Over the Asian
2003/7/17-07/28 


5 絆を見つけた日
SINGAPOREはマレー半島南端に位置し、年間を通し常夏の小さな島国だ。人口約500万人70%以上が中国系、そして、マレー系、インド系と他民族な国家だ。

機体はすぐに降下を始め1時間にもみたない時間でSIGAPOREに到着。距離はクアラルンプールから184マイルというから本当に近い。SINGAPORE Changi空港に到着。おりるとそこは赤道に程近い常夏の島国であった。マレー半島の先っぽにほんの小さい島のような形で存在するこの国はほかのASEAN諸国と比べてもとても欧米的である。ちなみに「シンガ」はサンスクリット語でライオン、「プーラ」は街を表すという由来だ。歴史的には1965年8月9日の独立となるのでまだとても若い国といえる。言語は中国語と英語が中心の人口500万人の国だ。

空港に入ると塙さんが出迎えに来てくれた、そして今まで連絡をくれていた中村さんやカレンもきてくれた。カレンとはメールでのやり取りだけだったがとてもかわいらしい女性であった。荷物を積み込みホテルに向かう。その途中にいろいろ説明を受ける。僕らが出国してから決まった27日の公演先もさらに変更になっており時間も異なっていた。それにしてもこの国は綺麗な国だ。町並みは緑に溢れている。30分ほどすると会場でもあるセントーサ島に到着。さっそくチェックインとなる。荷物を解くか解かないかのうちに会場を見に行く。

歩いていけるというのでみんなでカレンの後についていくと、なにやらステージがみえる。以前、もらった写真のイメージとはかなりかけ離れている。「??ん??あそこじゃないよね。」なにげなくしのんにきいてみると困った顔をしている。でも、カレンはそのステージに向かって一直線に歩いている。そして答えは3分後。「ステージは作っている途中ですね。」そうなのだ砂浜に作られた特設ステージが会場なのだ」砂浜は海風。楽器には限りなく悪い。きちんとしないとサビの素になってしまうだろう。海辺の会場がいやなわけではないがちょっとだけびっくり。おかしい、おかしいか?いやそうではない、ここは中国の文化なんだ。チャンネルを中国に切り替えればなんの不思議もないことだ。セントーサ島のすばらしいビーチ。最初からそう考えれば問題はない。「OKカレン、ここで大丈夫、頑張ろう」そういってホテルに戻った。

戻ったあとはインタビューが待っていた。最初が地元のFM局。そして新聞「TODAY」「NEWS」の取材をこなしていく。みな協力的である。インタビューは盛り上がりカレンにせかされつつ終了。言いたいことはちゃんと言えたと思う。そしてすぐにレセプション会場に向かう。会場には大勢の方々がいらっしゃってた。このパーティもなんだかすごいぞ。会場に着くとすぐに菅沼公使がいらっしゃった。ちょっと緊張しながらご挨拶。今回は各地の大使館の方々に本当にお世話になった。中国で知り合った大使館の人ともお知り合いという公使と楽しく会話が出来た。

それにしてもものすごくたくさんの人たちがきている。そしてみんな日本語を話せるシンガポールの人たちだ。それも英語圏や中国語圏などさまざまである。一目見ただけではぜんぜん日本人のようだけれどマレー語を話していたりという感じで不思議だ。今回は日本大使館とJUGASという組織が主催となる。このJUGASという組織は日本に留学して帰国したSINGAPOREの人たちの会だった。年齢もさまざまである、共通点といえばみな日本語が堪能なこと。日本語、英語、中国語を混在して理解できる人たちだ。そしてライさんをはじめこの方たちのもうひとつの特徴。みんな日本を愛しているんだ。帰国した今も日本との絆を忘れていない人たちだ。もしかしたら僕らよりも日本を愛しているかもしれない。それは僕らにとって恥ずかしいことだ。気さくに話しかけてきてくれる方々には本当に助けられた。ある意味その場は全て日本語でOKなのである。また、もうひとつの共通語は中国語だった。入国前はここはマレー語とおもっていたが基本は英語、そして中国語が中心を占める。おかげでしのんはかなり気が楽になったみたいだ。

いろいろな人と盛り上がりアコースティックライブなどをやって会はすすんだ。途中こちらの日本語放送局FM96.3斎藤さんと松山さんと現地事情についてもいろいろ伺えた。今日はかなり情報武装を出来たと思う。最終の地であるここの情報はそれまででいっぱいいっぱいだったのであまり入手していない。なので本当に助かった感じだ。

僕らは部屋に戻りミーティングを行う。会場の変更は構成にも大きく変更を余儀なくさせる。ほとんど全てというくらいにステージ構成は変わった。それでも文句を言うメンバーはいない。前向きに受け止めるメンバー。手前味噌だがりっぱなメンバーであると思う。「自分が当事者である」という当たり前のことを理解するのには数年かかった。でも、アジアツアーのおかげでひょっとしたらほかの人たちよりも早く僕らは「自分たち」というものがみえたのかもしれない。やるしかない、できなければ脱落する。替えはいくらでもいる。生き残るためには何かを自分から掴みに行かねば。それがアジアの共通語だ。

2003/07/26
6:00起床。いよいよ今回のツアーの最終公演の日が来た。午前中はFMへの出演。セントーサ島をでて、僕らはSINGAPOREのFM局「動力88.3FM」へ向かう。ここでは1時間の番組へ出演する。今回の司会も務めるバイリンさんの番組だ。会話はもちろん中国語と英語のみ。1時間の番組中しのんは頑張って話していた。というよりも慣れ親しんだ中国語のせいか楽しそうだった。

もちろん中国語もまだまだだと思う。それでも話そうと思う気持ちが勝り言葉に出てくる。良いことだと思う。だって、はなさなきゃ相手は理解してくれないからね。良くも悪くも語ることは基本の基なのだ。それに英語と中国語が話せれば世界はなんとかなる。そういうものだ。出演を終えてその足でホテルに戻り会場のリハーサルにむかう。休む時間はない。15:00リハーサル開始。この間にも僕らのスケジュールを把握していただいているのかJUGASの方たちが応援に来てくれている。「暑くないですか?」と声をかけられるだけで暑さも吹き飛ぶ。要は精神論であると思う。とはいえ現実は暑い。恐ろしい暑さの中、チューニングは狂いまくり、かなりやばい状況だ。湿気で今回はだいぶ楽器に無理をさせている。帰ったらきっちりメンテしないと壊れちゃうなとおもう。リハーサルは海風を受けて続く。

オープンエアのステージのためリハーサル中から拍手やら盛り上がってくれる人が多くてうれしいんだか、集中できないんだかわからない状況だ。もちろん気を使うしのんはそういう観客に一つ一つこたえているので集中できない。まあ、関心をもってくれるのは嬉しいし、やる気もますというものだ。リハの後にはCDを買いたいという若者がやってきた。「リハなのに」とおもいつつそういった反応はうれしいことだ。売るものは持ってきていないので今度改めてプレゼントすることにした。「そのかわりみんなに宣伝してね」そういうと喜んで帰っていった。忘れないようにしたい。よく口約束だけの人もいるとおもうし、それは当たり前のように語られるけれど、「あげる」と言われた人はちゃんと覚えているものだ。それもわくわくしてね。その気持ちは大事だと思う。

リハの後の少しの時間にホテルに戻る。もう、汗と湿気でべとべとだ。洗濯物を干しにテラスに出る。ツアー後半にして一気に洗濯物がふえ、ダッシュで洗濯をする。少しでも休みたいからその分作業はてきぱきする。目の前にはマラッカ海峡を抜けるために停泊するタンカーが無数に浮かぶ。富の証のように鎮座する船とリゾートビーチで余暇を楽しむ人々をみおろすHOTEL。夕日に照らされたこの風景は美しく一瞬見惚れてしまう。この国は裕福であり人々も幸せであると思えた。「いいねぇ」。さあ、そんなのんきなことを言ってる場合ではない。これから本番だ。

僕らが会場に戻ろうとすると迎えの車がきてくれていた。これは有難い!スタッフが用意してくれたようだが、そのスタッフは徒歩で会場に向かっている。申し訳ないけれどここは体力を温存するために甘えさせてもらいます。感謝。会場で簡単なサウンドチェックを行い楽屋に入る。プレハブとはいえガンガンにクーラーが効いていて快適だ。でも、外との温度差は余裕で15度以上あるだろう。楽器は即水滴の塊となる。かわいそうだが僕らの楽器は外で待機。

そしていよいよMCが入った。状況は見えないが公演は予定通り進んでいる。BeachサイドのこのステージはASEANツアー最後にふさわしいものになるだろうか。あと2時間後には打ち上げに向かう僕ら。そのときにみな微笑んで帰るのだろうか。最後の円陣を組む。「このステージに全力を尽くそう!倒れてもいいよ!」「オーッ」気合は十分。暑さは気にならない。


照明でさらに暑くなっているステージに僕らは上がる。お客さんの反応もいい。今日の公演のために構成をかなり変えて望んだ。ここが英語圏のSINGAPOREであることで英語曲を増やした。また、バラード系は削りロックナンバーを集中させる。今回の公演ではまだ歌っていない中国語の曲も後半に配置し、オリジナルの中国語曲も入れた。MALAYSIAとはほとんど曲目を変えて望んだステージだ。結果が楽しみだ。

コンサートは前半と後半それぞれ一時間に分かれる。本来だとテンションを高めるために一気にやりたいところだが、この暑さではしんでしまう。有難く提案を受け入れ前半が終わった時点で一休み。その間にはローカルバンドLGFが3曲ほど演奏をすることになった。このバンドは地元SINGAPOREのバンドでなぜかジュディマリとか日本の曲のカバーなどもやっていた。きっとしのんがうたう中国語もこういう風に聞こえているんだろうなとおもう。それなりにちゃんと日本語として聞こえてくるきっとこのボーカルのEMIという子も一生懸命日本語の練習をしたんだな。とおもうとなんだか身近に感じる。

僕がそうおもったようにきっとほかの国々での僕らの現地語はそのような印象に捉えられているのであろう。自国語で話されて歌われて嫌いになる人なんていない。多少の発音が違うからといって「君の発音はよくない!」って怒る人はいない。むしろ、アドバイスをくれることだろう。いや、今までアドバイスをたくさんたくさんもらってきた僕らはそれが事実だということをわかっている。この若かりしバンドLGFのメンバーにも力を貸してあげることがいつかできるだろう。15分もするとステージが終わり後半になった。勢いよく「Cassini」「SIQ」と僕らのもつロックナンバーでスタートする。

そして、ここからが中国語コーナーだ。「昨年香港で一番売れた曲だよ」といってしのんが香港のマーチンにもらった曲「好心分手」。広東語の曲だ。ここにくるまで「SINGAPOREでは広東語が通じない」などといううわさもあった。でも、ここにいる人たちは公用語は北京語だが広東語圏の人たちがたくさんいる。案の定かなりうけた。そして北京語の曲などが続きいよいよ僕の番になった「海活天空」。Beyondの名曲。ボーカルの駒ちゃんが日本で事故で亡くなった時に日本版がリリースされたタイトル曲。Beyondにとっても彼らのファンにとっても僕らにとっても特別な曲だ。それを今日、歌う。

Bassを弾いている限りどんな規模でもどんなステージでも緊張することはない。ただ歌うとなれば話は違う。かなり緊張だ。今回のツアーに際して6ヶ国語の歌を歌うことになったしのんのはけ口として、僕も一曲歌うことにOKをだした。大変なのはわかるけれどボーカルは歌うことが仕事、そして歌う役割を授かっているパートだ。おのずとバンドのカオとしてバンドのメインとして扱われる。だからこそどんなきついことでも耐えて乗り切ってほしい。すべては終わった後に最高のご褒美として自分に舞い降りてくるものだから。だからこそ、僕は一曲歌うといった。しのんの歌のほんのちょっとの軽減と、しのんにいろいろな言語で歌わせている以上僕もその大変さを身をもって知らなければいけない。だからこそ、広東語のこの曲を歌うことにしたのだ。

といってもとにかく大変だった。BASSを弾きながらかの有名なBeyondの大ヒット曲を歌う。バラードで。緊張しますよ。ボーカリストだって。でも、これもやるしかないのだから覚えた。移動中、飛行機の中で、打ち合わせ中、シャワーを浴びながら。移動しながら。リハの合間に。そうして本番がやってきた。言葉が通じるかどうか、とか普段は「そんなの気にするなよ、勢いが伝わればいいんだよ」といっている自分と正反対のことで悩んだりする。人間はわがままだ。しのんに紹介された。緊張をほぐすために何か言おうと思った。しかし、マチャのギターが思ったより早く入り戸惑いつつ歌い始めることになる。「今天我〜」(今日 僕は)。「キャー!」初めて受ける歓声に「ボーカルっていいなぁ(^^)」とおもいつつ気づくと歌い終えていた。(僕が歓声を受けたのではなくてこの曲が超有名だからです。念のため)ほっとしたな。受けてよかった。あとは後半、勢いで行くだけだ。マレー語の曲Rasa sayangに突入し後半は飛ばしまくった。ブレイクでしのんが会場に下りる。SINGAPOREの国旗を高く上げ振り回す。お客さんも大喜びだ。

誰もが国を愛している。砂浜の特設会場だから足をとられちょっとよたつきながらステージに戻ってくる僕とマチャ。野外の暑さなんてもう関係ない。倒れたっていいじゃないか。汗でフィンガリングもずれる。いいじゃないの。交差するステージで楽器がぶつかりあう。痛いけどそれもいいじゃないの。最後のアンコールを3連発でこなし、さらに他の公演地ではやっていない中国語曲を2曲追加してエンディング。楽しいステージはあっという間に終わった。

「終わった!」そんなすがすがしさ。お客さんも立ち上がって拍手をくれている。フィナーレか写真タイムかわからない状況になりつつも終了。一度楽屋に戻ってすぐステージに戻る。応援してくれたみんなが待っているからね。英語にも中国語にも慣れてきたから積極的に話せるようになってきた。きっと、日本にもどれば忘れてしまうような言葉もたくさん話せた。新しい友人がたくさん出来た。僕らは幸せだ。

会場の熱気も覚めやらないうちに次の予定は迫る。JUGASのみなさんとの打ち上げだ。少しでも大勢の人たちと会話をしたいと思う。ダッシュで片付け、5分でシャワーを浴び集合。この恐ろしい速さは修学旅行の小学生並み、大人や、ましてミュージシャンでこの時間で動ける人は存在しないと確信できる。

打ち上げは盛り上がり急遽のアコースティックライブもやり盛り上がる。本当に日本が好きなこのJUGASの方たちとの会話は楽しい。そのあとは屋台にいく。このツアー初めてとも言える街との遭遇。SIGAPOREをちょっとだけ満喫してHOTELに戻る。明日も公演があり「朝までのもう!」とはいかないのがちょっと残念でもある。それでも戻って反省会をしなければいけない。今日の公演もきっと明日の成功に役立つ糸口があるはずだ。それは今日出なければ反映できないこともある。

深夜3:00。反省会を開く僕ら。熱中しすぎてとなりの部屋からクレームもありひそひそ声での反省会。思いはいろいろあるがいいものを作ろうという気持ちだけは一緒である。それが僕らをつなぐ絆であるのだろう。愛すべきGYPSY QUEENよ。明日も良いステージであることを祈ろう。本当の本当のツアー最終公演なのだ。



2003/07/27

9:00ホテル出発。今日の会場は僕らがこのツアーに出発してからの決定会場であって「ジャンクション8」という巨大なショッピングセンターの中にあるという。具体的にどんな環境であるかはまったくわからない。そしてそれを気にする人もいない。セントーサ島をでた僕らはSINGAPORE市内を横断し、会場に向かう。SINGAPORE市内はとても綺麗だ。

ガムが売っていない国、車を減らすためにバスやタクシーが異常に安い国。そうなのだ、環境が悪化しないように事前に手を打つ国。打てる国。それがSINGAPOREだ。みんなのガイドと化した中村さんの説明にふんふんと聞きながら時間を過ごす。バスは市内を通り抜けだんだん郊外の様相となった。30分ほどすると会場に到着。そこは巨大なショッピングセンターが街になったようなところだった。バスをおりるとムンッと押し戻されるような暑さである。今日はかなり暑い日だという。

公演時間が13時からと言うことを聞いた僕らは「室内だったらいいよね、昼間だからさぁ外って事はないよきっと」などと話していた。が、希望的観測は見事に裏切られぼくらは涼しいショッピングセンターを横切りエスカレータにのり、その先の屋外のステージに連れて行かれた。「うっ」声にならない恐怖感。だって本当に暑いのよ。そのステージ前に1分いるだけで汗が噴出している。「きっと午後にはすずしくなるさ」「なるはずないよ、これからもっと暑くなるよ」「ま、屋根あるからブルネイよりは涼しいでしょう」その会話の間にも我慢できずに室内に逃げる軟弱なメンバー。そして数分。もう覚悟は決めた。

とにかくステージ前に体力を消耗しないようにしよう。そう思ったのだ。会場にはJUGASの方たちもみえていた。昨日遅かったのにもうこの時間に来てくれている。「さあ、セッティングだ」そうおもったときに何かに気づいた。そう、アンプがなかったのだ。その会場にはギターアンプ、ベースアンプがなかった。途方にくれるスタッフ。でも、僕はこういった「ラインで出そう」。会場規模から考えて今日ならラインでも何とかなる。環境は悪くなるがそれくらいは問題でない。それよりもここでいつくるかわからないアンプの到着を待つことのほうが精神衛生上良くないだろう。

環境に合わせて最もいい音楽をする。それがGYPSY QUEEN。きっと全ての環境が完璧なまでにそろっていれば僕らに勝るバンドは数多くあるだろう。だが、ぼくらはどんな環境でも変わらない。それもGYPSY QUEENの力であるのだ。

そうして13時。ステージは始まる。ステージの周りの屋台から声援が上がる。SINGAPORE最後のステージとしていい演奏をしたい。一時間のステージはあっという間に終わった。ステージでたっぷり汗をかいた僕らはほんの少し休憩をしてランチに出かけた。SINGAPOREの中華料理はとってもおいしい。おなかいっぱいの僕らにJUGASの方から声がかかった。「ちょっと打ち合わせをしよう」。僕らは事務所の会議室に向かう。そこでこれから僕らに起こり得るいろいろな話をした。

「GYPSY QUEENはASIAに日本の音楽を知らしめるためのフロンティアになれる。GYPSY QUEENの音楽はとてもよいと思うので是非、次にASIAで何をしたいか私たちにアイディアを下さい。私達はそれについて検討する用意があります」要約するとそういうことをいわれたのだ。SINGAPOREはアシアの商業の拠点である。英語と中国語が流通する拠点。この場所にもう一度僕らが来る為には何をすればよいか、ということを教わった。有難いことだ。全ては僕ら次第。チャンスを与えてもらった僕らはそれに向かって頑張るべき資質がある。頑張る権利を与えられた僕らはちょっとだけ暑さが気にならなくなってきた。「SINGAPORE ICHIBAN!(一番!SINGAPOREでは有名な日本語なのだ。)」さあ、もう一本!ステージが待っている!

18時。天候はかなり悪くなっている。遠くに真っ暗な雨雲が迫る。「大丈夫、大丈夫」笑いながらの言葉には説得力がない。最後のステージは雨に襲われる前に終わるだろうか?そんな心配の中ステージは始まる。ステージ途中でとうとうやってきてしまった。激しい雷鳴、見たこともないようなスコールが襲う。モニターが聞こえないくらいの雨。ほとんど雨音にかき消されている。こんな環境での公演は初めてだ。日本なら、何かあるといけないのでという感じでとっくに中止してしまうだろう。ここはそうではない。そしてそんな中でも、帰らずにみてくれている人たちがいる。

最後のステージの最後の曲は決めていた。「但願人長久」。この北京語で歌われる美しいバラードの歌の意味は「お互い離れていても見ている月は一緒」というような詩だ。そう、ぼくらは明日には日本に帰ってしまう。だけど明日の夜見える月を、同じ月を僕らは東京で見ているよ。さよならASEAN、さよならSINGAPORE。」
そういうメッセージを伝えたかったのだ。


全ては終了した。大きな収穫を残して。


19:30 最後のねぎらいをとみんなで打ち上げに向かう。本当にここの人たちにはお世話になりっぱなしだ。この3日の間ずっと一緒に行動を共にしてくれるみんなとはもう老朋友となりつつある。話はSINGAPOREだけでなく、このツアー全体、そして過去のChinaツアーにまで及ぶ。僕らはここで日本との絆をみつけることができた。もしかしたら僕らよりも強く強烈に日本を愛してくれている人たちと赤道直下に近いこの国で出会った。出会いとは本当に貴重でありすばらしい。JUGASの方たちが口々に言う。

「今回GYPSY QUEENははじめてSINGAPOREに来ました。でもこれは始まりです。一回きりのことではないと思います。是非また来てください。私たちも協力します」有難い言葉だ。

Thank you SINGAPORE,Thank you JUGAS!旅でであった大勢の先人たちよ。あなたたちとの出会いは忘れません。宴の終わりは寂しい。。

2003/07/28

4:30起床。窓の外はまだ真っ暗だ。マラッカ海峡に浮かぶタンカーもまだ眠りについている。帰国日の朝はなぜかいつもめちゃくちゃ早い。誰もいない真っ暗なロビーでチェックアウト僕が最初だった。次第にメンバーも
降りてくる。

5:30集合。疲れのためか言葉も少ない。こんな早くからでも中村さんは一番最初に来てまってくれていた。昨日のお礼を言う。「いやーよかったよ本当に」そういってくれる言葉がうれしい。目を閉じるとあっという間に空港につく。7:30に無事チェックイン完了。本当にここでお別れだ。「さようなら」、「またきてね、個人的に来てもいいからさ。連絡してね」別れ際はなかなか幕が閉じれない。荷物チェックの順番が来て僕らは先へ進む。税関をぬけてふと振り返ると遠くに中村さんが見えた。まだ待っていてくれたんだ!とおもって手を振ると中村さんもふりかえしてくれた。「さよなら、また会いにきます!」きっとみんなそう思っているだろう。


いつまでも見送ってくれる中村さん。よく見ると両手を高く上げてふっている。左右に。。。そうだ、これは昨日僕らの演奏したRasa sayangのふりつけじゃないか!!中村さんの大好きなこの曲をやることから始まったASEANツアー。中村さんに「SINGAPOREでこの曲をやると受けるから」といわれて僕らにとって最初のマレー語のレパートリーとなったこの曲。その振り付けじゃないか。なんだか感動しちゃったよ。今までの出会いもそうだが、会う前、まったく知らなかった人たちのイメージを大きく変えてくれる。メールではちょっとドライな感じの中村さんが空港で「RASA SAYANG」をおどっている。


たった数日で関係をこんなにも深くしてくれる音楽って本当にすばらしい。出会いは本当に全てを変えてくれる。なんだか、重慶の石割さんを思い出した。元気かなぁ。あ、またしのんは泣いている。いつまでたっても涙腺はしまらない。慣れない子だ。まあ、そこがいいのかもな。汗と同じくらい涙を流せるボーカリストはほかに見たことない。さあ、ゲートに向かおう!

さよならSingapre!

さよならすばらしき朋友!



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