Over the Asian
2003/7/17-07/28 


1Look to South


ASIAは広大だ。巨大な中国が鎮座するこのエリアにはもうひとつの巨大なエリアがある。東南ASIA。多数の国がひしめくこのエリアはASEANと呼ばれる。きっとみんなも聞いたことがあるだろう。ではそこにどんな国があるか、どんな言語を話すか全てを語れる人は少ないだろう。もちろん僕らもそうだ。でも、そうではなくなる日が来た。

GYPSY QUEENはASIA発信の音楽を目指しているんだよね。
そのとおりである。過去数度にわたる中国公演、そしてモンゴルでの公演。ASIAを活動の拠点として考えているバンドであるといえると思う。でも、ASIAはまだ広い。2月でも十分に暑い香港よりも南にいったことがない僕らにとってASIAはまだ、見たことのない異国はたくさんあった。いつのタイミングでこの未知のエリアに足を踏み入れるのだろうか。それはまだ、完結していない中国への道を続けている中で起こるはずだ。当然、負担も大きくなる。それでも、近いうちに向かいたいと思った。ASIAはひとつなのだから。

2003年は日本・ASEAN年なんですよ。
そんな声が聞こえてきた。聞き逃さなかったのが僕らの運命であるのだろう。事実、その言葉からそんなに時のたたないうちに僕らのASEANへの旅は始まることになる。


物語はここから始まった。


ある日、昨年の日本中国年での成果を評価して頂いた方から連絡が来たのが始まりだった。それは日本ASEAN年のプロジェクトであった。ASEANの国といってもぴんとこないはずだ。ASEAN加盟国は10カ国。だいたいそれ自体を知らない人がほとんどだ。その国々への友好の一つとしてJ-POPを広めるために僕らが派遣されることになったのだ。それは有難い話である。ASIA発信の音楽を目標としてきた僕らは東南ASIAは未経験である。そういう状況であるからもちろん、即答をした。「是非行かせて下さい」。しかし、そこにはたくさんの問題があった。コンサートといってもただ営業バンドとしてツアーを行うわけではない。僕らのオリジナルを聞いてもらいさらに現地の人たちとの交流の音楽を伝えなければいけない。そのためには言葉の壁がある。
それは今までどおり覚えればいいだろう。しかし、ASEAN各国の言語はみな異なる。ということは4箇所であれば4カ国を覚えなくてはいけない可能性もあるということだ。もちろん、訪問国の決定はしていない。そんななかで僕らは旅のGoサインをだしたのだ。

「なんて無謀な。」
「まあ、なんとかなるでしょう。」
「やってみましょうか。」
「できるかなー」
「大丈夫、大丈夫」


決定は一瞬であった。僕らの東南ASIAへの旅はSTARTした。訪問国は徐々に確定してきた。時間のないなかだから確定も早い。およその候補国はSINGAPORE、MALAYSIA、ミャンマー、LAOS、タイ、ベトナム、BRUNEI位の名前をきいた。この中から3,4カ国への公演となるようだ。それぞれの言語はもちろん異なる。SINGAPOREは中国語と英語とマレー語。MALAYSIAはマレー語と英語。ミャンマーはミャンマー語。LAOSはLAOS語。タイはタイ語。ベトナムはベトナム語。BRUNEIはマレー語。な、なんともおそろしい。もしかりにSINGAPORE、ミャンマー、タイ、ベトナムというツアーであったとしよう。2日ごとにまったく違う言葉となりそれはそれぞれのプログラムもまったく異なるということだ。公演先によって曲を変えていけば100曲用意しても足りない。いつかは全てをクリアしたいとおもっているので遅かれ早かれということはある。でも、今回はちょっと急すぎる。

そして出た結論はBRUNEI、ミャンマー、LAOS、SINGAPOREだった。「よし、今回はマレー語と中国語とミャンマー語とLAOS語だ」当然しのんは真っ青になる。バックの負担ももちろんだがボーカルの負担はそれは大きいものだ。そうこうしているうちにミャンマーでの政変があり、開催国がミャンマーからMALAYSIAに変わった。ミャンマーの担当者の人がとても一生懸命動いてくれていたのでとても残念な気持ちではあるがしのんはちょっとほっとしたようだ。歌を歌うには言葉を覚えなければいけない。急遽、聞いたこともない言葉を習い始めるしのん。その言葉で歌を歌わなければいけない。今までその土地の言葉で話しかけて大きな喜びを得てきたことは良く解っている。あとはそのイメージと現実との戦いだ。なんにせよ渡航まで一ヶ月をきった時点での修正。頑張ってほしい。それしかいうことが出来ない。

少しでもその痛みを分け合おうと今回2曲ほど僕も歌うことになった。そうすればしのんの負担も減ることになる。英語の曲と広東語の曲を歌わなければいけない。曲のアレンジやBassラインだけでなく、メインボーカルをやるということは負担も大きい。でも人にやらせる以上自分でもできないと説得力がない。泣き言を言わずきちんとやることだ。それがしのんの励みにもなるだろう。バンドというスタイルでメインボーカルを採るのは10数年ぶり。大変だとおもう気持ちとちょっとの緊張で不安は増幅。でも、やるしかないのだ。

出発一週間前、ようやく各地の会場が出揃ってきた。もちろんまだのところも多いが一応、公演自体のめどは立っているようだった。慣れてはいけないことだが日本と異なり外国は決め事の決定がぎりぎりだ。それでもできるということは個人個人に力があるという事であるとおもうのだがそれを日本側で受け取るとなるとかなりのストレスが生じる。相手側ももちろん一生懸命やっているので責めるわけには行かない。そのひずみをいつも受けるのが僕らでそれゆえ、ASIAでの音楽興行は難しいのだとおもう。これは自信を持っていえることだが、今の日本の音楽産業はASIAには発展しないとおもう。

もし、日本の音楽がASIAで評価されるためには、ASIAで力のあるプロダクションが主体となって推進するのがよいとおもう。彼らにはこの困難な世界をきりもみする力がある。しかし、僕らがここ数年感じた中では今の日本企業はこの国々に太刀打ちできないとおもう。評価が低いということではない。何か本質的な部分で日本のそれとは異なるのだ。結果的にはこの国々にお金を落として何かをするだけでなかなか本質には踏み込めない。

それが悲しいかな現実であると感じる。でも、そこに僕らは目をつけた。僕らの感覚は彼らのそれに近い。多分そうだと思う。ゆえに抵抗なく(少しはあるけどね)溶け込める。性質として溶け込めるものを持った僕らは貴重であるとおもう。それを生かしていくのが自然の摂理ということなのではないかなとおもったりもする。

そして、7/16日。出発の前日がきた。間に合わないことぎりぎり間に合ったこと。たくさんあるがとりあえずチケットが入手でき、昼にはビザも下りたと知らせが来る。パスポートを返してもらいこれで準備は終了。出発の17時間前。最終的に僕らは旅立てることになったのだ。「MALAYSIA大使館にパスポートを返してもらえなかったらいけないじゃん」昨日の朝まで慌ててたことも解決だ。本来かなりぎりぎりのことで慌てるべき出来事である。でも、そんな感覚に麻痺している僕らは状況をただみまもった。結果オーライだ。さあ、後は明日から頑張るだけ。僕らはすでに南に向かっている。