2011/11/11
Am4:30。寝れたのか?そんな朝。といってもまだ外は真っ暗だ。二度寝しないように一気に起きて顔を洗う。テレビをつけると今日はひときわ寒くなるという。天気予報は雨だがまだこの時間は降っていない。あわただしくam5:20出発。静まり返った街は風が肌寒い。6時に豊洲から高速に乗る頃にようやく夜明けを感じる。朝の高速はトラックが多く、結構車がつながっている。それでも混んだ感じはなく6:30には酒々井PAに到着。ぽつりぽつりと雨が降ってきた。きっとこれが今日のスタートなのだろう。サービスエリアにはトラックの配送の人たちかゴルフへ向かう一団ばかりでバンドマンはちょっと浮いている。
7:00成田空港第一ターミナル着。いつも思うがこちらのターミナル、ちょっと肌寒い。「北ウイング〜」とつい歌いだすがこの曲、すでに知らない世代が多い。チェックインもすいていて出国まですぐについた。9時のフライトなのでかなり余裕と思っていたが搭乗時間が8:20ということでお茶を飲んでいるとすぐ時間になった。でも、出発の40分前に搭乗って早すぎなんじゃないかなぁ?まあ、朝のこの便が遅れると空港自体大変なことになるので早めの措置かもね。僕らはCA422便に乗りまずは北京を目指す。今日は長丁場。北京で乗り継ぎ長沙に向かう。丸一日の移動だ。
今回は長沙で行われるJapan Festivalに参加することになった。これは昨年もあった話なのであるがご存知の通り昨年の後半吹き荒れた反日デモで延期となった。また、結果的に延期となったこともあり規模も日程も変わったため、参加出来なかった。その時のことをよく覚えているが、ある意味中国に対する失望感とメンバーや関係者に対して申し訳ない気持ちであふれていた。スケジュールを確保してもらったり、同行ツアーを組んだりとしたことがすべて消える。しかもそれは個人の問題ではなくもっと大きな国家間の問題だ。その直前に参加する予定だった蘭州、西寧、鄭州、そしてさらには貴州、雲南とすべて準備をしていたものが中止または延期となり、このプロジェクトを推進するメンバーの気力も尽きかけていた。
そりゃそうだ。僕だって気にならないわけではない。加害者はいなくだれも責められないことではあるがそれでも責任はある。誰にあるといえば僕なのかな。このときのストレスはとても大きなものだった。そして、それぞれの公演の現地側担当者とは延期ののちの実施を約束し、その果たされるかどうかわからない約束を日本側の関係者に伝えることがそのころのもっともわずらわしい仕事であった。まあ、結果的には3本の大きなツアーがなし崩し的に消えていったのだった。
それでも、こと中国に関してはそのあとに上海和僑会と出会いそして、今年の3月の貴州で感動的約束を果たすことができた。何かを疑うよりも信じていたほうが数倍気が楽だ。そして、信じ続ければ道が開けるということを改めて知った感じだった。そして今回、またもや約束の言葉は現実になった。長沙で行われるJapan Festival(長沙日本祭)の実行委員会の松永さんから出演の打診が来たのだ。うれしかった。約束を覚えていてくれたことももちろんそうだが、信じていた自分の何かが報われた気がした。「まあ、そうはいってももうないですよね、仕方がないと思いますよこの場合」そう言う人はたくさんいた。悪気はない当たり前の流れではあるが、「仕方がない」という僕の嫌いな言葉。だけれどもそれに反論するすべはなかった。でも、それはイコール現地側の窓口の人々に対する侮辱になる。だから僕はその「言葉」を信じて黙って待つことにしていた。それが実現したことが一番うれしかったのだ。
そこから準備は始まる。コンサートは1時間。当初、湖南大学での公演ということでそのタイミングに合わせてほかの地方も行こうかと思っていた。だが結果的には実行委員側でいろいろ準備をしてくれてこの長沙にある3つの大学で公演を行うことになった。ハードではあるがありがたく演奏させて頂くことにする。貴州でもそうだったがコンサートで最も重要なことは交流だ。そのためには一人でも多くの中国の学生たちと交流し、そしてface to faceの付き合いを実践することだ。それを主眼にコンサートを続ける僕らにとってはまさに願ったりかなったりのスケジュールであった。そして、もう一つ新しい形の交流のスタートとなるべきことがあった。
渡航数日前、日本でいろいろリハーサルを重ねている時にブログに書き込んでくれた女性がいた。それは今回湖南大学で僕らをアテンドしてくれる王蓉さんだった。ちゃんとした日本語で書きこむ彼女。今までツアーに出る前はどんなことになるだろう?現地に行ったら誰と話せばいいだろう、からスタートだった。旅立つ前にこうしてアクセスすることができるということは非常に安心感につながる。時代は変わった。どんどん良くなる。越来越好だ。そんなこともありマインドはさらに高まってこの出発の時を迎える。
10:00多少揺れたが安定飛行に入り朝食。ちょっと今一なのでほとんど食べなかった。空いた時間で地球の歩き方を見る。長沙については情報が少なかった。今回一緒に旅をする地球の歩き方のTさんに「今回のツアーで情報を仕入れて改版しては?」と提案。Deepなネタならたくさん生まれるだろう。まあ、記事にできるかどうかは微妙だが。そんな今回行く長沙。日本にはあまりなじみがない土地で僕らも初めての訪問となる。GYPSYQUEENとしては中国で17都市目となる公演地だ。
ここ湖南省の省都として古くから栄えた長沙(chang sha)は人口650万人。もう大都市である。有名どころとしては毛沢東主席の出身地として有名かもしれない。この長沙の南西100kmほど行くと毛沢東の生家跡があるという。行ってみたいがちょっと遠いかな?何しろ今回はフルに大学を回る旅。残念ながらそんな余裕はないだろう。町は穏やかで日本よりはちょっと寒い。湘江の周りが市の中心部となる。空港は長沙黄花国際空港で市内から30kmくらいで移動は50分位かかる位置にある。朝早かったせいか少し眠るとあっという間に北京だ。多少の揺れはここのところの恐ろしい揺れと比べると全然大丈夫。今年の夏の北京からの帰国の時の怖さを思えば飛行機ってなんて丈夫なものなんだろうと思う。
予定通り北京につき、長い空港を行き来する。一度出国しなければならなかったので荷物を取りだし、再度チェックインして出国。この時点で12:57だった。ここで思案だが空港で4時間待つのは耐えられないということでとりあえず市内に行くことに。高速快速で東直門までいくことにする。片道25元。安いよね。快速はすぐに来て乗り込む。東直門までは40分の距離だ。14:00到着。マッサージ屋を探したが見つからずお茶をすることに。それにしても中国の進歩はすごいものだ。昔はスイーツなどはちょっと微妙だったがいまでは普通においしいものが出てくる。そうなんだ、普通なのだ。共通化されていく社会がここにある。15:40に出発しまずは換金。なんと一万円で788元。1元が12.6円ということになる。これは日本の空港よりも圧倒的にレートがいい。日本で換算したら708元だったので全然お得だね。
帰りは直接ターミナルに向かうので20分でついた。16時に到着し、足早に国内線搭乗口に向かい16:40.予定通り搭乗する。ちょっとばたばただったね。しかしこの便が遅れに遅れなかなか飛び立たない。また、夏の北京の再来か?ブルーな気分になる。おまけに満席。結局飛び立ったのは40分遅れの17:50だった。長沙までは2時間ほど時間がある。広大な中国大陸だ。国内に入ってからが長い。微妙に揺れ続ける機内ではなかなか寝ることができず結局長沙までおきたままだった。窓から見える月がきれいだった。空気きれいなのだろうか?途中、眼下にきらびやかに輝く町が見えた。どこだろうか?武漢あたりか?そして19:55.長沙にたどり着く。丸一日の旅だった。
空港は想像とは異なったものすごくきれいな空港だった。後から聞くと先月完成したばかりという。そうだろうね。このきれいさはね。ロビーへ抜けるとGYPSYQUEENと書かれたボードを持つ一団を発見。松永さん、陳くん、蓉ちゃんの3人だった。 蓉ちゃんはブログでやり取りしていたので初対面という気がしなかった。タレントの水野美紀に似た美少女。陳君も今風の若者。二人の共通点は日本語が完璧で普通に話している分にはまったく中国人に見えないことだ。陳君は昨年のスピーチコンテスト1位というからものすごいスタッフをそろえてくれたということだ。
そして、松永さん。昨年からやり取りをしていてようやく会えた。もっと怖い感じかなと思ったが、笑顔が僕らを安心させてくれる。 言葉と表情に強さが滲み出す。きっとみんなも一緒だろう。僕はすごくほっとした。市内に向かう車中でも松永さんはいろいろなことを話してくれた。そこですぐに気づいたのが松永さんが話すことはすべて和僑会の人と話した時と同じ話であること。まるで長沙和僑会の人のように。そしてそれは僕らが中国で活動を行う上での指針でもあり、ここでも同じ考えを持つ人に会えた嬉しさというか、わくわく感が猛烈に湧き上がってきた。
今回のコンサートは4日間。でも正味2日間しかない中3公演とプラスアルファの演奏もある。演奏者という意味では非常にハードだ。それでもこのイベントに呼んでもらった以上きちんと貢献しなければいけないという気持ちで準備を進めてきた。そして松永さんに会ったときに「よし!大丈夫!」。とそんな気がしたのだ。みんなの努力は報われる。そう直感した。
市内は湘河が流れその東側が駅のある市街地。そして西側は大学や史跡のある地域になる。湘河に流れる中州には毛沢東主席の首から上の銅像が鎮座する。まるでルクソールのような地形だ。そして、僕らの宿舎はその西岸にある湖南大学のホテルだった。大学のホテルといっても貴州で経験があるようにとてもきれいなホテルである。湖南大学は緑あふれるエリアの広大な敷地の中にあり、その中には千年学府といわれる岳麓書院がある。その書院のすぐ横に僕らのホテルはあった。部屋に荷物を置き早速市内へ。湖南料理はどんな味だろうか?もちろん初めて食べる。連れて行ってくれたお店は松永さんお勧めの店。ここで湖南名物の三鮮麺をたべる。これが激うま!中国は麺の文化だからいろいろなおいしい麺をたべてきたがここの中華麺はまさに日本の中華そば。そこに濃厚でちょっと辛い具が乗っている。他の食材も基本的に辛いがスタートだが、四川料理のような山椒は入っていないためしびれる感覚がない。
かなり口に合う味だ。ビールはハルビンビール。なんで長沙でハルビン?とおもったが生産地を見るとここ長沙になっている。飲み口もよくこれなら飲めない人でもOKな感じだ。ほしたえびを辛くしたものや激辛干し肉などすべておいしかった。食事をしながら長沙のこと、日本人会のこと、イベントのことなどたくさんの話を聞く。アジアから日本を支えている人。そんな人との出会いがすっかりぼくらを長沙好きにさせてくれた。
「ヤータンナーカ(おつかれさま)」
「ハオチャレイ(おいしい)」
「ナーチョース(そうだね)」。
ホテルに戻り教わった長沙弁を練習。ミーティングを終えて一日が終わる。明日からだ。力を蓄えまってくれているみんなのために全力を尽くそう。
2011/11/12
6時起床。酒をやめたおかげで目覚めがいい。7時朝食、そして8時出発。今日は中南大学と明照学院でコンサートだ。中南大学は中国大学ランキング17位の有名校。その広大な敷地にと近代的な校舎に驚かされる。何から何まである。すごい。すごいとしかいえない自分のボキャブラリが悲しいがそれほどすごい。本当にすごい。そしてここに来るまでこの学校のことを全く知らなかった自分たちがいる。奥の深さに自分の無知を知る。
会場の入り口。そこに待っていた二人の学生から出る言葉は流暢な日本語だ。なんだかすごい。また、すごいと言ってしまった。この聡明な学生たちと数日を過ごすことになる僕ら。中国語を話さないから勉強にならないね、なんて余裕の発言もでる。そして、このうえない環境を用意してくれたことに感謝だ。ここでの公演は学校内の講堂だった。アンプ、機材はかろうじてあるが照明もステージも当然ない。決してコンサートをやる環境としてはよくはない。そんな中である環境でできる最大限のことをやる。それは当たり前のことだった。
僕らにとってどんな環境でも同じことができるかということはひとつの挑戦にも等しい。何がなければダメというのはもはやスタンダードではない。特にここの国ではね。みんなの協力もあり準備は予定通りに進む。コンサートでは翌日にやるセットを中心としてこの場所ならではのアレンジを加えた。前半は日本語のROCK、途中しのんの中国語にしたオリジナルバラードをやりメンバー紹介のコーナー。今回も僕はbeyondの歌を歌ったがこれが非常に受ける。Beyondの偉大さがひしひしと伝わる。後半は衣装チェンジをしたしのんから。
ただ今回はこの会場のイメージも含めて交流会っぽくやりたいということでviviちゃんに参加してもらうことになった。ただ、紹介されてステージに出ていくのもなんなのでパンダの雰囲気をオーダー。見事にパンダの着ぐるみセットで予想以上の盛り上げとなった。日本のファッション雑誌などはなかなか手に入らないのでそういったことに興味をもつ学生たちにはもってこいの企画だった。 予想以上に盛り上がる。だって、質問ありますか?って聞くとほぼ全員が手を上げるんだ。
そして後半はGYPSYQUEENの王道の中国語ROCK。しのんが中国の曲をロックにのせて盛り上げる。ライブバンドGYPSYQUEEN。この流れは何円もかけて作った僕らの厚生パターンだ。そうしてテンポよく最初のステージは大成功に終わり、コンサートと交流会を兼ねたこのプログラムの形にスタートを切れた。ばっちりだったね。本当に満足できる内容だったが、だからこそを引き締めて次の成長を目指していきたいと思った。きっともっと良くなる。ほんのちょっとの機転と細部を研究していくことにより更に進化したGYPSYQUEENになるだろう。
終了後移動して昼食。大学の陳先生と向かう。陳先生は福井県にいたという。なるほど。素晴らしくも流暢な日本語だ。そして、美味しい湖南料理。今日は日本人に合わせて本当の辛さではないという。豆腐と卵などちょっとヘルシーな感じ。自分にとってはありがたかった。12:30予定通り出発。陳先生たちは明日またコンサートに来てくれるといって見送ってくれた。
中南大学の大きな敷地を抜け、およそ1時間、途中少し眠ってしまったが目が覚めると次の会場明照学院についたところだった。まるで日本人のような龍先生と日本人の先生佃さんが出迎えてくれる。ここでも現場を見てセットを若干変える。当初は屋外のバスケットコートであったが屋内に移動してやることになったので構成も考えないとね。ここは日本語を学ぶ学生が非常に多く、みな日本語で語りかけてくる。アンプがなく、結局ラインで出すことになった。まあ、想定内だ。最初は学生バンドが数曲演奏するとのこと。ちょっと見てみるとボーカルは先ほどの先生の佃さんだった。すごい。そして14:30明照外国語学院にて僕らの公演はスタートする。
とりわけ全員学生なので若い学生向けに盛り上がりを重視するセットリストに変え、MCも日本語を多くした。大切なことを伝える部分は中国語にしてきちんと伝えるようにする。それにあわせ盛り上がる生徒たち。楽しいね。そして楽しんでもらえたと思う。終了後、CDを販売するがあっという間に完売。もっと持ってくればよかったが荷物に限りがあるので残念だった。
今日はこのあと湖南大学でスピーチコンテストの表彰式に向かわなければならないので名残惜しくも会場を後にする。もっと話をしたかったな。きっとみんなもそう思っていたと思う。タイトなスケジュールではあるが学院を後にする。
そしてちょうど1時間で湖南大学内の会場に到着。移動に次ぐ移動の綱渡りだが、すべて予定通りに進んでいる。タイミングもぴったりですぐにステージへ。コンテストのお祝いと明日の公演のPRを行う。北京の日本大使館から来ている斉藤公使にもご挨拶をした。ステージでの挨拶には長沙弁を披露。しかし通じない。ちょっとショックだったがここに来ている人はみな長沙の人とは限らないということで長沙弁も通じないとのこと。ちょっとほっとする。
そして17:30ホテルへ。ここでやっと休憩時間。今日一日ノンストップで進んできた。ものすごく貴重な30分である。そして、18時に出発。交流会の場に向かう。交流会はこのイベントにかかわるすべての人で開かれた。日本人、中国人、年齢も様々。それらのすべての力で動かしているんだなと思う。その中心にいるのが松永さんだった。いろいろな人を紹介された。中でも三一重機って知っているだろうか?福島原発に給水をしなければいけない時になかなか大きなポンプがなく原子炉は本当に危ない状態だった。そのときに中国から贈られた巨大なポンプクレーン車。テレビでみたと思う。ものすごく長いポンプで直接原子炉に水をかけていたあのポンプ車。それを無償で提供してくれたのがこの長沙の会社三一重機さんなのだ。中国からの支援。その会社の人がここにいる。
なんだか嬉しくなった。そしてお礼を言わせてもらった。「日本を救ってくれてありがとう」。世の中すべてが争いではない。争いの前に人間として感じあうことができればそれは必ず道が開けてくる兆しだ。あっという間に時間が過ぎ、場所を長沙の繁華街に移す。黄興広場の先にある酒場のエリア。ものすごい。イメージ的にいうとアンダーグラウンドなディズニーランド。まるで盗賊が出てきそうなバーが所狭しと並んでいる。すごいパワーだ。
さらにメインストリートに場を移す。目を指すような照明がまぶしい目抜き通り。そこでまたもや麺を食べてホテルに戻る。タクシーが止まら何のはバブルの六本木状態。飲んで帰りにラーメンでタクシーを探す。そんな時代が日本にもあった。とにかくタクシーや白タクが全くつかまらない。寒い中、タクシーを求めて道をゆく。なんか懐かしいね。そして、この街のパワーを強く感じたね。ようやく確保して川を超えて大学エリアへ。24時ホテルに戻り解散。明日はいよいよメインステージだ。
2011/11/13
7時起床、天気はまあまあだ。空調がいまいちでかなり寒い朝。今日は午前中に時間があるのですぐそばの岳麓書院に向かう。9時に出発し建物の中に入る。中国の書物はビジュアル的にとても好きなのだがここでも被写体のオンパレード。うーむいい感じだ。撮影スポットを探しながら書院をゆく。湖南大学の学生は自由に出入りができるためここで本を読んでいたりするという。なんて優雅な暮らしなんだろうと思う。
10時にホテルに戻り会場へ向かう。リハーサルが全体的に押していたが何とかサウンドチェックはできた。その後、武漢からきているチームと合流すべく昼食会場へ。ここ長沙と武漢の日本人会の交流の場に参加させてもらう。その中で2004年成都でコンサートを行った時に来て頂いた方に偶然遭遇。音楽をやっているとこういうことはよくあるが中国でというのは聞いたことがない。この広大な中国で時には中国を狭いと感じるのはこんな時だろう。
そして、あわただしく13時。開会式に参加するために会場へ。湖南大学の運動場には多くの人が来場していた。日本と中国との絆。総領事館がないエリアでJapanWeekが行われるのはこの長沙だけであるという。それだけこの長沙の日本人会のパワーがあるということなんだろう。そんなイベントに参加させてもらって感謝の言葉しか思いつかない。ホテルに戻り準備。そして1540会場に向かう。途中コスプレコンテストに出演した学生たちとすれ違う。ほとんど日本と一緒である。違うのはそれをやっているのが中国人であるということだけだ。日本のアニメやコスプレの文化はここ中国で圧倒的な支持を得ている。日本の考え方、やり方、こうして現地に来ると何をすればいいかが見えてくるものだ。会場に到着しバックステージで待機していると若干早めにスタートの指示が出る。いよいよだ。
16:10.この長沙日本祭りの最後を飾るステージが始まる。前半は「勝利と奇跡」「カムオン」とつながるテンポの良いナンバーだ。観客とのコミュニケーションもとれステージをすすめていく。いつもの中国ライブと違うところと言えば日本語のMCがあるということくらいだろう。オリジナルのバラード「シャンニー」は毎回歌詞を説明してから歌っている。以前、中国でカバーばかりやっていた時、スタッフの女性から「あなたたちのオリジナルで中国語の歌を歌えるようにならないとね」と言われた。そして出来上がったのがこの曲。毎回非常に好評である。
しのんの着替えの合間にメンバー紹介。バンドの間合いの取り方に問題が多少なりともあり課題点が残ったが、ステージの上で自分たちも楽しんでいく事ができればもっとお客さんも楽しいに違いない。そう思って毎回ギャグ部門を担当するバックの3人だ。そして今回、急きょ生まれたパンダ企画。初日に好評だったのでこの日も実施。ただ、ステージも大きく交流会的にやるには無理があるのでステージトークのような形にした。陳君が通訳としてサポートをする。陳君のテンションが高く、ものすごく盛り上がっている。いいね。きっと彼も今回の出会いで何か変わったことがあるかもしれない。人と人がかかわり化学反応を起こしていく事はとても意味があることだ。
そして、後半。定番の曲で盛り上げる。客席に飛び出ししのんがあおる。体力勝負だ。そして、四川民謡「康定情歌」を終え僕らのステージが終わる。すぐにフィナーレ。最後なので交流をしたいということで大学の先生に協力してもらって「朋友」を一緒に歌った。先生がものすごく喜んでくれた。人の笑顔を見るのは気持ちいいものだ。
最後に今日出演した人たちもみんなステージに上がってもらう。最後はともに分かち合いたいからね。そして「相信愛」。四川地震のチャリティコンサートの時に必ずこの歌を歌っていた。今年三月の地震の直後の貴州では日本のために貴州大学のみんながこの歌を日本のために歌ってくれた。今日は日本の地震の被災者と四川地震の被災者の双方に伝えたい。その思いで全員で歌う。陳君、蓉ちゃんも参加。もちろん、彼らもこうしてバンドで歌うのは初めてだろう。何事も経験だ。一つやってしまえばその次の扉が見えてくる。留まるよりも前に進む人生をこれからも送ってほしい。
17:20すべてのプログタムが終了した。ぼくらは頑張れただろうか?大勢の笑顔の中、たくさんの記念写真が大丈夫の言葉をかけてくれる。コスプレをした学生たちと会話をする。「大好きです!またきてください!」今日本と中国はまた一つ近くなったのだと思う。すべてはこんな小さなことから始まるんだ。それは本当なんだ。18:30.ホテルに戻りすぐにパーティ会場へ300人を超える大宴会。ここでも乾杯と今日の出演者たちのショウは続く。松永さんはここでも進行を切り盛りしている。何よりも満面の笑顔だった。僕はほっとした。一番応援してくれたこの人に喜んでもらいたかった。それはメンバー全員の想いでもあった。
楽しい宴席は続く。実はお酒が強い(ということが発覚した)蓉ちゃんは一気飲みをしていた。ちなみに中国で一気は「一口(イーコゥ)という。お酒用語だけはわかるmasaoもしっている中国語だ。最後に「月亮代表我的心」を左所長と一緒に歌う。音楽による交流の素晴らしさはここにあると思う。宴席は中締めとなりみんなの充実感と来年の再会を約束して散会する。
陳くんと蓉ちゃんともここでお別れだ。素晴らしい二人。みんなは才能ある中国人を知っているか?時を重ねる度に強く思う。日本は大丈夫か?そして一人でも多くの日本人にこの現実を知ってほしいと思う。「日本は素晴らしい国」といってくれる中国の学生に誇れるものを日本はこれからそう生み出していくか、そしてそのために相手を知ることは本当に急務であると思う。大学の郭先生にも非常に評判が良くて来年の公演についてのオファを頂いた。僕らのやり方がすべて正しいわけではない。でも、僕らは僕らの経験の中、今のやり方をつくりだし、それを中国各地で展開してきた。その方向が間違ってなかったということなんだろう。率直にうれしいね。そして更なる満足度を追及して頑張っていきたいと思った。
部屋にもどり反省会。映像を見ながら思い思いの言葉を述べる。今回はものすごくチームワークの良い一団だった。初参加のTさんもこのハードなスケジュールの中、ついてきてくれたばかりか遊軍にDHにフル活躍してくれた。いつもの6人はまさに鉄壁の6人で普通じゃないことを普通にこなしていく事が出来た。この7人。すごいぞ。そしてまさにチーム長沙であった陳君、蓉ちゃん。この2人を含めて9人。サイボーグ009.いやアストロ球団。なんにしても9人のパワーで乗り切ったのだ。本当にありがとう。そしてまた会おう!
2011/11/14。
6時起床。いつもと違うことは二日酔いではないこと。まあ、飲んでないからね。7:00朝食を終え8時にロビーに向かう。すでに松永さんは来ていた。なんてタフなんだろう。そして、ずっと笑顔でいる。この力はどどこから生まれているんだろうと本当に思う。バスに乗り込み空港へ向かう。あっという間の4日間。もうすでに懐かしいくらいだ。空港までの1時間。名残惜しくて眠るのをやめた。この街を、この言葉をもっと体に染み込ませたい。そう思っていた。9時過ぎに空港につきチェックイン。ここから始まり、ここで終わる。いつも空港はお別れの場所だ。松永さんと再会の約束をして搭乗口に向かう。ありがとう長沙。ありがとう日中双方の実行委員のみなさん、ありがとう松永さん。
フライトはCA1344便 。広いゲートを抜けて搭乗口へ。バスに乗って搭乗機に向かう。10:45長沙を飛び立った。いつもは怖いので目をつぶっているが今日は遠ざかる長沙の街をずっと見ていた。湖南大学がどこにあるかはわからなかったが僕は昨日のあの場所を探していた。機体は上昇し一路北京を目指す。ここでいろいろんな整理作業を行う。この記憶が薄れてしまわぬうちに。
この時間はあっという間だ。2時間のフライトで13:00,北京首都空港に到着する。ここでトランジットだが帰りは荷物がそのまま長沙から成田に向かうので積み下ろしがなく楽だったりする。乗り継ぎ時間は3時間ほどあるのでとりあえずマッサージに向かう。ここで驚くべきことに遭遇する。マッサージをしてくれるお兄さんとお姉さん。いろいろな話をしていて僕がバンドマンであることGYPSYQUEENというバンドであることを話していた。
そこのおねえさんが「GYPSYQUEENみたことがあるよ」といったので、まあ100%うそだろうと思いつつ、「ありがとう、うれしいね」と適当に答えていた。そうしてしばらくするとお兄さんのほうが自分の携帯を持ち出してきて写真を見せ始めた。
その写真は。。。。
2004年の僕らの重慶ツアーの記者会見の新聞のコピーだった!!!
「なんで?!」この人は日本が好きでGYPSY QUEENの新聞記事を持っていたという。そして、昨年の北京での公演も見ていたというのだ。狭い。狭すぎる。こんな所にもつながりがあったなんて。あまりにもの驚きでマッサージが気持ちよかったかどうかはすっかり忘れてしまったがまたの再会を約束して店を出た。「相約北京!」と。メンバーと合流してまずは興奮気味にその話を。みんな当然驚いている。でも、いいよね。音楽がきっかけで新しい出会いがある。素晴らしいことだと改めて思う。そして、CA421便、夕暮れの中タラップを上り僕らは日本に向かう。16:45北京を飛び立った。
第四章1幕はここで閉じることになる。 これだけ続けてきていても毎回新しい驚きを感じる。それは世の中が進歩しているから当たり前かもしれない。過去にとどまっていては古くなるのは当然。最先端の発展を遂げている中国と付き合おうと思えばそのスピード感に追い付かなければ始まらない。今回もまた会いたい人が増えた。それも増殖的にたくさんの縁を作ることができた。音楽が何かの役に立つことは誰しもがわかることだ。そしてその力がものすごいことを僕らはよく知っている。来年国交回復40周年を迎える日本と中国。30周年の2002年とはすべてが変わっている。時流に合わせたやり方でこの40周年に乗ろう。そして、もっともっとたくさんの仲間とたくさんの絆を作っていこう。
小さな糸のコヨリはすでも十分に大きくなってきた。待ってくれている人もどんどん増えてきた。さあ、勢いをつけてまた会いたい人の所に会いに行こうじゃないか!
GYPSY QUEEN ROAD TO ASIA#31
2011/11/11-2011/11/14
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