフに失望した。とはいえ、コンサートは音響スタッフのためにやるわけではない。

僕らはもっと大きな大儀の中ここに来ている。どうすればベストな選択がとれるか急遽考えることに。ここにいても仕方がないのでとりあえずホテルに戻る。やるとすればアコースティックセットしかないが、そのためにはアレンジも変わってくる。

今回、この地でやるためにパクセーの曲を用意してきたがアコースティックという前提では考えていなかったのでここは何とか立て直さないといけない。基本的にはドラムがなければ中止というスタンスだが打開策を考える。18:30夕食にでかける。昼食と同じ場所だった。ここに今回のワットプー遺跡の保護責任者という役人の人が来ていて、今日はこの人の主催する食事会であった。会場の情報はすでに届いていて、最初に不備について詫びられた。その言葉には本当に残念だという気持ちがこめられていて、それでも、できればこのお祭りで楽しみにしている人に何か演奏をしてほしいと頼まれる。この場で杓子定規に断れるはずもなく僕らのできる最善を尽くすと約束。一曲でもいいので観客の前に出てほしいといわれる。

音楽をやる上でこの上うれしいことはなく、なんとか、4,5曲できるようなスタンバイをすると約束。まあ、何とかなるだろう。本番まであと2時間弱だ。食事を終えて会場にいくと今度はタムが増えていた。しかしつなぐパイプやスタンドは一切なし。ここで今日のドラム入り演奏は明日に持ち込まれた。セットリストを急遽変えてスタンバイに入る。30分ほど送れて20:30僕らは最初のステージに立つ。

パクセーの曲、日本の伝統曲、僕らのオリジナル曲を取り混ぜての演奏。理解してくれただろうか?shinonのMCは妙に受けた。発音が異なるためか。まあ、幼児がしゃべってROCKをやっていると思えば興味深いものだ。終了後カイケオさんがとても喜んでいた。この笑顔と昨日の会ったときの怖さはもうリンクしていない。別のような印象である。今日やってよかったな、と思う。音楽は主張の場、発行の場、共有の場。だからこそ聞いてもらって何ぼということなんだろう。


21:30.終了後みんなでおかゆを食べに。最近なんとなく健康的だぞ。でもスパイスを入れすぎたせいかめっちゃ辛くつらかった。基本が辛いということを忘れていました。そのあと会場を簡単にみてバスへ。とにかくパワーがあるというかありとあらゆるものが夜店で売っている。そして広いのだ。「ムエィ〜(疲れた)」。さらに数万人の人々の歩く砂埃でこの会場が煙っている。気のせいかのどが痛くなってきた。Shinonののどに影響をするのは良くないので会場を離れる。明日はドラムセットあるといいね。そう願い出発。

23:00ホテルにて反省会。オープンテラスのその席のすぐ先には一本道が。フェスから帰ってくる車でとてもにぎやかで、これも岩月さんによるとこの時期だけと言う。今回のスタッフのサイ、エーちゃんと一緒に飲む。日本とラオスについていろいろ話をした。みんなが目指しているのはこの二つの国のもっとたくさんの交流。経済的にはなかなか形にならない部分もある。文化的にはほとんど知られていない。だからこそ誰かがやらなきゃいけないわけで今日、ここに集まった日本人とラオス人はそれを具現化したいと願っている。それがここにいる理由でもある。力を合わせてやっていこうと思う。こうして飲み交わすラオスの友人に誓い合った夜。


2008/02/20
6:00起床、7:00朝食。このお祭りも最終日を迎える。この日も朝早くからぎっちり予定が組まれている。朝食はいつものメコン沿いの店で。

このころになるとメンバー、スタッフ、ラオス側の人々とみな打ち解けた雰囲気でいい感じだ。お店のオーナーの娘が店員をやっていて中国語がわかることをしる。話してみると雲南で中国語を勉強しに行っていたらしい。これはラッキーだ。話しかけると中国語で帰ってきた。なんとなく会話が始まり夜は何が食べたい?とかいろいろ聞かれた。とりあえずガイヤーンとサイウアははずせないね、みたいな感じで盛り上がる。9:00。食事後、昨日の写真をヴィエンチャンタイムスに送らなければいけないので岩月さんのネットカフェに行くことに。ここ数日、ネット環境がなかったものでみんなで押し寄せる。岩月さんの店はネットカフェとコピーサービスをしている店でこのエリアでは貴重である。日本語フォントも入っているので利便性も高い。1分250kipという料金制。まず、ここ以外ではネットがつながらないと思うのでワットプーにいく人はチェックしておくといい。

そうこうしているうちにソムディが到着したと連絡が入る。約束どおりに来たわけだ。最初エアできたとおもったら昨日の夜にヴィエンチャンをでて今朝パクセーに到着。そしてチャンパサック入りしたという。長旅お疲れ様。せっかく来てもらって悪いがすぐに出発。今日はラオス最南部へ向かう。このエリアにはコンパペンの滝、川いるか、カンボジア国境などが控えている。夜のコンサートにちゃんと帰ってこれるだろうかとちょっとだけ心配になるがまあ、大丈夫だろう。僕らが心配することではない。9:40。川を再び渡る。ボートの中では昨日違うステージに出ていたというラオス人シンガーたちと盛り上がる。みんなシャイな人が多いので怪訝そうな顔で最初はみているし、まるで興味なさそうな感じなんだが、一声かけるとみるみるまに笑顔になってくる。一緒に写真をとろうというともう、大盛り上がりだし、あとから「彼女と写真を撮りたい」なんて積極的にいってくるほど。そんな触れ合う時間は僕らにとって本当に大切な時間だし、この旅の大きな目的であり信念である。


自分から問いかけてみれば格別な笑顔で返してくれる。こうしてまたヴィエンチャンで彼らに会うこともあるかもしれない。そんな楽しみがまた一つ増えた。川を渡りトゥクトゥクに満載の若者チームと分かれる。それにしてもトゥクトゥクで10時間以上。。。僕には耐えられないことだ。バスはどんどん南下してゆく。

樹林地帯を抜けて平原のようなところに出て11:35.コンバペンの滝にでた。そこは創造をはるかに超えた名瀑。アジアのナイアガラといっても過言ではない。川のコバルトブルーに光る激流はいつまで見ていても飽きない荘厳さ。ボキャブラリが少なく、「すごいよね〜」を連発するしかない。それほどのスケールであった。川べりに降りるとその勢いはさらに増し、冗談でも水に入りたいとは思わない圧力だった。そして、ランチは滝のそばのオープンレストラン。ここも快適な空間である。

となりにインド大使館チームがいてとりあえず乾杯。昨日のステージも見ていてくれたらしく、今日も応援してくれるという。インドか。今まで意識していなかった南アジアの大国だ。どんな文化でどんな生活なのか想像もつかないが今日の出会いが何か意識の始まりになったかもしれない。ここでこの地方独特のラオラオの回しのみが始まる。薬草のようなものをつけたラオラオで健康に良いそうだが、酒の濃さはラオラオのままである。若干二日酔いが残る中ではあるがここは回避できないので思い切り飲む。ビアラオをチェイサーにして飲むラオラオはきついが一緒に飲んでくれる人たちのためにもここはぐいっと。その後民族楽器をみたりみやげ物をみたりした。またもやviviちゃんの恐ろしい値引き交渉にエーちゃんも唖然。メンバーも唖然。さすがである。みんなが気に入ったテンガローハット。中でも一番気に入って買っていたのがソムディ。彼自身初めて南部にきたみたいで結構喜んでいた。

帰りにバスに戻るとカイケオさんがサイを呼び出した。何かと思うと写真を撮ろうという。なんだか打ち解けてきたよね。さらにみんなでとったあとにshinonと3人でとろうという。最初怖かったカイケオさんの笑顔が見れることがうれしい。そして14:35.出発だ。ここに来ていろいろな人たちといろいろな話をしてきた。今までもアジアの国々でたくさんのスペシャルな経験と出会いをしてきた。それらに共通していえることはここにこないとわからないことである。理屈には通らないかもしれないが、ここにこないと伝わらない。それが事実なのだ。今までこのアジアのことを少しでも多くの日本人に伝えたいと思ってきた。もちろん伝えることに努力は惜しまないし、それが理由でアジアを好きになってくれたひとや旅行に来てくれた人も多い。でも、最終的に僕の心の中の中心にあるアジアにくる一番の理由。一番響く部分はここにいないとわからない。

カイケオさんの笑顔、肩を抱くしぐさ。その交流がきっと日本にとってラオスにとって、みんなにとって、そして僕にとって一番なのだと確信を持っていえるのだ。デジタルでない意見で申し訳ないがデジタルに割り切れない部分をここで見つけているんだ。しばらくすると大きなリゾート地に差し掛かる。ここはスパなのだがその環境がまたすばらしい。メコンの流れと数十センチほどのところに広がるオールグリーンの敷地。そこにコテージが点在する。メコンの緩やかな流れと緑のフィールド。絶妙のコントラストでこれはもう日本人OLとかが知ったら大賑わいになるだろうという感じの場所だ。当然日本人はまだ誰も知らないくらいの場所。このラオス南部は未開発の観光資源があふれている。結構時間がたってしまい、結局カンボジア国境までは達せなかった。「国境またいで写真とっちゃたりする?」とい野望は断念。まあ、明日タイとの国境に陸路で越えるからそのときにすればいいか、みたいな感じだ。チャンパサックに戻る途中サイといろいろ話す。

日本に行きたいという彼。もともとタイで映像を勉強していたのでその才能はある。語学も日本語をもう少し覚えれば大丈夫だろう。ラオス人カメラマンとして日本で活動するのも悪くない。日本には師匠もいるわけだしね。彼らと話していて出る言葉はみんな未来への「希望」の心の現われだ。すばらしいことではないか。話を聞いているだけで自然とうれしくなる。超ポジティブな仲間との会話は本当にわくわくするものだ。16時過ぎ。岩月さんから電話が入る。「今どこですか?ワットプーに入るには大渋滞なのでもし、渡し舟に乗れなかったら先に船で渡ってきてくれればバイクでピストン輸送しますよ」。その気遣いに感謝。本当によく気のつく人だと思う。そんな話もありちょっと不安では会ったが僕らの前の車(カイケオさん)の先導のおかげでなんなく渋滞を突破。渡し舟も専用の船を押さえてくれていて、さらにワットプー側にわたっても反対車線を爆走するということで17:30にはホテルに到着した。さすが政府の先導である。

「カイケオさんかっこい〜」きっとこうしてviviちゃんにお酒を注がれることであろう。シートン大使がすでに到着されているということでステージの荷物を積み込み再びレストランへ。

18:30.五日目にして大使と再会だ。この日は大使が夕食会を催してくれた。周りはすべてラオス政府関係者。遺跡関係の人やチャンパサック県の人たちでそれらに囲まれた形で僕らがいることになる。とても不思議だがほとんどの人たちの仲良くなっていたので特に違和感はなく自然と盛り上がることができた。大使の格別の配慮にも感謝だが、何よりもこの場に呼んでいただいた恩に報いるにはこのステージを成功させることが一番だ。飲みたい気持ちを抑え(とはいいつつちょっとは飲まないとね)ステージの準備に入る。結局、レストランを出たのは19:30過ぎ。会場に着いたのは20時を過ぎたころだった。

すでに岩月さんが夕方機材の確認をしてくれていたのでドラムがあるかないか、などの基本的な部分は解決していた。あとはサウンドチェックだがステージ前に簡単に20分ほどで、と話していた。しかし、そこはあまかった。ワットプーの遺跡の入り口まで長蛇の車列。そして、会場内は道はあってないようなものという感じ。到底ステージまでたどり着かないと思った。でも、そこは心強い関係者のおかげでどんどん、中に入る。人を掻き分けついにマイクロバスはステージ裏に横付け。これはすごい。日本人には到底できない積極さだ。

おかげでぼくらも万全な体制で望むことができる。さっそくステージにあがってセットをと思うが超満員のステージ。とてもじゃないけれどサウンドチェック、ましてリハーサルなんてできない。Masaoが機材をセットしにステージに上がるだけで歓声が上がる。確実にやるためだけならリハーサルもいいが、この空気を読めないやつにはなりたくない。メンバーに相談してリハなしで望むことにする。だれだってリハはやっておきたい。でもこの状況を当事者として考えればできないのは仕方がない。だれもが文句を言わず、後は自分の力量でこなすことだけを考える。言い訳はしない。最高のものを見せてもりあがってもらい、日本という国の音楽をしってもらい、僕らがこの国を愛しているということを伝えればいいのだ。

音楽家の役目はすべてそこに集約される。広大な広場がすべて観客で埋まった。「どれだけいるの?」と聞くと「5000人から2万人くらいでしょうね」と帰ってくる。その差はなに?とおもうがこれは数え切れる数ではないことがステージの袖から見てもわかる。スタッフも大変だビデオの設置、カメラポジションの確保。指示をしなくてもみな自分の役割をこなす。エーちゃんは僕らのセットのサポートを。ソムディはshinonの警護を。バックステージでラインチェックを行いいよいよ本番だ。MCの人が観客を盛り上げる。ビアラオのスポンサードによるこの巨大なステージは2ヶ月前からこちらではTVで宣伝されていたという。僕らが知らない間にいろいろなことが行われてそして今日に至った。力を出すときはいまだ。たくさんのありがとうを音に変えてみんなに返していこう。そしてステージは始まった。



サーバイディ!チャンパサック!そこから始まったステージはいきなり盛り上がる。ステージの先はそのまま人の頭で埋まっていて遠くのPAブースまで歩いていけそうな程の密着度だ。定番の「moonlight&sunshine」でスタートする。Shinonが飛び出すと客席もそれに反応して揺れる。

そして「未了」、「Fight it out」につながっていく。Shinonのラオス語のMCは受けた。今回も通訳なしで望むステージ。僕らの音楽に通訳はいつもつかない。少しだけれどなんとか伝わるように現地の言葉で話す。自分の口で、自分たちの言葉で。それは一番の交流の近道である。そして、ラオス語曲「Bor Luem vientiane」と続いていく。

このころステージ上でギャップを感じていた。ここに来るまでの聞いていた南部ラオス人のイメージと異なるのだ。遺跡でのコンサートだから静かな曲でいったほうがいいかな?ドラムはうるさいからアコースティックのほうがいいかも。そんなことを東京で考えていた。現地のことを知りもせずに自分の頭の中にある想像と古い文献のみ頼りにしてだ。僕らの間違ったWat Phou知識はその後外務省の方々や岩月さんからの情報もあり今のセットリストにもってきた。

それでも実際に演奏するとまだまだ違いがあったことに気づく。まあ、それなのに僕らとしては「予備のため」と、静かなナンバーを用意していたのだ。まあ、重要なことではある。回避柵はいつでも必要だ。実際はどうだろう。意外や意外。ロックの立てのりのビートが流れ始めればジャンプする若者たち。手を突き上げる彼らにステージ上からハイタッチをするとさらにボルテージは上がる。どこの世界も若い力は最先端に行きたがっている。日本からきた僕らには日本のROCKを聞かせてほしいのだろう。

そう感じ取った僕はボリュームを少し上げ気味に、サウンドもひずみ気味のセッティングに変えていった。今日はお祭りだ。とにかくみんなが楽しめれば正解だ。その勢いでメンバー紹介のコーナもmachaとハンドマイクでパフォーマンス。チャンパーの花のオペラバージョンも受けたし、恒例のコイマックラオも観客の温度を上げることに役立った。打ち合わせなしの盛り上げアドリブも長年のパートナーmachaはついてきてくれる。当然、打ち合わせなしでもmasaoはばっちり掛け合ってくる。

後半はラオス語曲のアレンジバージョンのオンパレードだ。シンを着て登場したshinon。「Koulab Pakxan」から「Dan heng It Sa La」は会場からの声もはっきりと聞こえる。特に今回このラオス独立の歌を僕らはCDに納めラオス政府に献上した。それが今回の公演のきっかけとなったこともひとつだが、この「自由の歌」をラオスの地で歌うことの格別さは言葉にはどうしても表しきれない。日本人がラオスの独立の歌を日本風にアレンジして日本人ボーカルがラオス語で歌う。うーむ、よくわからないくらいに入り組んでいる。

この曲、このバージョンはラオスで流行るな。そんな気もしてきた。そして、後半になだれ込む。ROCKをシンを着ながら歌うのも不思議な感じ。その究極が「SEALINE」だ。これは今回の選曲の中でももっとも激しい。ちょっと厳しいかもとおもったがもうイントロから観客はジャンプ!だ。みんなついてきてくれている。来てみないとわからない、ここに立たないとわからない波動を感じる。パクセーの地元曲「Pakse Denh Ngarm」も予想通りに受けた。現地の曲だからいわゆるオーソドックスなパターンで原曲とまったく同じ構成にしないとお客さんは分からないのでは?と思っていた僕らだがもし、チャンパサックの人たちがそんな話を聞いたら「???」ってことになるんだろうね。

アレンジが変わろうとばっちり曲に合わせて盛り上がってくる。音楽についての興味は相当あるのだろう。ま、そうでなければこの日本人バンドのライブなんて見に来ないしね。そして、コンサートの最終局面に。最後の最後にやる曲は「kobjai」だ。このラオス語のタイトルをつけたこの曲。いろいろ流行らせていきたい。そういう思いで作った曲だしね。そうして盛り上がったまま約70分のコンサートは終了。コイマックラオ!最高のお客さんであった。

いつまでも盛り上がる客席に声を振り絞る。「キットンライ!ワットプー!」またくることができるだろうか。それもこれも僕らの思い次第だ。強烈なメンバー4人の思いは会場に向いているだろう。全16曲。70分足らずのステージはあっという間に終わった。

終了後みんなの笑顔が待っていた。「ものすごいよ!」「一緒にこれてよかったよ」これは僕らにとって最高の言葉だ。すぐにバスに乗り、大使のいる貴賓席に。そこにはラオス政府関係者とビアラオの活気あふれた観覧席があった。さっきまで立っていたステージの明かりに遠く照らされての再会。どうだったろうか、喜んでもらえただろうか?

第一声は「wao!!VeryGood!!! hahaha!」。なみだが自然に出てきた。今回何のためにがんばったんだろうか?それはこの人のこの顔を見たかったんだ。何度も見たけれど今までにない最高の笑顔だった。この笑顔を見ることができれば僕らは合格だと思ったに違いない。

その評価は満面の笑顔に他ならない。そんなことのために時間を費やすことはとても重要であり、無駄なんてありゃしない。ラオスでのコンサートに意味があるのかないのかとか、お金にならないとか、効果だとか、そんなものは一切関係ない。ステージをやりそこで本当に心から喜んでくれる人がいること。それが僕らのやりたいことでどんなに厳しくてもやりとげ、今まで誰もやっていないアジアの国々で新しく何かをやることが僕らの使命であるんだ。そう、これはもう、僕らの使命に変わったのだ。と。

バンドマンの行きつく先は人に喜んでもらうこと。人の心をわかせること。それがすべてなんだよ。

それ以外は二の次でいい。全員の笑顔の中、乾杯は続き、大量のビアラオのお土産や県からの記念品をいただき盛り上がる。気のせいか、ラオス側の人たちの盛り上がりが格段にすごくなっている。みんな良い笑顔なんだ。相当盛り上がり、相当飲んだ。そろそろ戻る時間となり、みんなの輪をくぐってバスにもどる。まだ、会場はお祭りムードの最中。22時すぎに帰路に着く。

足の踏み場もないほ道どびっしりと人で埋まった路をゆっくりと掻き分けてバスは進む。遠くに今日のステージが見える。すでに懐かしい。ここでやることは十分にやった、と思う満足感が残る。当然ホテルでは打ち上げに。ミニマムのスタッフでもりあがった。最高のお客さん。最高のクルー。最高のメンバー。コイハックラオ!だ。打ち上げではみんなの思いをいろいろ話した。昔はよく最終日には考えの違いやこのアジアでの音楽の収益性に疑問符がついたりしたこともあった。でも、幸い今ここにいるメンバーに揉め事はない。みな、クレバーな大人として、日本を愛するものとして自分たちの役割を求めそして完遂しようとしている。そんな仲間たちとの酒のつまみは「これからの日本とアジアについて」だ。

役人でもないただのバンドマンが話すにはちょっと大きすぎるテーマではあるが真剣に考えてみよう。そこには音楽にできる道がたくさんあるはずだ。この公演のただの思い出にしないために、クールダウンと明日への一歩を今日から踏み出すことが重要だ。そばにいたラオス人グループ(っていうかラオス人しかいないけれど)にビアラオからもらったビールを差し入れ。そんな彼らは英語が堪能でみんな陽気だ。最初のシャイな部分はあるがきっとそんなことちょっとしたことで気持ちを解き放つことができるのだろうと思う。

2時を回り明日のことも考えお開きに。明日は5:30だからね。とりあえず寝よう。ちょっとでも寝よう。3:00。サイの撮影したデータをPCに落としつつ就寝。

2008/02/21
05:30起床。かなりのマオカン(二日酔い)だ。世の明けぬころのこの準備。今回はやたらに日の出前に起きる事が多い気がする。だるい体を引きずって準備を整える。昨日viviダンスに一生懸命だったコザックがとうとうダウン。まったく動けない状況でホテル待機となる。この托鉢に参加できなくて残念だなと思う。6:30には大使とワットプーで待ち合わせる。

托鉢。この仏教国のピュアーな気持ちの表れ。会場には早朝だというのに、車列が延々と続く。参道を歩き、足の踏み場もないくらいにあふれている人の中に僕らも座る。お経はなんていっているかわからないけれど、一心に祈る人々の姿を見ると気持ちは伝わる。しばらくするとお供えをおぼうさんに配る時間になった。オレンジのケサをきたおぼうさんたちが大勢現れる。参道はどこまでも長い列になり、両サイドから人々がお供え物をおぼうさんの持っているカメのようなものに入れていく。僕らもそのやり方を教わりやってみる。

お供え物を額に寄せて願いをこめる。そして、お坊さんの持つカメの中へ。そんな仏教的な繰り返しをずっとしていくのだ。宗教は良くわからないがこの行いが神聖なものでありそして清らかなものであることは良くわかる。人々の顔はみな美しい。この今僕が目に見ている映像はたぶんほとんどの日本人は知らないだろう。見てほしいね。このワットプーでの出来事。もともとアジアは同じ仏教文化だ。日本人にもきっとわかるはず。ただ、本当に残念なのはこの雰囲気。写真や言葉では伝わらないなと思ったこと。ムービーでも難しいね。

この人たちの念とこの風を受けてここにいないと。なぜ托鉢をやるの。と聞いてみると「お坊さんは働いていないから食べさせてあげることが必要でしょ」と答えてくれた。そうか、そうだよね。勝ち負けだけで判断しない人間としての基本の心なんだろうな。みんなお金持ちじゃないし、自分の生活だってぎりぎりのはずだ。そんな人たちが寄せるこの好意。

彼らは何の見返りも求めることなく信じる心だけで行動に移している。今の日本にできるだろうか。大使はここでもいろいろなことを教えてくれた。壊れかけた遺跡のことやラオス人の習慣のこと。すべてが吸い込むように僕らの意識に入っていく。


僕らはワットプーの会場を後にしていつものレストランへ。時間はまだ朝8:00。早起きはいいね。すっかりおなかもすいて朝食。この日の朝食はお別れの食事でもある。なんとなくさびしい雰囲気が流れてくる。「今日の夜はバンコクなんだよね」と誰かが言うとみな頷かない。いうなよ、みたいな感じだ。僕らの送別会ということで遺跡を管理する長官や町長さん、そしてこの公演の関係者がたくさんやってきた。

僕も今回の旅で思ったことを彼らに告げる。歓迎に対する感謝の念ももちろんだが一番強く思ったのはこの遺跡の保護だ。明日にも崩れちゃうかもしれない遺跡。なんとか保全できないものか。この南部の観光資源をみせてもらったけれどそれは魅力的なものだ。まだまだ開発の余地が十分にあるこのエリア。そんな発展とともに遺跡を守ることはできないかと思う。

「明日にもこわれちゃう!」この気持ちがいてもたってもいられないのだ。みんなその点をすごく感じているみたいでなんとかしていきたいと言っていた。気持ちは一緒だった。ここにきてよかったな。本当によかった。インターネットの中でしか知らなかったことを体で感じることができて本当に多くのことを知ることができた。その後バーシーの儀式へ。僕らを送り出してくれる儀式だ。僕の腕には数年前からこのバーシーのリングが取れずにある。きっと買ったものならとっくにはずしているだろう。でも、僕の腕に祈りながら結んでくれた人の顔が消えない限り自分からははずせないのだ。

そして、今日も実にたくさんのバーシが僕の腕に巻かれた。メンバーもみな思い思いにラオスの人々の心を授かる。Shinonはもう完全にないてしまって使い物にならない。残念といえば飲みすぎてしまいコザックがこの場に参加できていないこと。これを経験できないのはもったいないよね。なぜかラオラオを飲まされたりしながらこの儀式は終了。最後に僕らから歌をプレゼントする。ここにいる人たちだけにささげる。

もちろん曲は「Den Heng it sa la」だ。ないて歌えないshinonのサポーターは全員だ。この歌を結局全員で大合唱することになる。みんな良い笑顔をしている。出会えた喜びを全員が感じているんだな。そして、歌好きなみんな。アンサーソングということでラオス側が僕らに歌をプレゼント。なんだか盛り上がってきた。最後にラーコーンを歌ってくれた。さよならの歌だ。実はこの歌、2年前にカバーしようとしたことがあった。でも結果的にはできなかった。それはこの曲のメロディの解釈がまとまらなかったのと曲自体が僕らの感覚にしっくりいかなかったこと。やっていても感情移入ができずに結局やらなかった。なので、結果的に譜面だけはのこっている、といういわくつきの曲だ。その曲を今まさにみんなが僕らに歌ってくれている。

そして、2年前は入ってこなかったこの曲が気持ちよく体に入ってきたことに自分でも驚いた。音楽は音符の羅列ではない。こうして歌う人の気持ち、場所、感情で変わるもの。今、この曲を聴いていてものすごく気持ちいい。日本に帰ったらこの曲をアレンジしてみよう。そのときには今日のこの気持ちを思い出してみよう。別れのときは近づいた。時間は11時近い。出発だ。このころになるとみな「ビーナイ」と言い合っていた。ラオス語で「来年ね!」だ。そう、またここにくるよ。待っていてくれる人たちがまた増えた。

僕らはホテルに戻り帰国の準備をし、すぐに出発することになる。サイに渡すDVDを焼きつつ間に合わないので出発。焼きあがるまでバッテリがー持つかどうか不安だ。帰りの道もワットプー帰りの車の列が大渋滞になっていたがカイケオさんの先導であっという間に渡し場に。そして、川を渡った。おととい初めて渡った川に歓喜していたみんなだが今は静かにこの川を渡る。この三日間にもらったたくさんの思い出をもって川を渡るのだ。バスは爆走し12:30パクセー着。今回ショッピングをまったくしていなかったので市場でショッピングタイムをもらう。30分でお土産をGET。ここでもviviちゃんのスーパーディスカウントが炸裂し、みんなシルバーのアクセサリーをGETしていた。さすがである。13:00。メコン沿いの水上レストランでランチ。

おしゃれな雰囲気でたぶんこの旅最後のラオス料理を食する。ここで電源を拝借してPCのバッテリーも充電。電圧大丈夫かなとドキドキものだ。時間も迫っていてあわただしくも14:00出発。一路タイ国境に向かう。

14:40.イミグレで若干時間を要したがなんとこのバスのままウボンまでいけるという。もちろんみんなで。ぼくらもここでラオス側のメンバーとさようなら、と思っていたのでちょっと嬉しい。これもカイケオさんの格別な取り計らいによるものだ。本当に今回はラオス政府に何から何までお世話になった。ここでカイケオさんとお別れ。ありがとう!次は日本で会いましょう!といって別れる。すぐにチョメック到着。タイに入国だ。

しかしここでトラブルが。なんとさっき発行した臨時のパスポートについてもめている。なんでも要件をみたしていないということで再発行が必要みたいな感じだ。さすがにソムディの表情も曇る。交通省の役人が一緒にいてのトラブルはしゃれにならない。ただ、ここはタイ。ラオスではないので従うしかないのだ。時間はどんどん迫ってくる。待ちに待って16時を回る。いてもたってもいられなくなる。まずい。このままでは普通にいけば間に合わない。最悪のプランを考える。

乗り過ごしたらチケットを新たに買う予算を持ってきているわけではない。バンコクまで車で行くか。23時に空港に着けば間に合う。それならばこの車で行くか。でも、カンパイはラオス人、バンコクまでの道はわからないという。第一、何時間かかるの?到底無理かもしれない。それをわかるためにまずはタイ側の人に聞かねばならない。ならばさっそく乗り換えていくか。でも、乗り換えの時間、さらに何の責任もないタイのドライバーに任せること自体が不安だ。ではウボンで一泊するか。でも、そうすると今晩のTGには間に合わずキャンセルとなり、明日の便が抑えられるかどうかはわからない。どう考えても逃げ道はない。それでもいろいろなプランを錯綜させる。最後の最後にメンバーに迷惑をかけたくない。そんなときにソムディが帰ってきた。出発だ。

バスは猛ダッシュで走り始める。すでに16:20.「だいじょうぶか」と聞くと「大丈夫17:30にはつくよ」という。ん?通常ここからは2時間。それを1時間でつくというのはどうかと思う。「とにかく急いで」そう告げて今度はTGのオフィスを探す。事前にわかっていればなんとかなるかもしれない。日本のTGに電話をするとすでにオフィスは時間外で終了しているためにかからなかった。それではとバンコクのオフィスに連絡してウボンの電話番号を聞く。通常、帰国便のことなどを考えていろいろ資料を持ってくるのだがまさかウボンでのトラブルがあるとは思わずこのウボン関係の資料は一切持ってきていなかった。

準備不足だった。いかなるトラブルがあっても対応できるようにしておかなければ。絶対はありえない国だし、結局は自分にふりかかってくること。僕の英語力ではこの難しい状況説明ができるはずもなく、ソムディにバンコクのTGに連絡してもらう。バスは爆走。途中でガソリンがなくなり給油。この時間すら時計の秒針の音が聞こえるくらいだ。そして、ようやくウボン市内へ。すでに17時を回っている。便は18:15.TGのチェックインは30分前に閉められることもあると聞いたことがあり、とにかくウボンに電話をしないといけない。ソムディが何度かかけるがなかなかつながらないようでウボンの電話はまだわかっていない。渋滞気味の市内。そうだ、タイのトラフィックジャムは有名である。

そんなときカンパイがきょろきょろし始める。「みちがわからない」。。。「誰かに聞け!」とバスを降りて町の人に空港までの道を聞く。まあ、相手はそんな緊迫感はわからないので、のんびり話している。にこにこタイ人と話ているサイをみんなで「サイ!はやく!!」と叫んでバスに戻らせる。「akiさん顔怖いよ」笑いながらエーちゃんが言う。「怖いって、まじめになっているのよ」。このタイミングでも陽気なみんな。少し気持ちも柔らぐ。最悪ここに一泊しなければならないことも覚悟。それでも最後まであきらめずにチェックインの準備をする。「ソムディとshinon、viviちゃんは到着したらダッシュでカウンターで走って何とかチェックインさせて。とにかくカウンターに行ったら絶対にチケットを切ってもらうように頼んで残りのメンバーは荷物をもってきて。数がわからなくならないようにみんな数量を確認しよう」人に任せるので数量確認は大事。致命傷になりかねないので、きちんと確認して役割を決める。

「ソムディ、ウボンは?」再度電話をしてもらう。ようやくつながった。時間は17:50.理由を説明してくれるソムディ。こういうときに役人は強い。空港が見えてきた。入り組んだところにある空港でこれは初めてではわかりづらい。カンパイも猛ダッシュをかける。ソムディも席を立ち入り口にスタンバイだ。18:00.空港着。二つに分けたチームでカウンターに走る。サイが違うほうに走るので「こっち!」と呼び戻す。

5分後。チェックインカウンター前で安堵の表情のソムディ。「大丈夫っていったろう」。そういいたげな笑顔だ。間に合ったのだ。「やったね!」2回も迷ったのに1時間40分でたどり着いた。みんなのチームプレイに感謝。この1時間40分のドラマは最高のハッピーエンドになった。みんなで抱き合いまるで勝利宣言だね。これを映画にしたならばタイトルは「チームウボン」だ。

最後の最後まであきらめない僕ら。日本人6人、ラオス人4人の最強チーム。

僕はちょっとへなへな。乗れなかったらの選択肢で頭がいっぱいだったものがすっかり抜けてからっぽになった。荷物をどんどん入れてゲートにすすむ。幸い小さい空港で助かった感もある。名残惜しい別れ。もっとたくさん話したかった仲間。でもみんな最高の笑顔で別れられる。Shinonはまたもや泣いている。みんな寂しいよ。本当にありがとう。親友たちよ。ぼくらはチームだ。また、一緒に組んで新しい何かを始めよう。


大切な仲間と別れて僕らは日本に帰るために進む。ゲートに入るともう搭乗は始まっていた。振り返る間もなく、機体への最後のバスにのりこみ搭乗機へ向かう。18:20.TG1031便はウボンラチャータニー国際空港を飛び立つ。窓の外の空港の看板の赤い光がやみに浮かび上がる。僕らのツアーはここで終わった。乗り込んだらもうぐったりで少し眠る。バンコクについたらドンムアンからの移動が待っている。まだまだ、気を抜けないことばかりだ。。食事もそこそこに資料を整理しているともう機体は降下を始めている。

19:15。定刻どおりにドンムアン空港に到着。僕らは荷物を取り出しスワンナプーム空港に移動しはじめた。時間はたっぷりあるがどうせならゆっくりしたいと思い10人のりのバンを手配しようとするがタッチの差で全車出た後だった。きいてみると50分ほど待たないとこないという。まあ、時間もあるし、ちょっと待ちましょう。ということで空港待機。みな、チームウボンの記憶が鮮明で話も盛り上がる。しばらくすると先ほど手配したバンの会社の人が来て渋滞でかなり遅れるらしく違う会社のバンを手配することに。そして、20:15出発。乗り込むともう快適なバスの旅でバンコクの明かりを横目に21:00。

巨大なスワンナプーム国際空港に到着した。余裕と思っていた僕らだがチェックインカウンターには長蛇の列。そして、税関も長蛇の列で結局税関を抜けたのが22:30。なんと90分もかかってしまったわけだ。せっかく最後にみんなで乾杯ね、と話ていたのも無理になってしまって残念。でも、早くついて結果的にはよかった。ウボンと同じようなタイミングで空港に到着したのならこの帰国便には間違いなく乗れていないはずだ。23:10搭乗ゲートに。この旅も終わりだな。

23:45。TG642便でタイを出国。機内に乗り込んだが空港も込んでいて飛び立つのに1時間弱の時間を要した。すっかり寝ていたので飛び立った瞬間は覚えてない。機体は安定飛行でインドシナ上空を進む。きっとウボンもパクセーも上空を越えていくことだろう。今回の旅のことをいろいろ考える。このレポートももう終わりだ。まとめることができるのだろうか?以前からなぜラオスに行くか、ということも自問していた。今回はそれが明確になった気がする。

結局のところ僕はこの国の豊かさに惹かれていたのだと。豊かだって?なにが?。経済的にも町並みも生活も統計学的に言えば日本が上だ。それでも数字や活字にできない人の豊かさという本質においてこの国は豊かなんだろうと思う。コンビニがないのはいやだし、電車がないなんてちょっとつらい。そういうことではなくもっと内面的な豊かさだ。そういえば以前、サラワンから僕らのコンサートを見にきてくれた子供たちにお礼として日本から持ってきたボールペンをプレゼントしようとしたことがあった。メンバーのみんなが思い思いに子供たちにプレゼントをしていたんだけれど、そのときに僕がボールペンをその子に渡そうとしたら「いらない」と答えた子供のことを話したと思う。(06年夏のツアーの時ね)ぼくはその子の気持ちにこのラオスのすばらしさを感じた。

きっとそれは今僕が思うこの国の豊かさなんだろうと思う。日本で生きているうちに僕の心はいつしか乾いていた。何かをやるために目的のために。最短距離を考え前に進むことを考えた生活。でも、もしかしたら曲がりくねったメコン川の自然な流れのほうが生きていくには貴重なものかもしれない。曲がり角のたびに出会う何かが人を豊かにしてくれることだってある。直線的な道だけをよしとして生きてきたぼくはいつしか疲弊していた。乾いた僕の心を満たしてくれたのがこの川であり人なんだろう。毎回そうだが今回の旅は格別に自分の気持ちを理解することに役立った気がする。自分の生き方の軸になるんだろうな。きっとしばらくすればそれがもっとはっきりわかるのだろう。

第二章8幕はここで閉じることになる。もう十分に語ったが、ぼくらの行き先はここにあった。行き先は場所ではなくアジアと生きるということだ。日本とアジアの違いはなんなのか、ということが旅をしていく中で僕らは気になり、興味を持ち、近づいてきてそして今このDestinationは明確に僕らの心の中に根付いた。
みんなでそんな話をしたわけではない。ただ、一緒にこの数日を過ごして同じ環境で同じ出来事を見ていた。そして、その答えが見えた旅だった。

音楽面でもいろいろなことを理解できた。ラオス語の歌を日本のアレンジでおしゃれにかっこよく。そして日本語の歌は日本らしく時には思いっきりROCKで。それがここで評価されたポイントだった。この生のデータを取れたことは大きい。特にラオスの中でヴィエンチャンとチャンパサックとおおよそ異なるエリアでの反応がわかった。ただこれも一過性のこと。一年たって同じと思ってはいけない。日々環境は変わり、日本では信じられないほどに人々の流行りも変化していくだろう。データを古くしないためにも密度高く付き合っていくことが大切だ。その気持ちを忘れたら現地の感覚を失ってしまい的外れなバンドになってしまうかもしれない。アジアと付き合うということはそういうことで密着していかなければならないということなんだろうね。今の時代だからかもしれない。アジアにとっても最も重要な時期に来ているということを肌でピリピリと感じるのだ。

4:35。アナウンスで目が覚める。思いっきり寝てしまった。日本時間は6:35。あと1:45で成田だという。時計を戻そう。うっすらと空が明るくなってきている。昨日の朝5:30に起きて托鉢をしてから長い一日がまだつながっている感じがする。「サイ、写真は」っていえないのが寂しい。7:20。もう日本の上空。その証の富士山が見えてきた。雪をかぶっていて綺麗だ。日本の美も伝えなくてはいけないと思ったりする。そして8:15。成田にタッチダウン。みんなお疲れ様!

この旅を通じて協力頂いたすべての方々に感謝します。たくさんもらった気持ちに恩返ししていくためにもまた再び日本で、アジアの中で僕らができることを続けていきます。それが僕らにできる恩返しとなるのでしょう。また、会いに行きます。

GYPSY QUEEN Road to Asia #18
Destination
2008/02/16-2008/02/22 

Photo by Xay ,vivi,aki,Iwatsuki





viviはみた!
スタッフviviの鋭い視点でツアーを読む