GYPSY QUEEN Road to Asia #21
Japan Mekong Exchange year
GYPSYQUEEN Mekong Tour 2009
2009/02/06-2009/02/14





 

2009/2/6。午前6:00.前日までの忙しさでバタバタ感たっぷりな朝。今日からツアーという感覚があまりないままでの出発の日となった。7時に自宅を出発すると特に渋滞もなく7:40には京葉道に入る。いつもこの日は緊迫だ。事故はないか?渋滞は大丈夫かなどと考えているので大体前の晩も良く眠れなかったりする。8:10には酒々井に到着して朝食。ここまでくればほっとできるものだ。空港には8:45に到着。
いつものチェリーパーキングに車を渡して第一ターミナルへ入る。機材の多い僕らにしてみるとこの空港引渡しシステムは非常に便利。空港内は結構人が多くにぎわっている感じだ。チェックインも混雑していて多少時間がかかりつつも完了。重量も問題ない。ROCKバンドのツアーとは思えない軽量化。うむ、すばらしい。本当にそう思う。合間にメンバーが現金を替えにいくと1ドル92.59円だった。うむ、一年前では考えられないレートだ。
空港では思ったよりも時間もなくばたばたと10:45発のTG641に搭乗。いよいよメコンツアーのスタートだ。今回のツアーは日本メコン交流年の行事としておこなわれるもの。先日も中曽根外務大臣の主催するレセプションパーティに呼ばれてきたばかり。かなりオフィシャルな感じのする会でアジア好きが集まる会ではなくアジアとの国と国をつなぐ事業を行っている人たちが集まる会であった。そんなこともあって僕らにできることは何かを探し出し少しでもこの交流年の役に立てればと気合は十分であった。しかし、気合だけでは何も進まず、相変わらず連絡が行き届かないこと、回答が遅いことなど従来から引き継ぐ問題点山積みのスタートである。ううむ、不安だ。

自分ひとりではないので窮地に追い込まれるとそのストレスは7倍にも増える。先日のベトナムのときのトラブルでやらねばいけないことの事象よりもそれ以外のことで頭を悩ませたので今回はさらに慎重になる。これがトラウマになってしまうと急にやる気も何もかもうせるだろうね。そういう人はたくさんいると思うし、自分もいつそうなるかわからない。アジア好きが転じてアジアが嫌いになった人はたくさん見てきた。
これはすべてのアジアにかかわる人に潜む病気の元でもある。幸いにもそんなウイルスに感染することなくこの旅をスタートすることができた。飛び立ちしばらくすると富士山が見えてきた。ちょうど昨日この反対側を飛んでいて真っ白な富士山を見ていたのだが今日は南側から回っているために冠雪も少なく感じる。11:35まずはシンハーで乾杯。機体はANAとの共同便で座席スペースもまあまあだ。

タイは政変以降旅客が減ったと聞いたがこの日は満席。不景気知らずといったところだが、話を聞くとタイの経済もかなりかげりが見えてきたという。アメリカが風邪を引くと世界中の経済が落ち込んでくる。そんな影響もあるのだろう。バンコクまでは約7時間。現地時間15:25に到着予定だ。連日の寝不足が聞いているのかかなり眠い。ここで寝ておかないとね。

14時ベトナム上空に差し掛かる。熱帯性の小ぶりな雲は縦長のひょうたんのように分厚く浮かぶ、その雲にさえぎられてなかなか大地を見せてくれない。ただ、それらの雲は海岸線にそって連なっているので、ここがインドシナの入り口のベトナムであることを容易に想像させるのだ。17:19。現地時間15:19。バンコクに到着する。空港の中はあまりにも広い。あわてることはないがなんとなくメンバー一同早足で進むことになる。外にでるとさらにむっとする暑さ。30度だって。夏ジャン。

空港で大型バンを手配して市内へ。料金は1200バーツ。まあ3台に分乗するよりも安いね。そしてサイアムにあるホテルに向かう。時計を見るともう17時だ。この空港を出るのには1時間くらいかかる。それを覚えておかないとスケジュールが組みにくいよね。そして、市内に向けて出発。混雑した町並みを行く。今日の会場はThe Rock Pubという中心地にあるライブバーだ。メインゲストとしてオーランプロジェクトも出演。このバンド、なんだかモロにRAINBOWなんだよね。MasaoはWelcomeといった感じだ。時間があればセッションで何曲でもできるんじゃないか?そうしているうちにホテルに到着。


ここからソイ一本で会場に到着する。バンコクにはタノンと言われる大通りとソイと言われる小道が縦横無尽に走っている。大通りは大渋滞。そして、一方通行の嵐なのでタクシーだと結局かなり時間がかかってしまうこともある。なので、ここは徒歩でと判断。ホテルのレセプションに確認して5分くらいで歩けるというので徒歩で会場に行くことにする。裏通りの道はタイの生活がよくわかる町並み。そこをむき出しのベースを持って歩く。ケース重すぎてだめなのよ。18時。会場に到着すると快くオーナーが出迎えてくれた。タイでは有名なこのライブハウス、shinonの友人のナンタポンが抑えてくれた。

そんな彼女もしばらくすると到着。07年12月以来の再会を果たす。1時間ほどサウンドチェックを行い外へ。ツアー初日は何を、ということで当然タイ料理になった。遠くに行くのもなんなのでライブハウスのスタッフが良くいく店を聞いて入る。このエリアはオープンエアな店が多く、どこも活気にあふれている。ナンタポンとは数度しか話していないが今回のブッキングやいろいろなタイ語について教えてもらうことができた。


そこに行けば会いにいける人がいるってありがたいことだ。食後ホテルに戻る。途中にマッサージ屋がたくさんあり、時間もあるということで1時間ほどマッサージタイム。機内でこり固まったふくらはぎを揉みほぐしてもらおう。1時間150B。それは安いよね。その後ホテルにもどり、マサオと最終打ち合わせ。会場の雰囲気から洋楽を混ぜようということでセットリストを見直す。

タイ語の曲は1曲に絞った。以前は何でもかんでも現地語の曲をやることがよしと考えていた。それはそれで間違いではない。でも、それは100%の方程式ではなく第一段階に過ぎない。会場の雰囲気を読み違えると掴み損なう。それは過去のツアーでしなくてもいい経験をつんでいたりして皆よくわかっていた。観客に合わせてセットリストを変更する。それが当たり前であることもわかってきた。22:45。ホテルのロビーに再集合して会場に向かう。今回の会場はスカイトレインのアジアンホテルの目の前にあり、もしこのホテルを予約していたら完璧だったね。なんて話しながら進む。


夜のソイは活気にあふれる。会場に到着し、重厚なエントランスを抜けるとライブはイギリスのバンドから始まっていた。かなりハードだ。いわゆるmasao系。この日はイギリス人、日本人、タイ人の競演となるスペシャルディ。僕らは二番目に出演する。23:20.さあ、このツアー最初のステージだ。英語圏でもあるのでMCも英語OK.タイ語は僕らの中ではあまりポピュラーでないためにこれは助かる。

予想通り英語曲が受けるステージだった。終了後、気に入ってくれたオーナーが差し入れのビールをどんどん持ってくる。なのでどんどん飲む。読売新聞にも掲載されたせいか大使館からもわざわざ見に来てくれてまずは良いスタートという感じだ。しばらくステージを見た後、オーランプロジェクトの演奏を途中で帰らねばいけない時間に。これって心苦しいよね。めちゃくちゃいいバンドでタイでも伝説的なギタリストだという。確かにすごい。雰囲気を持っているギタリストだった。

きっとまた一緒にやるときがくるだろう。彼らのマネージャーのハイテンション振りが僕らを歓迎していることを感じさせてくれる。「NextTimeね!」いい出会いだ。そう思い会場をあとに。時間はもう1:30を回っている。明日は3時起床。そして、移動の果てにはWat Phuのステージが待っている。ここでノリで済ますことができないのが辛いところだがここは我慢。


初日からハードなスケジュールとなっていたのだが、このライブでテンションは上がった。部屋で反省会。みんなの目がツアーモードになってきた。コンディションもばっちりだ。スケジュールの確認をしてそれぞれの部屋に。すでに2:30。Masaoは明日のセッティングのために貫徹モード。僕はちょっとでも寝ることに。明日は早い。
2009/2/7
3:00.予定より20分早くモーニングコール。うらめしい。結局masaoは徹夜のようだ。眠い目をこすりながら荷物をまとめて3:40にロビーへ。ここでメールチェック。まさにバンドマンにとっては殺人的な時間だ。まあ、前の日であればありえる時間だけれどね。メールでは今回のいろいろ不確定要素がある部分を確認する。ここにきて初めての情報だってある。さらにこの朝早い時間に限ってPCの調子が悪く、いらだちながらも作業終了。ホテル入り口にバンを待たせておいたのですぐに乗り込み4:10。空港へ向かう。
昨日の読売新聞を入手したいところだがどこで売っているかわからず断念。一面に出ているというので興味津々である。まだ、夜中から抜け切っていないこの時間。道はすいているが何故か方向がおかしいような気がした。しばらく外を注意深く見ているとどう見てもドンムアンには向かっていない。ドライバーに確認すると本人の勘違いでスワナプームに向かっているということだった。急遽方向を変えてドンムアンへ。危ないところだ、このまま空港について間違いに気づいたら到底間に合わなかったろう。

いちいち疑うことは必要ないが伝えたからといって100%安心することは禁物だ。なぜかって?それはいくら謝って貰っても傷を負うのは僕らだからだ。今必要なのはボンミスで謝られることよりもスムーズに自分たちの敷いたレールを忠実に進むことだ。5:00ドンムアン空港に到着。行きと同じく1200Bを渡し空港内へ。チェックインカウンターに進む。ここでの機材も問題なく通過し出発ロビーへ。バーガーキングで199Bの朝食。

今日はかなりの強行軍である。このままウボンラチャータニに向かいそこでラオス側からの迎えと合流。その後国境を越えてチャンパサックに入る。そこからワットプーに向かいリハーサル、そして本番。とまるでタッチアンドゴーのような怒涛のスケジュールが始まる。その割りにはこの寝不足、早朝スタートはきつい。予想以上に大容量のバーガーキングのポテトをみんなに配りつつ目を覚ます。搭乗も近づき5:50.機内へ。国内線はことさら狭い。ここでちょっとでも寝ておこう。幸い機内食は期待できない、なので空港で食べておいたんだけれどね。
6:00.真っ暗な空港から飛び立ちしばらくすると夜が白み始めた。ようやく7日が始まる。陽が昇り始め機内も明るくなった。メンバーはみな熟睡。僕も少し寝よう。そうおもっていると機体は大きくゆれ降下をはじめる。距離にして500km弱。あっという間のフライトだ。そして7:05.僕らはあの「ウボン」に戻ってきた。今思い出しても胃がキリキリする。ドラマのエンディングのようなハッピーエンドもそこに行き着くまでの心労は只者ではない。そして、今回は早朝。同じ空港に降り立つのだ。ウボンは静かな田舎の町といった様相だ。迎えにきてくれたのは昨年も仕切ってくれた遺跡保護のブンラップ長官と情報文化省の役人のモンティアン。わざわざ国境を越えて迎えにきてくれた。さっそく、車二台に分乗し7:30、ラオスを目指す。
あっという間に市内を通過し、爆走するバン。「なんだか全然複雑じゃないじゃん」みんなそろってそんな話をする。去年はギリギリのところで迷ったりして本当に複雑に思えたウボンの町もほんの20分くらいで抜けたからだ。右手に大きな湖を見る頃には皆熟睡。僕も眠い。でも、寝てしまうと何があるかわからないのでとりあえず見張り役として起きておくことにする。そんな心配のかいも無く約90分で国境へ。8:55、ここで一度車を降りて出国だ。

周りには出国を待つ人々が黒山の人だかりになっている。その中をブンラップさんはつっきり(男らしい)どんどん進む。かろうじて僕はついていったが後続がこない。ゲートを越えてしばらく歩くと今度はラオスのイミグレだ。ここでパスポートを再提示。入国となる。入国での費用50Bを要求され、ムムッとおもうのだが金額にして100円。まあ、いいじゃないか。大量のパスポートが無造作に置かれどんどん処理されていく、僕らのパスポートは一気に割り込ませてもらって最優先にしてもらう。ここで時間を使うことは許されない。一刻でも早く会場に向かわなければだ。9:36.イミグレを出発。
バンは飛ばしてパクセーに、と思っていたらメコン橋の手前で右折。「どうした?」と聞くと、「現在ここに道路を作っている、こちらから行くと早いのさ」とあっさり。でも行っていいものなのだろうか?その道は過酷でまるでジェットコースターに乗っているがごとくのアップダウンの悪路である。ガタンガタンどころではない。そして爆走。荷台に積まれた楽器が気になる。そして、なし崩し的に僕らは道なき道を走る。きっとこの次に来るときにはこの道は完全に舗装され、通過なんてあっという間だろう。

この今を知ることは貴重だ。これによりタイからの大勢の観光客をワットプーに誘致できる、きっとにぎやかになるんだろうね。経済効果は計り知れない。渡しボートも不要になるだろうなぁ。さびしいなぁ。そんな時代の変わり目に立ち会えたことはすばらしい。でも、この道は辛い。そんな車内。たいした話も出来ないが、黙っているのもなんなのでモンティアンといろいろ話す。「円が高くなると世界経済はますます厳しくなるね」、「旅行に来る日本人にとってはプラスだよね。」この目前の風景度外視の会話は進む。

ようやく道なき道に道らしきものがでてきた。ポツンポツンと民家も見えてきた。メコンの川岸が見えるようになり、ようやくこの道も終わりかと思ったとたんにすっと平らな道路がでてきた。といっても赤土の舗装されていない道路には変りない。「あっ」。全員が声を上げた。その終着点はパクセーから渡しボートに乗ってチャンパサックに入った入り口のところだった。「そうか、ここが開通するのか」。なんとなく感慨にふける。若干の車酔いを感じつつそこから数分。ホテルに到着した。今回、どこに宿泊するのかはわからなかったが去年と同じ、この街唯一のホテルである。荷台から荷物を下ろすと黒のリモワが薄茶色に変わっていた。埃というか砂ね。まあ、いい。そのまま部屋に放り込みとりあえずベッドに横たわる。
暑さも気にならないくらいにまずは疲れた体を休めたい。3時に起きてもうお昼。長い行程だった。12:20。少しおくれてチャンパサックのパンカワイ町長と会食。久しぶりのラオス料理。おいしそうなスープだったが、よく見るとアリのスープ。「タンパクがとれていいよ」と進められるが別に栄養不足でもないのでパス。Masaoはおいしい,おいしいと食べている。食については超保守的な自分なのでこの時は少しおとなしくしていることに。ビアラオで乾杯して今日のスケジュールを確認。早く会場に行きたいが15時に出発ということで部屋に戻る。

昨年も機材については課題があった。今回も現地サイドが準備している、という情報のほかには何もない。入手しようがないのだから、確認することも当然不可能だ。だからこそ現地についた以上一刻も早く行きたいのだ。とりあえず出発まで体力を蓄える。16:00.結局大きく遅れて会場に。夕陽がきれいだ。一年ぶりのWat Phu。この広大なエリアに展開するクメールの遺跡。誰が作ったのだろう。この大きな神殿では何が行われていたのだろうか?知るすべもないがこの歴史的な遺産を目の前にすると何か神聖な気持ちになる。
バスは昨年の会場のメインの来賓席のあるところに停車。さっそく会場を見てみる。ステージは去年の1/3程度。うむ、微妙だ。遠くに見えるステージの一段高いところにキーボードとドラムセットが見える。よかった。今年はちゃんと用意してくれた。それもあたりまえだ。昨年同じ事でもめたのだからさすがに大丈夫だろう。ドラムセットをみて安心したせいかのんびりその場を過ごす。Machaがステージをチェックしに行く。ギターアンプとベースアンプがまだ届いていなかった。「はやくサウンドチェックしないとRHできないよね」そんな話をしつつ1時間がたつ。

おかしい。会場のスタッフから「RHはいつやるのかと催促される」そして、そのときアンプが無いことを知った。ドラムセットがあってギターアンプがないとは思っていない僕ら.昨年の豪華なステージを見た上で先入観でここにきた僕ら、それは大きなミスだった。「アンプがないとできない、昨年はあったでしょう、何が必要かわかるでしょう」そう問うと困った表情のスタッフ。東京からの資料は届いていない。何とかこのままで出来ないか、と聞かれるので「出来ない」、とはっきり言う。その後いろいろ確認してもらうがここにはアンプがないということだった。
主催者はなんとかやってくれという。クオリティの下がることはしたくない。でもお客さんを裏切ることは出来ない。話し合った結果アコースティックでやることになった。時間も短くして何とか面白いことをと精を尽くす。まあ、やればなんとかなるしね。そしてホテルへ。若干落ち込みぎみなメンバー。それはそうだ、日本を基準にしていい音を出そうと思ってもその設備がなければどうしようもない。
音なんかよくわからない、という人がすべてならまだしもなかにはちゃんと音楽が分かる人がいるだろう。そういう人からすると何をしょぼい音を出しているんだ、と思われかねない。演出や技巧はそれぞれの国に合ったものにしよう。それでも僕らの演奏のクオリティは東京のものそのものでなければ意味がない。BGM目的のローカルバンドとは違うのでそのプレッシャーは少なくない。ただ言えるのはこの環境でも最良のものを出さねばいけないということ。大丈夫か?その不安がメンバーを追い込む。もうひとつの選択肢は簡単。
機材がないならできない。と正論を言うこと。でも、それはいやだ。できない、やれない、難しい。そんな言葉は誰も望んでいないし、お客さんに失礼だ。やりたい気持ちと、やらなければいけない気持ちと、やりようもないという気持ち。三つ巴の戦いはいろいろな代案を考えては消し、また考えての繰り返しになる。他のステージにはないか?街の中にはないか?パクセーまで取りに行ったら何時になる?そんな葛藤を僕らだけがしている。主催者はただただ困ったままだ。自分たちでやるしか答えは出ない。
なんとか、モニター環境を調整して、メインスピーカーからの音でモニターが取れるようにステージ最前列にスタンバイしてという作業。とにかくドラムのmasaoにはまったく音が聞こえないのだからある意味よくやれるものだ。まあ、これもいい訓練だとおもうしかないよね。一度ホテルに戻り本番の準備に。食事も軽くし再び会場に向かう。Wat Phuへの道はもう大渋滞となっている。
バンを降りると埃で遠くが曇っている。さっきからshinonが結構せきをしている。のどにも悪い環境だ。それでもステージの時間はやってくる。なにやらキーボードの人が一人ステージに出て行きいきなり演奏を始めた。MCの人ががなりたてる「ニープン、ニープン」というところだけはよくわかる。そうするとがらんとしていた会場に人があつまりはじめる。うむ、面白いものだ。そして、本番。鉄はしごの上ってステージに立つ姿はちょっとかっこ悪い。まわりには出番を控えたラオダンサーたちが奇異な目で僕らを見ている。サバイディ、と声を掛けると急にみんな笑顔でよってくる。

さあ、盛り上げましょう!とステージに上がるとぼこぼこの床。これはちょっと危険だな。はまったら絶対に落ちてしまうぞ。まあ、アコースティックなのでイスを用意してもらってスタート。そのころにはかなり多くの人が集まっていた。昨年と比べるとそれでも半分以下だろう。後で聞いたが今日のお客さんは1000人程度だったそうだ。どうやって数えたのだろう?まあ、会場全体には数万人いるわけだからそんなものなのか?今回はラオス語と僕らのオリジナルの中で比較的静かなものを選んだ。明日はROCK DAYねともいいたげなセットリスト。盛り上がるか不安もあったがDan Hang it sa laの時には大勢のお客さんの歌う声がステージにまで伝わってきた。初参加のmabikaはしかもアコースティックは初めてのようで緊張している。

今日は満月の二日前。綺麗な月明かりとステージのぎらぎらの照明の対比がおかしい。そうして無事にステージは終わった。終了後貴賓席に行くとパンサワイさんが出迎えてくれた。昨年はシートン大使が座っていた席だ。

初めてみる関係者の人たちと写真を撮る。みんな喜んでくれていてよかった。僕ら的にはもちろん大反省ではあるが、初日はまあこんなものでもよしとしよう。するしかないんだから。ホテルにもどり打ち上げ。明日のこともあるので入念な打ち合わせをする。いろいろな状況を想定してセットリストを作る。今日の観客のイメージがあるので、非常に想定しやすい。23:30終了。今日は長い一日だった。24:30就寝。
2009/02/08
6:00起床、7:00朝食。この時間の外は気持ちいい。ただ、ちょっと油断するとものすごい日焼けとなりそうな強い日差しだ。7:50早々とホテルを出発。今日はコーン島に向かう。どこに行きたい?と聞かれてすかさず「コーン島!」と。いろいろアーチスト写真をとるのにもこの環境はよいとおもった。
昨日の機材のことが気になるので朝集合してから何度も何度も「アンプの手配は?」を繰り返す。日本であれば一度言えば分かるし、あまり何度も同じ事を言うのは失礼になる。ただ、実際には何度も何度も、本当に何度も言わないと動いてくれなかったりする。だから、気の弱い日本人的には非常にやりずらい仕事になってしまうし、それが理由で仕事を積極的にしたくないと思う人もいるだろう。
でも、それではだめなのだ。目的は一つ。いい演奏をお客さんに披露すること。そのために必要なものは何が何でも獲得すること。それ一点に集中して交渉を続けなければいけない。そして、それでもどうにもならなかったときには次の策を考えればいい。こうでなければダメだ、なんてことは何一つない。だから少しでも条件を良くするために交渉は常に必須だ。

そんな僕らをよそにスタッフは楽しそうにコーン島の話をしてくれる。シビアな交渉だからって暗くなることは無いし、行動を制限することはない。僕らに必要なことは最大限に楽しみ、そして常時チェックを入れることだ。ホテルを出て数分で渡しボート乗り場に。さすがにWat Phu Festival。もうこの時間から多くの車が川を渡ってくる。凄いな。絶景だな。もう、なんとなく普通になったこの渡しボートに乗りながら時間を過ごす。

よく見ると川の流れは案外速い。飛び込んだらどうなるだろう。気持ちよさそうだな。暑い日ざしよりも冷たい風のほうが勝っている。そして、メコンを渡り国道13号線にでる。南に数十分走り、再び右折してメコンに到着。この反対側がコーン島だ。
この辺はシーバンドンという小さな島が点在するメコンの要所。この先にはコンバペンの滝があり、昔、フランスの船がどうしてもこの滝を越えられずに結果的にはメコンのそれより上流への進出を防いだ天然の要塞だ。小ぶりな船着場からまた渡しボートに乗り上陸。のどかな香り佇む。っていうか誰もいない。途中木からできる砂糖を食べさせてもらったりしてなんとなく観光気分。僕はちょっと危険なので食べなかったがmasaoはあたりまえのように食べていた。さすがだ。

そして、島の反対側に出るとまたメコン川に突き当たる。まあ、島なんだから当然だよね。一番大きな島といってもこんなもんらしい。その川との出合いの所にある小さな町がまるでセットみたいな所だったので写真をいくつか撮った。11:30もう40-50回くらい言いつづけてインターネットカフェの前につけてくれた。きっと、何も言わなければ絶対に来れなかったね。粘り勝ちだ。そこから昨日のフェスの画像をビエンチャンタイムスに送る。メールも久しぶりにチェック。

いつでもどこでも電話やメールができる環境から全然使えない環境にくると本当に不便を感じる。でも、ほんのちょっと前はあたりまえだったんだけれどね。昼はコーン島のシーバンドン側のオープンレストラン。これはおしゃれだ。眺めがものすごい。こんなところでランチだとはね。ここには贅沢なものは何一つない。それでもこの絶景、きれいな風、目に飛び込むカラフルな装飾やテーブルクロスは僕らを極上のリゾートに連れて行ってくれる。そして、冷えたビアラオ。最高だね。

そして、食事中再度機材について確認した。「手配できますか?」昨日から言っていることだから進捗状況を聞きたい。しかし彼は言う「なくても何とかならないか?」。いや、そういうことではない。手配してくれとお願いしているのだ。あるかないかの確認をしてくれとおねがいしているのだ。できる出来ないはその後の問題だ。「できません、アンプなんかどこにでもあるでしょう?なぜ探していないの?」少しいらつく。
不思議でしょうがない。返事がないまま時間が過ぎる。対策を打つ手が狭まる。時計をみて準備できる可能性を逆算する。パクセーからなら3時間。もうデッドラインは近い。チャンパサックなら1時間。まだ間に合う。かなり強く言ったせいか、再度いろいろ電話をかけてくれた。食後ホテルに戻る途中、大使からも連絡が入り、現状を聞いてきてくれた。Shinonが事実をそのまま言うと非常に気にして頂いて早速、関係各方面に指示が飛んでいるようでなんだかあわただしい感じになってきた。日本からいろいろ指示を出してくれるなんて本当にありがたい。だからこそ、成果につなげなければという思いで一杯だ。

16:30ホテルについたときブンラップは笑顔で言う「グッドニュースだよ、機材は手配できる」。やったね。彼の笑顔が物語っていた。パクセーから文化局の局長も来るそうだ。どういう手配かはわからないがアンプを用意できたというので一安心だった。「一応見てきますね」。安心しきった僕にmacha言った。まあ、大丈夫と思うのだが、念には念をいれよう。そのまま役人とmacha、sakaiの3人は会場に、僕らはホテルで待機となった。セットリストを最終的に確認する。ロックのセットでいけることになったのでその確認。

18:00.再集合の前にmachaから連絡が入る「アンプありませんでした。。。」「ん??どういうこと!」「アンプではなくて大きなモニターがあるだけで。。。」愕然とした。モニターじゃないでしょう。とはいえ仕方がない。もう、タイムリミットは過ぎた。結局、このままアンプなしでモニターの音を頼りにラインで演奏をすることに。
それによってセットリストを大幅に見直す。今回は、このWat Phuのために新しくrockの曲を複数仕込んでいた。昨年と変わらないものでは申し訳ない。新しいアプローチも考えていた。残念ながらそれは出来ないことになったが、とにかくできる限りのことはやろうということで1時間弱のステージに変更。今日何度か目のセットリスト変更を行う。
局長は行きの「俺に任せておけ」状態からかなり節目がちな感じに変わっていた。まあ、仕方がないよ。みんな頑張ってくれた。あとは僕らのできる限りのことをやろう。アンプなんかなくても何とかなる。自分の音をしっかり出せばいい。4人が音を合わせればモニターなんて無くてできる。あればあったほうがいいが無いものねだりをしていても仕方がない。メンバーは頭を切り替える。
過酷なステージになることはわかっているのでみな真剣だ。会場につくとお客さんも結構集まっていた。そこに岩月さん登場。今回は北部の調査に出ているとの事であえないと思っていたのでびっくり。再会の神様は存在するのだ。本番前なので余り話せず後ほどと約束。それにしても懐かしい。僕らの前にはラオダンサーがステージで踊っていた。あの足場の悪いところでよく裸足で踊るものだなと感心。ステージ脇にバンをつけてもらい、そこからステージへ。若干のサウンドチェックの時間をもらい20:30スタートする。

昨日は完全にアコースティックモードだったので今日はライブアレンジをした曲を中心にやる。反応はやはりよく、特にたてのりの曲のほうがより反応が良かった。きっとラオスを良く知らずに「ラオスの音楽」といえば伝統的なものと思うだろう。それは間違いではない。でも、若者はいつでも楽しいものを求めている。ランボンを踊るのもラオスならばランボンには反応せずにROCKに反応する若者もいる。どちらもラオスではあるが、今日はこれからのラオスを担う若い人にフォーカスして曲を伝えたい。ステージ自体は昨年と比べるとかなり小規模ではあるが、チャンパサックの人たちは僕らを待っていてくれた。それで充分だ。


このステージのメインの曲、満月の月に照らされて「Dan Hang It sa La」をやる。幻想的な曲に月明かりが映える。Shinonのマンジーラの音がWat Phuに響き渡る。いい曲だ。後半は英語の曲を織り交ぜプレイ。比較的消極的なラオス人だがそこに混じって欧米人が踊り始めた。音楽を楽しむことに長けている彼ら。そして、それを珍しそうにみているラオス人。これも文化交流だろう。いつしかみんなの体が動いてきているのがわかる。

途中ステージの穴にはまりそうになりながら約1時間。パーフェクトなセットは出来なかったが、充分に楽しんでもらえただろうと思う。ステージのそでにいた民族衣装を着た子供達はずっと手を振ってくれていた。嬉しそうだった。その笑顔が僕らに向ける最高の「good Job!」だった。
終了後、帰ろうとすると「政府の人がご馳走したいので」と止められる。もう埃と汗まみれで一刻も早く帰りたかったが、せっかくのお誘い。断れるわけも無く埃うずまく会場内をバスで移動し、簡易食堂に通される。おかゆがおいしいので是非振舞いたい、と言われて全員でご馳走になる。意外においしくて完食。


うむ、ぼくら鍛えられているぞ。22:30.ホテルに戻り打上げ。Shinon、viviちゃんと相次いで体調不良の為に欠席。なんとなく寂しい感じだ。モンティアンも機材が無かったから怒っているのでは?とおもっているのだろう。なんだかめっちゃ対応が良い。「二人はどう?」と心配している。
残ったメンバーでいろいろな話をして静かに盛り上がる。嬉しかったのは誰も「戦後の愚痴こぼし」が無いことだ。与えられた環境で全力を尽くすのが僕らの仕事。終わった後どんな形にしても文句を聞いても楽しいことは無いし、変るべくもない。だから、この経験を生かし、次につなげること。この劣悪な環境の中でどれだけのことができるかという可能性を広げること。それが重要なのだ。
そして、それを自分の意志で理解している7人が集まったからできたステージあることを忘れてはならない。みんなに感謝だ。もちろん、手配できなかったにしろ全力で動いてくれた現地スタッフにも感謝だ。夕方「グッドニュースだよ」と満面の笑みでバンから降りてきたブンラップの顔にうそや偽りは無かった。それで充分だ。
僕らは一緒に成長していけばいい。今日のステージも決して悪くなかったのだから、次に向かってスタートをすることを覚えていればすべてOKだ。1:30部屋へ。まだまだ、表通りにはWat Phuからの帰宅の車とバイク。そしてよっぱらいの声が聞こえる。
とことん飲みたいところだが明日も早いので2:30就寝。明日はいよいよサバナケットだ。

2009/2/9
4:30起床。昨日の夜のビアラオが効いている。オーナーが「どんどん勝手に飲んでくれ」と冷蔵庫をオープンにするもので調子にのってほとんどのみ尽くしてしまった気がする。若干の二日酔いの中準備をして6:00ちょっと前に出発、まだ朝焼け前の道を行く。Wat Phuに到着すると昨年よりも人出が少ない気がした。これも不況のせい?

僕らは参道の一番前に連れて行かれ托鉢の準備をした。そんな中日の出を迎える。朝日の美しさはどこでも一緒だが、この遺跡を赤く染める朝日は格別なものだ。肌寒さも陽が上るとすぐに暖かかくなってくる。暑くなるまでにそんなに時間はかからなかった。

パクセーの知事らしき人達も並んでテレビカメラも出てきた。この国にとってこの神聖な儀式は全ての国民の信心深い心からきている。なぜか、昨日あんなにほこりだらけだったのに妙にすがすがしいのはそんな気持ちの表れだろうか?目の前の遺跡には柵がしてあった。フランスの遺跡保護のチームが現在、建造物の建築手順を解析しているとの事。向かって左側の廊はそんなこともありとてもきれいになっていた。
反面右側の廊はもう、ビニールのゴミやら、托鉢の線香やらでぐちゃぐちゃになっている。保全をするにはきれいにすることがまず第一。そして、キレイな建造物を見るとやはり高貴な感じが伝わってくる。左右の対比でもあるせいかよくそれがわかる。なんとか出来ないものか。ぼくらに何ができるのか、とおもうと無力感を感じる。

托鉢を終え懐かしいレストランへ。ここは去年毎日通った店だ。ここでバーシーをやるということだ。出発時間も迫っているがこの儀式を終えないと,という気持ちもある。あせるのは僕らだけでみんなはいたってホンワカモード。

朝日にメコンが鏡のように反射して眩しい。バーシーが始まったのは8:20過ぎであった。大勢の人たちの祈りの言葉で僕の左右の腕にたくさんのバーシーが巻かれる。これって取れないんだよね。目の前の人がはじめてあった僕の為に祈りを捧げてくれる。
一本一本にその人の思いが残る。そんな神聖な儀式だ。Shinonは例によって泣いている。今年もだ。そして、朝食、去年出会ったここの娘は成長してちょっと大きくなっていた。

ここで事件。モンティアンと話していた時にこの店にカラオケ用のアンプスピーカーがあった。「なんだよ、ここにあるじゃん。これでもなんとかなったのに」。まあ、そんな完璧でもないのだが、これでもないよりもマシだ、という意味で彼に言った。「これでよかったのか?これアンプなのか」。そう、結局彼はアンプリファイアというものが何かわかっていなかったのだ。ギターアンプもベースアンプも何もかも知らないもの。だから、手配したといっても更にその先の業者の言うことをそのまま言っているだけで、なのでただでかいモニタースピーカーだったり、あるといったのが見たら無かったということになっていたのだと思う。
少なくても昨日の「アンプを2台用意した」というのは嘘ではなくて正確に言うと「大きなモニターを2台用意した」ということであった。確かにケーブルの繋がっていない意味のないモニターが新しく2台ぼこんと置いてあった。そうか。。うむ、これは今後の課題だな。資料にはパワーポイントでちゃんとわかりやすいように絵にしてセッティング図を書いて送っていた。でもそれだけではだめだ。
次からはアンプの写真やドラムセットの写真を一緒に組み込んで送らないといけない。今となってはいい教訓だ。しかし、それを覚えたせいかモンティアンは「サワンにもアンプがないといけないのでこのアンプを持っていこう」と言い出したのはほほえましかった。大丈夫だよ。サワンはちゃんと用意しているから、といっても「いや、持っていったほうが安全だ」という。ここは丁重に断ったが、アンプが何かということが分かった彼は急激に積極的になってサワンの担当者に電話までしていたみたいだった。ちょっとかわいい。
さあ、まじめに時間がない。サワンには11時にはいることになっているのにもう9:30を回っている。もう行こうと急かしてもチャンパサック側はなかなか動かない。ようやく移動のバンがくるがこれがまたちょっと小さい。
荷物を積んで人も。。。これは無理だ。20分くらいならいいが車で5時間。死んでしまう。途方にくれているとスーパーマンがごとく岩月さんが登場。「僕の車出そうかな?」おお、神様、岩月様、神の助けの声が聞こえた。現地側にガソリン代金を出してもらうことで交渉締結。さあ、行こう!サワンへ!9:50出発。結局みんな一緒に来てくれることになり(そのお陰で人間満載だが)まずはパクセーに向かう。
再び河を渡る。コレが最後の渡しボート。外にでてチリチリする日差しを浴びチャンパサックにお別れをする。コーラ一本5000K。一本買おうとすると4人くらいの物売りがわれ先にとコーラを差し出す。凄いパワーだ。11:30パクセーの庁舎に到着。ここで文化局の局長と会う。昨日のお詫びとコンサートの成功の賛辞を頂きお別れ。となるはずだが食事をしようという。食事はサワンで用意しているので丁重に断ると、では記念品を渡したいので5分時間をください。という。まあ、5分ならと思って連れて行かれたのがメコンに浮かぶボートレストラン。贈呈にレストラン?でも、5分だよね。

レストランにつくと料理が出てきた。贈呈に料理はいるのかな?でも5分だよね。すでに10分たっているけれど。みんなが着席したらビヤラオが大量にでてきた。あの〜5分では。まあ、いい、相手も最大の歓待をしてくれているのだから付き合おう。さくっと食べてサクッと飲んで記念品にWat Phuの写真などを頂いてお別れだ。大変なこともあるしいいかげんなこともある。でも、この人たちは歓迎してくれているのだ。それに応えるのも重要な事。そうしていつも間に入って悩むことになるのだがとにかく終わりよければ全て良し、また来年も是非きて欲しい、来年は完璧に機材をそろえるから心配しないでくれ。とかなり思いっきり手を握られて握手。これでいいのだ。一緒に成長していくことが重要なのだ。
12:47.出発。すでに予定ではサワンで食事を終えている時間。でも、今まだパクセーにいる。当然車は爆走だ。市内を通過し、空港を横切り一本道に戻ってサワンを目指す。岩月さんのランクルは超快適。景色もよくビバ!ラオス!という感じ。自然とBlueSkyのメロディが聞こえてくる感じだ。14時ナポンにて休憩。ここは焼き鳥(ピンカイ)の有名な村だ。
さすがに満腹なので辞めておくが一本15000Kという、次に通ったときは是非食べてみたいもんだ。そして、再び爆走。何もない平原を越え15:22プータイ族の村で休憩をする。岩月さんに聞くとあと50kmくらいだという。もうちょっとだ。更に内陸に入り景色は大きく変わる。昨年この反対を走っているのでなんとなく記憶にもある風景だ。空はどこまでもどこまでも青い、同じ時間今の日本はどんな空なんだろう?
15:37サバナケット入りする。県境は200Kを支払う。これは道路整備税なんだそうだ。そして、ようやくあと35km、ビエンチャンへの道と分かれ左折しメコンに向かう。メコンにたどり着けばそこがサワンだ。市内に入ってくると様子が変わってきた。子供とやぎがとても多い。時計は4時を指している。うむ、かなり遅れた。サワン側の窓口ニンさんに連絡。町並みはとてもオシャレでフランスの香り。フランスにタイの文化を混ぜたような建物、景観だ。
そしてニンさんと合流。そのまま県庁舎に向かう。13時の予定だった県知事との会合を延ばしてもらっていたのだった。県庁舎はとても大きく、もう凄く豪華。広い敷地に僕らのバンは到着。そのまま知事室に向かうとポムケ知事が出迎えてくれた。

ここで外国人がコンサートをやるのはまれなことであること、日本人のコンサートははじめてなので注目しているということ、シートン大使とはとても仲がいい事を告げられた。とても気さくな知事で笑顔が大人物であることを分からせてくれる風格。シートン大使と同じ雰囲気を持った方だった。いろいろ活動の話をしているとテレビカメラで撮影されていた。きっとどこかのニュースに流されるのだろう。入手は不可能と思い聞くこともやめた。

その後、入り口でチャンパサックチームとお別れ。なんにしてもここまで来てくれたり、本当に心からの歓迎をうけた。
機材についてはいろいろ強く言って申し訳ない気持ちだ。結果としていいステージができた。厳しい環境であったが、結果良ければ良いとしよう。本当にありがとう。そして岩月さんも本当にありがとう。名残惜しくも時間のない僕らはそのままナンハイホテルにチェックイン。すぐに出発。
市内を見せたいといわれたが最初に機材の確認をさせて欲しいとお願いして移動。この担当のニンさん、とても優秀で僕らの考えていることがすべて理解できている優秀な青年であった。会場はサッカー場。隣は競技場になっている。だだっ広いスペースにやぐらが組まれている。これが僕らのステージになる。最初にアンプ。「いやーありましたよ」masaoのそんな声に歓声の上がる車。

ニンさんは何のことだろうと思うよね。おもいっきりハードルの低いバンドとなったGYPSY QUEEN。何事にもオーバーアクションで感謝だ。ステージに上がり多少古いがちゃんとしたアンプとドラムを確認。ドラムがぼろすぎたので指摘したら新品が届いた。県がやるということはこれくらいの力があることなのか、と改めて感じる。意外と時間がかかり19時に夕食。「LaoLaoDer」というメコン沿いのとってもオシャレなレストラン。目の前に第二メコン橋が見える。料理もとても口に合いみんなのテンションも上がる。

今日はいいステージになるに違いない。そんな高揚した雰囲気だった。20:10ホテルに戻り準備をする。20:40出発。慌しいがすでに僕らのステージ時間を40分もオーバーしている。21時。会場につく。お客さんはみんな待っていた。民族舞踊を踊る人たち。そして、僕らが到着すると演奏は終わりいよいよステージは始まる。ステージに上がると大歓声が待っていた。
オープニングSEが大音量で流されると会場も盛り上がる。Masaoもいつも以上に気合が入っている。そうだ、今日は思い切りいけるぞ。そんなオープニングだったが一曲目の導入部をmasaoがミス。(後日この映像をみんなで見ることになるがミスるまでのmasaoの顔とミスった直後のmasaoの顔があまりにも面白くてみんな大爆笑。)これは痛恨のミスだがまあ演出上のことなのでなんとでもない。
勢いよくステージは進む。最初遠慮がちだったサワンのお客さんもだんだん盛り上がってきた。Dan Hang It sa Laは会場が大合唱。ステージにいると歓声はそこそこ聞こえてくるものだが、このときはマイクをとおしたshinonの声よりも大きな、それほどの観客の声がステージで聞こえた。

うれしいね。この曲を選んで間違いはなかった。そうおもえた。
Youtube動画はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=L-9KhPvAtCk
後半はROCK。洋楽のカバーを取り入れてみた。いろいろな音楽が世の中には存在していて、いろいろな楽しみ方がある。きっとこの日本人の僕らがやった英語の曲をきいて「これなんていう曲?」なんて新しい発見をするかもしれない。ステージから何かひとつでもお客さんが持ち帰るものがあればそれは意味のあったステージ、といえるだろう。木星探査船Cassiniを歌った「Cassini」も久しぶりに披露。

shinonのシンも映える
この曲、日本語の歌詞は伝わらないけれど新しいことにチャレンジする勇気を表現している曲。きっとメロディしか分からないと思うのだがそれでも勇ましい感じを持ってくれたのだろうか。お客さんの体が動いているのが分かる。途中、shinonの着替えの時間のメンバー紹介タイム。ここで掛け合いをやるがニンさんの絶妙なMCフォローで盛り上がる。ニンさんは不思議な人だ。
外交官なのにMCがうまい。見事にお客さんを乗せている。もしかして、その筋の人?なんて思ったりする。曲は終盤になり「KobJai」でコンサート終了する。22:30終了。久しぶりにちゃんとフルステージをやった。充実感たっぷりだ。機材はあるかなど心配ばかりしていた。ニンさんは最初から大丈夫といっていた。でも、それを信じ切れなくていろいろなことを考えてここまで来たけれど全部気苦労の他なかった。

ありがとう、そして信じきれなくてごめん。終了後、一瞬ホテルに戻り着替える。僕は5分でシャワーをあびさっぱりモードで集合。これから打ち上げだ。カフェラオが飲みたいというshinonだったが、結局店はやっていなくバーで飲むことになる。
今回のスポンサーがビアサワンということで新しいビールが飲めるのかな?と思ったが今日がビアサワンの発売開始日ということで飲むことができなかった。「えーっ」というみんなの感嘆の声。次は絶対に飲みたいね。また来なくちゃ。みんなが暗黙にうなずく。それにしてもこの店の選択から移動手段まで完璧に準備をしてくれたニンさん。本当に感謝だ。特に女子には大人気。優しい男はもてるのだ。
24:30.ホテルにもどり解散。明日もものすごく早い。充実感たっぷりだ。ようやく歯車がかみ合いだした。この勢いでツアーのりきろう。明日でちょうど折り返し。今日は早く寝よう。2:00就寝。
2009/02/10
4:30起床。まだ真っ暗だ。眠い。昨日ステージで跳ねたときの腰がちょっと痛い。それでなくてもずっとバスの移動。体が完全に凝り固まっている。5:30集合。全員遅れずに集合。ここでメールチェックができなかったことがあとあと尾を引いてしまう。
そして5:40出発だ。私服に着替えたニンさんはやはり好青年だった。真っ暗な街を出発。サワン、もっといたかったなぁ。何も買ってないし感じていない。次の機会があればと思う。いや、きっとあるね。そんな縁を感じたよ。6:30.右手に太陽が上がってくる。日の出だ。バスは恐ろしいスピードで爆走。当然対向車もなくかまわないのだが牛が出てきたらどうするんだろうとどきどき。大きく跳ねたりするので寝ている状況ではなくメンバーから悲鳴が上がる。
それでもニンさんもドライバーもまったく気にしていない。そうなのだ、これから13時までにビエンチャンに着かねばいけないということが思いっきり彼らにプレッシャーになっている。時間を守る人たち。すばらしい人たちだ。7:10.タケクに到着。朝食をとる。おしゃれなカフェで優雅に朝食。フランスパンがおいしい。ここはコプチャイドゥのオーナーがやっている店という。アメリカンブレックファーストで29000k。

ゆったり過ごす朝食は久しぶりかも。8:10出発。あまりゆっくりはしていられない。景色はどんどん変わり10:07いくつかの橋を越えてパークサンに入る。いいペースだ。しばらくするとまたメコンが見えてきた。メコン沿いをしばらく走る。今日のお昼の会食の連絡を東京とするvivi。しかし電話がつながらない。ショートメールも途中で切れてしまい気もそぞろだ。
外は風景は変わらないが民家から食事を作る煙や家先で勝手に遊んでいる鶏やヤギを多く見る。のどかだ。のどかな風景は日本にもあるけれどこんなにも動物が勝手にすごせる風景ってないよね。10:40給油につき休憩。体を伸ばす。ヴィエンチャンまであと100kmといちいち情報を教えてくれるニンさん。それを聞くたびみんなは安心。さらにこちらの携帯が調子悪いのを知ってかヴィエンチャン側、日本側と連絡を取ってくれている。繋がると電話を回してくれた。物凄い気配りだ。


おかげでなんとか連絡がとれた。ある意味ぼくらが消息不明者になっていたのである。今朝、ネットにつながらなかったことが悔やまれる。それにしてもすごいよ彼。そして、11:30いよいよヴィエンチャン入りだ。だんだん民家が多くなり、商店や工場が目に入るようになる。土の部分よりも建物が増えてきて、木々よりも電信柱と電線が気になるようになる。商店には豊富に商品が並び牛もいない。対向車が増えてきて交差点が出てきた。そしてその先にパトウサイが見えてきた。「ついた!」バンに閉じ込められていたメンバーから安堵のため息が出る。


12:37ホテルに到着。とにもかくにも荷物を一部屋に押し込み出発。この後、藤村公使と会食なのだ。藤村公使は前回のビエンチャンでお世話になった方で今回もご挨拶をさせていただくことになった。サワンから一緒にきたニンさんも同席ということでにぎやかな会に。今回のここまでの経緯をいろいろお話した。特にWat Phuのことなど興味深く聞いてもらえた。会食中いろいろな話になるのだが音楽について非常に詳しく、かなりコアなこともご存知でバンドマンである僕らにもよくわかる話をしてくれた。なんだかこのときの感覚が宮家さんに非常に似た感じだった。


そういえば僕らが中国に本格的に進み始めたきっかけは当時の宮家公使の一言からであった。不思議とそんなことを思い出した。いろいろ話も盛り上がりお礼にとアコースティックで二曲プレゼントすることに。一曲はユメノトビラ。このアコースティック版は初めてだ。そして、Bor Leum Vientiane。ビエンチャンを忘れないというメッセージの曲だ。ちょっと緊張気味だったがいい雰囲気で披露できたと思う。なにせ今日の夜のステージが23時スタートということでさすがに来て下さいとは言えない時間。せめても一曲でも聴いてもらえればと思った。
「今回は無理かもしれませんがまた来ます!そのときは是非バンドバージョンを聞いて下さい。」そう約束して公使と別れる。14:30.久しぶりの欧風ランチに大満足の一行はホテルへ。ここでニンさんともお別れだ。大爆走したドライバーともお別れ。たった一日だけれどいろいろ良くしてくれてありがとう。僕らにとってサワンはすばらしい街という記憶に残った。それも全部ニンさんのおかげだよ。人って不思議だなぁ。出会った人でその町の評価が大きく変わる。僕らも気を引き締めていこう。僕らにあった人がみな日本を好きになるように。ニンさんを見送りホテルへ。


すでに諸富さんが到着していた。今回、本当に時間のない中、ぼくらのコンサート実現に向けていろいろ情報をくれた旧友だ。結局、いろいろな要素があり僕らのヴィエンチャン公演は小規模のものになってしまった。でも、それはどうでもいいことだ。待ってくれている人がいて、大切に考えてくれる人がいて、それ以上の何がある?一番大切なものだけはすべてキープできたこのヴィエンチャン入りはすでに大成功なのだ。
一度部屋に戻り着替えてロビーへ。そこにはVientiane TimesとKPLの取材担当がきていた。二社共同でインタビューとなる。ラオスについて最近感じたこと、音楽はどうやって創る?など質問が飛んだ。「なぜ、GYPSY QUEENがカルチャーホールでやらないの?」「それは次に取っておくためさ。次は12月のシーゲームでくるよ」言ってしまった。何も 決まっていないシーゲームだが僕らのアルバムにも収録してあるラオスの歌「Dan Hang It Sa La」をシーゲームの開会式でやったら面白いじゃないか。と思うのだ。それこそ日ラオ交流ではないか?まあ、そんな妄想で勝手に希望を述べる。まあ、希望を述べるのは自由だしね。そんなちょっとハイテンションの取材は終了。


そのあとshinonがメールチェックをするとLao Star TVから出演依頼がきていた。信じられない話、まだラオスはメディアが強くて、TVに出るにもお金がいるらしい。今回の話は「お金はいらないから出てくれるか?」ということ。でも、出演依頼が今日になっている。メールの送信はおとといだ。「しまった」この番組、前回もだしてもらったがラオポップスを代表する番組。うむ、もったいない。


一応shinonがお詫びがてら先方にアクセスして終了。まあ次があるさ。ノイに電話するとあの懐かしい声がかえってくる。彼女も今日出演する。どんどん集まってくるこのラオスの仲間達。どうしあげるかは僕らが考えなければいけないことだ。16:00会場に出発、アルーナ合流。今回のもう一人のたて役者であり、男前の08年度最優秀女性シンガーだ。「本当にごめんなさい」彼女の責任ではないのにひたすら謝る彼女。でも、そんなこと気にすることはないよ。本当にいいやつだ。一緒に
ステージに立つことに変りないのだから問題はない。そして、彼女はもう一人シンガーをつれてきた。Tarというラオスで最も売れているグループのボーカリストだ。


気づくとラジオ局のおじさんも来ている。いい感じだ。僕らのビエンチャンの仲間たち。旅の疲れも吹き飛ぶね。エーチャンも車でやってくる。「えーちゃん、ワットプーにも来てよ」とみんなと言葉を交わす。リハーサルは拍子抜けするほど完璧だった。さすがラオスを代表する歌手たちだ。17:10ホテルに一度戻る。ガイとアリーナもきて着替えて夕食に出発。20:20空港近くのアウトドアの店に到着。今日は焼肉。これもツアー中初めてだ。
店員が「あの人歌手でしょう」とshinonを指差す。すでに6回目のラオス公演。だんだんshinonの知名度も高まってきた。日本人がここにきて公演をすることは珍しい。だからこそ一過性のものではなく定着するようにしたいと思う。定着すれば意見がいえる。それはきっとこの国の音楽シーンについてもきっとプラスになるとおもうのだ。そうすることにどんなメリットがあるかはわからない。でも、誰かがそうしなければいけないのだとすればそれは僕らがやるべきなんだろう。理由?それだけこの国には世話になったし恩がある。22:10衣装に着替えて22:35会場へ。会場はほぼ満員。熱気あふれる会場。いい感じだ。時間は予定を過ぎている。すぐに演奏を始めよう。「Sabaidee vientiane!」ここはすでに僕らにとってホーム。気持ちよくプレイができる町だ。途中Tarが日本語の曲を歌う。日メコン交流年らしい。そして再びGYPSYQUEEN、そしてゲストにアルーナが上がる。最後はノイとTarも参加してVientianeとKobJaiを演奏。ラオスをイメージした曲の中でも最初につくったこのVientianeという曲には思い入れがある。作って数年たつがこうしてラオスの歌手がこの歌を歌っている姿はなんともいえないものがあった。およそ1時間ちょっとのライブは終了。なんと、そこに藤村公使がいた。
かなり驚いた。こんな時間に失礼と思ってお誘いのレターを出してなかったので本当にサプライズ。そして、工藤さんとも再会。いつもいろいろな意見を言ってくれる工藤さんは今回は5人のラオス人友人をつれてきた。オーナーいわく今日のお客さんは8割がたラオス人だという。面白いことだ。交流ってこういうことだ。


みんなが一緒に歌いだしたときは涙やや泣いちゃうモード。終了後、激しい数のビアラオをオーナーに振舞ってもらいかなりダウン寸前。アルーナに感謝の言葉を伝えて分かれる。僕らも店を出てあひるラーメンの店へ。すでに1時過ぎ。みんな「つぎこそ!」といってくれる。いろいろな思いがあることは進歩の証だ。みんなの希望と期待と未来。音楽でちょっとでもそれを作れることは幸せだ。今回も含めていろいろな人の縁でなりたている賜物だということを僕らはよく理解しておけば良い。Kobjai!
2:30ホテルに向かう。なんとなく風邪っぽいので薬をたくさん。

風邪引いている間なんてまったくない。気合で乗り切れればOKだ。エーチャンチームとは合流できず。3:00にも荷物を片付け就寝。窓の外は月明かりに伸びたメコン。先にはタイのあかりがほんのすこし見えるだけだ。
今日のステージ。規模こそ小さいがそこにいたるケアは大規模コンサートも小さいギグも関係ない。ぼくは最高に満足だ。このすばらしい仲間たちにお礼を言わなければいけない。最高のお礼を。心からありがとう。やっぱり、ぼくはこの町が大好きだ。大好きになるだけの理由がここにはたくさんある。
ビールに酔い、人のやさしさに酔い、気持ちよく。
3:30とにかくねる。


2009/2/11
6:00起床、大量のいろいろな薬のお陰で熱っぽいのも喉の痛みも取れた。よかった。これ実感。7:00食事、みんなも心配してくれていて申し訳なかった。やはり昨晩辛そうだったのかな。ホテルの1Fの無線LANにようやくつなげることが出来、大量のメールを落とす。おお、こんな話がと思うほどいろいろなメールがきていた。もう少し通信環境がよければなと思う。
接続と取り急ぎの回答で時間をとってしまい僕が最終的にバンに乗り込んだのが8:20。それでもメールが全て落とせてすっきりだ。うむ、ヴィエンチャンは大都市なのである。空港までは機材や出国の関係もあり大使館に支援をお願いした。車に乗り切れないのでえーちゃん夫妻もきてくれてバックアップ。大使館からは吉井さんがきてくれた。ラオスが大好きという吉井さん。その国を愛してそこに従事できることはうらやましい。もちろん僕らもラオス大好きだけれどね。

8:40空港着。8:55チェックイン、本当にスムーズに進む。空港職員がshinonのファンでサインを書いていた。吉井さんにお礼をいって出国。僕はかなり先を行っていた。そうすると後ろからけたたましい、ベルの音。職員がmasaoの周りに寄ってきた。Masaoの目覚まし時計の音だが本人は真剣顔。ぼくらは結構笑ってみている。結局、masaoは再度荷物を全てチェックされて出国。笑っちゃいけないがこんな所で目覚ましがなるなんて。だ。

売店でタマリンドのグミを買う。これ物凄くおいしいんだよね。そして、10:25。南から北まで駆け抜けたラオスでの公演を終えVN841発は10分遅れてプノンペンに飛び立った。窓からはヴィエンチャンの町が見える。KobJai LaiLai、僕らのASEANでのふるさとヴィエンチャン。
ベトナム航空はきれいな機内。なぜか3列づつ並んでいるのだが明らかに真ん中の列のみ幅が広い。でも、これって合理的だと思う。長時間のフライトで両サイド挟まれるのはつらいよね。カンボジアについては今だあまり多くの情報がない。そして、今日からクメール語だ。頭を切り替えよう。
公演については日本で会った文化芸術省のオークライが「心配しなくても大丈夫」といったきりだ。今までの経緯を考えればそれを鵜呑みにはできない。ましてカンボジアでの経験値はない。最悪のことを考えセットリストは2つ完全に別物を用意した。フルアコースティックで行うパターン。そしてバンドバージョンだ。
そのために今回はぼくも日本からアコースティックを持参。Masaoにもパーカッションを用意するように話していた。「これでもばっちりですよ」のんきに言うmasaoだがアコースティックになれば日本のロックミュージックをきちんと表現できない。聞いている大方の人はそれでも相違ないと思うがカンボジアの若い層に新しいものを伝えるにはどうしても電気楽器は必要。

それを理解した上で二つの方向性を用意した。このツアーも前半は苦心したが結果的には満足いくものができている。サワンは感動的ですらあった。だからこそツアーの最後はしっかりと努めたい。ついてみなければ何も分からない不安を抱えつつ機体は南下をつづける。
ラオス国境をこえカンボジア領空へ。11:20.赤い大地が見えてきた。田畑が細かく区画分けされている。沼が点在するその景色はなんの前提もないのだが「カンボジア」ぽかった。若干ゆれつつも11:40到着。何度か拒まれたこの地にたどりついた。機体を降りるといきなり暑い。むっとする空気が身を包む。空港内は整然としてきれいな待合室。その間を縫って出国ゲートへ。このときビザがいることを知る。事前に情報がなかったのでみんなとまどうがその場で一人20ドル支払い手続きを。そういえばラオスもつい二年前までビザがあったよね。すっかり忘れていた。ビザにはる写真をもっていたのですっと進むことができた。

ようやく全員がでてきてバッグをとりに、そこに笑顔のオークライが待っていた。なぜか笑っていた。再会の握手とさっそく会場をみたいという僕ら。きっと何をあせっているのだろうと思ったかもしれない。空港を出るとshinonにお花が。車も二台用意されていてしっかりしている。どんなことになるのかと心配ばかりしてきたので拍子抜け。オークライの車にのり、スケジュールなどを聞こうとすると彼の方から資料が出てきた。
「これが今回の予定で、これが招待状、もう外交官や学生に案内をしているから心配ないよ」、「会場はだいじょうぶか?アンプはありますか?」、「もう全部用意していあるので大丈夫だよ、ホテルについたら食事に行こう」、「食事の前に会場をみれますか?機材を先にチェックしたいので」、そんなやりとりをしていると彼は笑いながらこういった「Don’t worry anything hahaha!」うむ。

大丈夫なのだろうか?それでも、招待状も政府の印が押してありしっかりしている、スケジュールも細かく詳細に記載されている。まあ、あまりこちらの主張ばかりでももうしわけないので、とりあえずしたがってホテルにむかうことにした。12:30市内へはいる。初めて見るプノンペンはまったく想像とは違う美しい町だった。確かに旧フランスの建造物もおおい。それを写真でエッジを立てた画像を見ると殺伐としたイメージにも見えるがここにある建物は良きフランス時代のイメージ残る優しいいでたちであった。


目抜き通りにはモノが一杯。TVが山積み、スピーカーが山積み、なぜかギターアンプが山積みの店もある。新品のバイクは飾り付けされて所狭しと並び、通りにはレクサスのRXがガンガン走っている。田園風景に寺院が立ち並ぶイメージは払しょくされた。ある意味ヴィエンチャンの延長線とおもっていたのでその認識の甘さを感じる。王宮のそばを通る。メコンに生える緑の芝生。そして、王族の建物。美しい。整備された広い街路がつづくメインストリートだ。
僕らのホテルはそこから数分のところにあった。ホテルに到着し、食事に行こうと誘われる。一刻も早く会場を見ておきたいので交渉すると「わかった。会場に連絡するので食事をしてから行こう。それでいいか?」という。まあ、もう1時近いのでとりあえずそうする。何を食べたいかと聞かれるので何でもいいというと「日本料理に行こう」という。「日本料理は食べたくないのでカンボジアのローカル料理が食べたい」とつたえると「安くておいしいところがあるからそこに行こう。とっても安いよ」と言われその店に。ついた店は中華料理っぽいレストランだった。

湿度たっぷりなのでちょっと車を降りるだけで汗ばむ。エアコンのガンガン聞いたレストランへ。まずはアンコールビアだ。これが非常に癖がなくておいしい。くせのない味で飲みすぎてしまうそうな美味。そしてオークライにお任せで出てくる料理はみなおいしいものばかり。カンボジア料理ってこんなにおいしかったのかとおもう。種類も豊富でメンバー一同大満足だった。

そして、会場へ向かう。メコン沿いのきれいなホールが見えてくる。よく見るとバナーがあってクメール語の横にGYPSYQUEENと書いてある。とてもきれいなコンサートホール。言葉に出さないが安心感が湧いてくる。

「ここだよ」と先導されてホールに入る。たくさんある控室を見せられてそのままステージへ。そこにはすでに機材がセットされたリハーサルを待つばかりのステージがあった。
「これで大丈夫か?足りないものはあるか?hahaha」相変わらずの笑顔に僕らはただ「Very good!」を繰り返した。

不安が生んだ疑い続けた日々。それはこの一瞬で解決した。しかし、歴戦の僕ら。まだ疑う。この機材の費用請求されるのでは?そう思うほどしっかりした機材だった。それもすべて解決。「会場と機材は全部用意したよ hahaha」もしかしたら僕ら失礼な日本人ではないか?彼は約束通りのことをしただけ。僕らは約束通りのことを何度もしつこく確認し続けた。そういうことだった。環境が整えばあとは僕らの本業だ。

16:30ホテルに戻る。荷物を整理してコーヒーが飲みたくてホテル横のハッピーバーガーへ。アイスコーヒー1.2ドル。のんびりしてこれからの予定を考える。その後マッサージへ。Viviちゃんはちょっとためらうような店であったが1時間6ドルの安さにまけてはいる。20時全員集合。近くのチャイニーズへ向かう。中国語も通じるので楽だ。カンボジアは本当に中華系が多いことに気付く。さっきのマッサージも完璧中華系だ。フォーのような麺をたのむ。昼が思いっきり豪華だったのでちょうどいい。

21:30ホテルに戻る。さっそくミーティング、今回は本当にハードな旅できちんとしたミーティングもなかなか持てない状況だったので久しぶりにじっくりと話す時間が取れてうれしい。会場は問題ないので予定通りメインのセットで臨むことに。曲の構成や昨日までの映像を見て反省会。課題のshinonの着替えの時のMCについてもいろいろ検討。僕とmachaのMCがどこまで通じるか。チャレンジである。

いずれにしてもカンボジア初公演、そしてこのツアーの最終公演にむけてできることをやっていこうと結束を高める。24時部屋に戻る。ようやくネットが部屋でできるのもいいね。プノンペンのイメージは全く違った。最上階の角部屋のために夜景がきれいだ。街の喧噪の先に王宮の寺院が見える。コンサート会場はその先のメコン河ぞいだ。夜風が気持ちいいのでしばしぼーっとする。さあ、明日だ。明日の結果でこの旅の結果が出る。やるぞ。2:30就寝。


2009/2/12
7:30起床。快晴。そして、すでに異常に暑い。テラスに出るとその湿度の高さですぐに汗ばむくらいだ。8:30朝食をとり会場に行く準備をする。そういえば昨日はこのツアー初のライブのなかった日。そんなこともあり休養は十分という感じだ。9:40ロビー集合、オークライが大使館と連絡を取ってくれて10時に表敬訪問に行くことになっている。バンに乗って出発。10:05日本大使館に到着した。ものすごく重厚な建物という印象。鎌田さんが迎えに出てきてくれた。
まずはご挨拶。「重厚なつくりですね」と尋ねると鉄格子は手りゅう弾の通らないサイズということを教えてくれた。そうか、安全な日本では考えられないことがここにはあるんだなと実感する。大使館の会議室に通されて待っていると丸山公使がいらっしゃった。まずは急な訪問とご対応いただいたことにお礼を申し上げる。どこでもそうだが現地の情報や状況は大使館が一番持っている。お話を聞くということはそれをそのままステージ演出に役立てることができるので非常に意味がある。

以前、ラオスの赤嶺さんにいろいろなことを指導してもらった。お辞儀の仕方、角度や上げる足の左右まで。そういった小さなことから本当にその気があるかどうかをお客さんは感じ取るのだろう。デリケートな部分なのでその辺をきちんとしたいといつも思っている。できないとか付け焼刃とかまして恥ずかしいとかそんなことでは相手の国に失礼だしね。公使からいろいろなお話を伺った。「カンボジアの子供たちの目はきらきらしているんですよ」そう話す公使。そこに視点を当てていることがすごく共感できた。僕も持論を展開する。出会えてよかった。今日はコンサート自体にはタイミングが合わずいらっしゃれないそうだが終了後の時間は空いているとのことで終了後にいろいろ感想を述べさせていただくことになった。本当に忙しいのにありがたいことだ。
およそ小1時間。僕らは大使館を後にする。今、日本の子供たちもいろいろ問題が多い社会に生きている。物が余る時代に生まれた良さと辛さが共存している現代。きっとこういった勢い全盛期の国に来ると何かをつかめるんじゃないか?と思う。何でもあるけれど何もない国と何もないけれどなんでもある国。お互いが学ぶものは大きくそれを実現できれば世の中少し変わるだろう。それにしても昨日きて今日までまだ24時間とたっていないが、日本で報じるカンボジアと今、今日、僕の見ているカンボジアには大きな隔たりがある。地雷や混沌のイメージばかりがクローズアップされるがそうでもないと感じた。普通に活気のあるいい町。それがぼくらのイメージだ。
DeepなAsiaからBeautyなAsiaへ。そう変革しつつあるんだろうね。大使館をでてバンはコンサート会場に向かって走る。オークライにお礼。本当にMr.Perfectだ。仕切りは完璧、そしてどこに行ってもみな知り合いのようで誰とでも気さくに話をしている。頼りになるね。11:00会場に到着。すでに競演歌手が来ていたのでご対面。男性1名と女性2名に入ってもらい一緒にみんなで歌おうというものだ。演出含みのRHを実施。具体的に観客の動きが読めないので彼女たちは不安そうに歌っていたがその辺はこちらは経験値が違う。お客さんの入ったときの行動や流れを想定して演出する。

そこまではスムーズに進んだ。が。ドラムの打ち込みがうまくいかない。これは会場側ではなくGYPSYQUEEN側の機材トラブルだった。なんとMDが壊れてしまったのだ。まあ、相当ハードな移動ということもあり、電子機器はいつも危険と隣り合わせにいる。とにかくその代替機を用意しないといけない。とはいえMDを修理することは時間的に無理。となるとどこで売っているのか?ということになる。Viviとmabika2名が急遽町に探しに行くことに。その間もRHは続く。何度かmachaに電話が来る。条件の見合うものはなかなか見つからない。待ってるほうは気もそぞろ。そして、14:00「見つかりました、今から戻ります」。おお!助かった。

この連携プレイのおかげで危機を脱することに。14:30全員集合。リハーサルも無事終了し市内に移動してランチ。そしてホテルに戻る。16:30からの最終チェックのために再度会場入り。ここも問題なく終了。あとは出番を待つのみだ。楽屋ではリサにクメール語のMCをチェックしてもらう。

18時過ぎロンが来た!昨年カンボジアに帰国した大使館員だ。日本にいたときから気さくで会うたびに「次はプノンペンで」と話していた友人。今日は家族できていて子供がめっちゃかわいい。異国にきてこんなにも出会えてうれしい人がいるって幸せだ。クメールの刺繍のパネルをプレゼントしてもらう。大事にしないとだ。そして出番がやってくる。

18:40.スタートだ。オープニングのSEを流しイザ登場というときにMCによる説明が入ってしまい、飛び出すも何もなくなってしまい、SEが終了したあとそそくさとステージに上がる。それでも大きな拍手に迎えられこのツアー最後のステージは始まった。今回は日本語、英語、クメール語という構成を作った。日本のrockをつたえたい、でも理解されるか?そんな心配はこの二日間で払拭された。ここは全然田舎ではないし、文化も十分に発達した国だ。Rockのビートにもついてこれるだろう。実際そのとおり一曲目から盛り上がる。

英語のMCももちろん理解されるし、日本語を勉強している学生もいるせいか、時折日本語で声援もきた。学問に力を入れている国、ものすごい陽気さ。すべて知らなかった一面だ。音楽による交流をしにきた僕らだが今回はカンボジアに教わることばかりだ。途中英語の曲になると盛り上がった観客がステージに上がってくる。そして、それをたきつけるようにshinonが絡む。

その勢いで僕とmachaのMCコーナー「クニョム スローラン クマエ(I Love Cambodia)」は観客との掛け合い。恥ずかしがる人も多いと思っていたが、そうでもなくみんな元気に答えてくれた。やや飛ばしぎみだが、このまま乗り切ろう。Shinonがクメールのドレスに着替えてくると大きな歓声が上がる、あとから聞いたが司会者が「いつドレスを作ったの!」とびっくりしていたそうだ。

これは昨年の日本カンボジア外交関係樹立55周年のときに大使館のスンマレンさんの進めてshinonがつくったもの。その当初「つくっても着る機会あるかなぁ」と言っていたが作って正解だったね。ここでこの衣装で登場できるってやはり「もち幅」だとおもう。過去からの経緯があってここに行き着いたこと。そうでなければ不可能なことである。そして、それをお客さんがものすごく喜んでくれたことですべては答えとしてshinonに舞い降りるということだ。

1時間のコンサートはあっという間だ。最後の曲になった。このコンサートの最後の曲をどうしようかといろいろ思案した。このツアーのテーマソングでもあるBlueSkyで終わるか、それともカンボジアの曲アラピアで終わるか。悩んだ結果、最後はアラピアで終わることにした。このすべてのケアをしてくれたカンボジア政府に、そしてオークライに感謝の意としてこの曲をエンディングに決めた。

最初はshinon。すでにshinonのソロとはいえ観客も歌い始めているのでもう大合唱という感じだ。続いて男性シンガーが登場。この人がまたうまい。そして絶妙のハモリ。そして次にリサと司会の女性が登場。これで全キャストが揃った。
アラピアの動画はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=o0oMzRkWI6Y&feature=channel_page
舞台下におりて観客をあおり場内を歩き始めるとなんと、観客もみなその流れについて踊り始めた。まるで宴会場のような風景。そして、冷静にステージ上で演奏をする僕、macha、masao。ここは降りていきたいところであるが全員が降りるとバランスがとれないので冷静にステージで演奏を続ける。

ステージ下では大変なことになっていたが、再びシンガーたちがステージに戻ると観客は座席にもどってくれた。これで全員ステージに上がられると機材やらエフェクタやら、何よりも演出的にボロボロになってしまうのだが、その辺のマナーもわきまえている本当に質の高いお客さんたちだ。そして、終了。派手なエンディングでコンサート、そして今回のツアーが終わった。文化省の人に大きな花をもらった。

いろいろ心配をしていたカンボジア。最も不安だったカンボジア。それが何の心配もなくできたことに感謝だ。

オークライが口癖のように言っていた「Don’t worry anything」。すべてはその通りだったのである。一本やられたね。アジアのやり方を分かっていると思っている僕らも彼の経験値には届かなかったわけだ。脱帽です。感謝です。疑ってすみませんでした。ちょっとばかり判っている気に、相手ができないんじゃないかと高飛車になっていました。でも、あなたの言うことがすべて正解でした。ありがとうMr.Perfect。楽屋ではみな感激の嵐。最初あまり表情のなかったリサも再会の約束をしてくれた。カンボジア人は楽しいことが好きだけれどああして、会場をみんなで列になって歩くなんてはじめて!と感動していた。
リサの興奮した顔が本心から喜んでくれたんだなと伝わってきて僕もうれしかった。そして、オークライがにこにこしてやってくる。「よかったよ、またきてくれ。それにしてもなぜラオスで4回コンサートをやってカンボジアでは一回なんだ?本当は明日一緒にアンコールワットに行って泊まって明後日帰ればいいじゃないか。Hahaha」いつもと変わらない。その豪快さにみんな大感謝だ。

僕らは良くアジアで信じられないくらいな目にあったりする。でも続けている。その局面だけを見るときっとなぜGYPSYQUEENがアジアで音楽活動をしているのかわからないと思うだろう。そして時には「どんな意味があるの?」と思う人、言う人もいる。でも、今回のようなことは日本では絶対に起こらない。契約社会、約束社会ではこのようなことはありえない。これが日本だったら事前確認もできないまま、そのままそのとおりに対したことはできないし、それでも「事前から連絡が取れていなかったしやっぱりだめだったよね」となるだろう。
でも、アジアにはミラクルがある。時折このミラクルに遭遇する僕らは歩みを止めない。昨年のワットプーも想像を超えるミラクルだった。そして今回またMr.Perfectというミラクルに出会った。これは言葉にできない。してもわからないだろう。これを感じるのは当事者だけだろうし、このミラクルがあるからぼくらは自信を持ってアジアのすばらしさを語ることができるんだ。

楽屋口にはたくさんの学生たちが押し寄せていた。ポストカードを配るともう大混乱。「オークンチュア!」みんなありがとう。熱気冷めないまま20:30会場を出る。ホテルに戻り21時ロビー集合。打ち上げだ。今日の朝に約束したとおり丸山公使も来てくれた。オークライの勧めで川沿いのレストランに。もう、彼にすべて任せることにした。彼の勧めなら間違いはない。
丸山公使に今日のビデオを見てもらう。とても熱心にみてくれる。盛り上がっているお客さんをみて喜んでくれた。僕らもこの元気なカンボジア人のイメージを日本でも伝えて行こう。綺麗なカンボジア、元気なカンボジアをもっと伝えたいという公使の気持ちは僕らも同感。いい話がたくさんできた。忙しい中本当にありがたい。そして、周りでは僕らが日本人バンドと知ると店員も一気に盛り上がり始めた。

一緒に写真を撮って、乾杯をして、躍って。いつの間にかに僕らと同じくらいの数の店員が個室内に。ツアー最後の夜はこうして終わった。23:50ホテルに戻る。名残惜しい。メンバーは一度部屋に戻り24:10再集合。みんなで反省会だ。今日までの映像を見て、ツアーを振り返って。後日では忘れてしまう今の思いは一番重要だ。新鮮なうちに意見を述べて記録しておくことは必ず次に活きて来る。

今回初参加のmabikaは本当に良くがんばった。前半の辛い環境でも笑顔をたやさないことは彼女の財産だ。しかめっ面をしている人と仲良くはなれない。誰も環境は一緒だ。そんな中で自分を楽しめること。それは才能なんだろう。今回、フルに活躍してくれて本当に感謝だ。そして、メンバー、スタッフの仲間たち。みな困難の分だけ思いはある。でも、それはすべてポジティブな明日のための言葉だ。Machaがロビーのカフェからアンコールビールを買ってきてカンパイ。
おつかれさま!そして2:00。一足先に部屋に。メールがつながった分やることが増える。一仕事して3:00過ぎ。もう寝よう。ツアーの最後で最高のステージができた。本当に人には何が起きるか判らない。信じて最後まで行き着いた時にその誉を知ることになる。まるでSIQだ。
2009/02/13
7:00起床、8:00食事。ほぼ徹夜というmasao、sakaiは朝食にこれず。9:30ロビー集合。今日は帰国日。エアが夜になるのでオークライがいろいろ連れて行ってくれるという。10:00王宮へ。ものすごく暑くて死にそうだが不思議と建物の中はそうでもない。今日は王様はいないので旗が出ていなかった。エメラルドの仏像や建築様式はタイやラオスと似ている。

その後国立ミュージアムへ。ここにはクメール王国の遺跡が収められている所。インドシナの大半をある時期このクメール王国が支配していた。そんな地図や遺跡が展示してある。ハリハヤ神の石像もあった。これはSILKという僕らの楽曲のテーマになったものだ。


現在のカンボジアは1866年プノンペンに遷都されてから続いているそうだ。うむ、勉強になる。ミュージアムをでて11:50ホテルに戻る。

チェックアウトの用意をして13:00集合。荷物をバンに積んで出発だ。大きなショッピングセンターでランチをとりショッピング。このツアーでようやく最終日に買い物ができた。Shinonが喉にいい飴を買ってきた。どうしても買いたかった品物だったようで、これもオークライに感謝。なんで彼は喉にいい飴の売り場を知っているのだろうか?コンサートも終わってみんなのんびりムード。


オークライが当初、競演する歌手はカンボジアで有名な女性歌手だったが、開催一週間前に鼻の手術をして参加できなくてリサになったんだよ、と教えてくれた。この後どこに行きたい?と聞かれたのですかさずマッサージと答える。そして、15:30。近くのマッサージへ。時間もあるので90分。それでも10ドルしない。Machaは開始後5分で寝息を立てて、結局1時間以上寝ていた感じだ。終了後sakaiにビールをご馳走してもらう。3本で2ドルのビール。一本60円というところか。お返しは日本でいいですよ。という。しまった。やられた。

17:20.夕方は混雑するということで早めに市内を出る。途中まで結構混んでいたが有料道路に乗ったらスムーズに走った。夕日が左手に見える。途中sakaiが楽器を買いたいというとオークライは体を乗り出して町を探してくれた。ほんとやさしいよね。結局見つからず17:40空港に到着。ちょっと早すぎたのでチェックインまで時間がある。といいつつ空港職員にネごりなんとか早くチェックしてもらうようにまた交渉。その間にいろいろな話をする。

今回、ロックバンドを受け入れるということがよくわかったので(初めてらしい)次はもっと準備をしてやろう、GYPSYQUEENはクメール語で歌を歌ってくれるのでとても評価が高いので、もっとオフィシャルにくるべきだ。という。「次はもっと大勢できなさい、15人くらいでも歓迎するよ。そのときは大きなバスで迎えに来るから」威勢のいいオークライ。でも、その言葉信じよう。もう彼を疑うことは必要ない。
彼の言葉にshinonは涙。大どんでん返し。人は見かけによらない。そんな当たり前のことを彼は僕らに教えてくれた。19:30。オークライとわかれる。寂しいね。本当に会いたい人が増えた旅だ。何度も彼が言う「Next time! hahaha」が頭を回る。ありがとう。オークンチュア。エスカレーターの下でずっと手を振ってくれた彼にお別れ。これがツアーの幕引きだ。


税関を抜けて搭乗待合室へ。綺麗なカフェでお茶をして時間を過ごす。そしてTG692便、21:10発で経由地バンコクに向かう。この便はルフトハンザとの共同就航便のせいかドイツ人がたくさん。みんな異常にでかい。すわれるのかなぁ?と心配。飛び立ちこのレポートを書いている。本当にたくさんのことがあってまだ頭の中で整理し切れていないし、きっと帰国していろいろなやり取りをしてそのとき始めてこのツアーの意味合いを感じるのだろう。今は思ったことだけを記載する。約一時間のフライトで22:15バンコクに到着する。
ここで乗り継ぐわけだがとにかくこの空港広すぎ。Bゲートは?と聞くと1km先だという。1kmってなに?って感じ。そんなことである意味移動で時間がつぶされて搭乗ゲートについてさほど待たずにTG642に乗り込む。すいていればと思ったが満席。行きもそうだったがなんだか景気いいんじゃないか?これだけの人がタイに来ているわけだからね。搭乗後睡魔が襲ってきた。本当にハードな旅だった。

爆睡。3:50。起こされた。ん?どうした?こんなことはじめてだ。飛び立つ瞬間をもう覚えていない。いつも帰国便では眠れなくて辛いのだがこういうのもありだね。とことん疲れていると結構機内でもねれるものだと実感。でも、音源を聞いたりビデオをみていつも過ごしているのでなんだか損をした気持ち。時計を二時間進めて日本時間に戻す。6:08鹿児島南上空を飛ぶ。6:26。東の空が白みはじめる。

今回のツアーもここでおわり。今まで以上に不確かで決定に不安を感じた旅はない。それでもなんとかこなすことができた。これはこのイレギュラーへの対応力とぎりぎりのタイミングでのジャッジの正確さによるものであると思う。このタイミング、この時間、この言葉を選ぶことによって最後のぎりぎりの舵さばきは成功へと進み始める。そんな疑うことばかりの僕らを最後に導いてくれたのはOuk LayのDon’t worry anything.だった。

任せきりは良くない、それで痛い目にたくさんあってきた。それでもずっと彼はこの言葉を言い続け、僕らはそれをかんぐり、対策を考え、そして不安のまま行き着いたところ彼の言うとおりの現場が待っていた。懐疑心を覚えた自分が小さく感じた。疑うことが上質だといつから思ったのだろうか。信じることの尊さを忘れたのはいつからか。そして、このときを迎えた瞬間、彼の何度も言うこの言葉が頭から消えない。Don’t Worry Anything。信じる勇気と大切さを学んだ僕ら。
第三章1幕はここで閉じることになる。現状維持にはなんの興味もない僕らにとってこのドッグイヤーのように流れるアジアは刺激的でたまらない。演奏方法も仕切り方も確実に最初の頃のそれとは変わってきた。第三フェーズを走り始めた僕らには次は何が待っているのだろうか?今回の最高の経験はすぐに過去の思い出になる。そう信じて次に向かおう。
旅立ちの日よりも確実に暖かくなってきている今日。機内アナウンスで東京の気温は19度という。間違いじゃないのか?そう思って機体を降りると暖かい風が吹き込んできた。それは正しかった。Don’t worry anything.走っているのはアジアだけじゃない。ここに軸足を置いてまた走り始めよう。



GYPSY QUEEN Road to Asia #21
Don
t worry anything
2009/02/06-2009/02/14
 
Photo by Iwatsuki(Champasak),AKI,VIVI,Mabika

 




viviはみた!
スタッフviviの鋭い視点でツアーを読む