Over the Asian
2003/7/17-07/28 


3 メコンのほとりの町で

2003/07/20
7:00起床。この日はLAOSへの移動日である。朝、ロビーに集合すると大野さんがきた。「ほら、のってるよハハハ」にこやかに手にした新聞には僕らの公演の記事が一面にわたりカラーで掲載されていた。

この新聞はBorneo Bulletin SundayといってBRUNEIの人がみんな読む新聞らしいここに「Majestic show by GYPSY QUEEN」と大きな見出しで掲載されている。気づくとMasaoは自分の分の新聞を確保。記念に持っていこうとしている。記事もとても好意的であった。よかった。成功したんだな、と改めておもう。

午前中はモスクに行ったりしてほんの少しのBRUNEIめぐりをした。敬虔なイスラムの住まうこの街は酒類は一切売っていない。もちろんだれも飲まない。昨晩もお酒を飲んでないので当然二日酔いはない。これは健康である。なんてすばらしいことなんだ!とおもう。酒がなくても打ち上げはできる。これからは禁酒しようか?そうおもってしまう雰囲気がここにある。今は。いやきっともう少し思っているだろう。

HOTELにもどり出発の準備をしていると昨日、会場に来てくれていたJACKがきていた。なんでこのHOTELが
解ったか不思議だがまあ、そういうもんだ。彼はとってもコンサートに感激してくれていてたくさんのお土産を
もって来てくれた。なんだかうれしい。僕らも何もないのでCDをプレゼントすることにした。くったくのない笑顔のジャック。またひとりBRUNEIでの友人が増えた感じだ。

僕らはHOTELを後にして空港へ向かう。空港まで30分とかかららず到着。チェックインを急ぐ。この日も大野さん貫山さんをはじめBRUNEI文化省の人たちが勢ぞろいして見送りに来てくれていた。チェックインでは重量オーバー分をなんとか説得して安くしてもらう。そんなときにもマレー語での片言の会話が効果を発揮する。あっさりと交渉は成立しチェックインカウンターへ。今回は14:00 TG418便でBANGKOKに向かうことになる。そこで乗り継いでLAOSに向かうのだ。さあ、出発だ。「Bandar Seri Begwnスラマティンガル!」(さよなら)またきますよ、と交わす会話と握手。毎回繰り返すこの出会いと別れ。短いながら同じときを共にした友人。
別れはいつもさびしい。

機内に入ると早速ビールが出てきた。さっきの誓いは??うーむ、微妙だ。でも受け入れよう。フライトは良くも悪くもなく「異なる文化のタイムマシーン」なのだ。4:24ランチを終えLAOS語の勉強をする。LAOS人民共和国人口550万人で言語はラオ語、タイ語が通じる。フランスの統治下におかれていたのでフランス文化の香りもするという。四方を5カ国にかこまれメコン河が国内を1900kmにわたり横断する海のない国。LAOSとは簡単にいうとそういう国だ。ちなみに日本との時差は2時間。なので僕らは時計をさらに一時間遅らせることになる。

大陸の上空に入ると新しい景色が目に入る。ベトナムかカンボジアの上空であるとおもうが、果てしない緑の平地にこまかい湿地帯がつづくどこまでも緑の森は肥沃な大地であると確信できるそれである。これらの国には僕らは行った事がない。この国々は知識の少ない僕らは戦争のイメージが強い。しかし、きっとこの国に訪れることがあれば新しいイメージを作ることができるであろう。今までの考えを一新するなにかが。いつか訪れるときまでその答えはとっておこう。

17:00BANGKOKに着く。時差一時間を引くので16:00となる。ここからはLAOS航空のQV425便に乗り継ぐことになる。今回は荷物をいちいち出さずにすむので少しだけゆっくりできる。(あたりまえといえばあたりまえ)インターネットができる環境があったりしてこの空港は結構過ごしやすい。こんな待ち時間は得てして何も出来ずに終わってしまうものだが、僕らもそうでただ、だらだらしていると搭乗時間となってしまった。QV425便でVientianeに飛び立つ。

夕日が真横に広がる。タイ上空を飛ぶ下には蛇のようにうねりくねったメコン河とそのまわりの湿地帯が見えるだけだ。全てがモノトーンの風景となるなか夕日だけが色を飾る。なんて美しい風景だろうか、ここにどんな人が住むのだろうか。一度訪れてみたい。上昇したり急降下したりとなんて荒い操縦なのか、とおもいつつ20分も早く到着の気配がする。ちょっと早いよね。と話しているうちに本当に到着してしまった。なぜわからなかったかというと、町の明かりがほとんどないのだ。だから周囲もまっくらで何も見えない。ちょっとだけ不安がよぎる。ここは大丈夫なんだろうか。比較的新しいワッタイ空港に降りるとBRUNEIにも増す湿気に溢れていた。空港税関で待っていると、ここLAOSの日本大使館の中井さん、赤嶺さんがきてくれていた。

空港から市内までの道で今までの渡航先とは異なった印象を受ける。なんていえばいいのだろう。中国の昆明の雰囲気に近い感じがする。日本的にいえば30年前の大月市(ん?解りづらい?)といった感じで真っ暗なひっそりとした街道にド派手なネオンが揺らめくという感じである。ビエンチャン市内は小さくあっという間にHOTELについた。HOTELでは大使館の人たちが迎えに来てくれた。光本さん、西村さんと今回いろいろ事前にお世話になった人たちだ。ビエンチャン事情を知る意味でもHOTELの近くのレストランで打ち合わせをする。座ったとたんいきなりのスコールでここが東南アジアであることを教えてくれる。大使館の人たちにいろいろな情報を頂きHOTELにかえる。まったく知らなかった国だから情報量も多い。話の流れで僕もLAOS語の曲を歌うことになった。せっかくならそのほうが盛り上がるだろう。あさってのステージでどう反映できるか楽しみだ。みんなでBRUNEI公演の残りのVTRをみて就寝。今日も3:00を過ぎてしまった。だんだんきつくなってくる。頑張らなければ。

2003/07/21
6:30起床。9:00に会場に向かう。会場は間違いなくビエンチャン最大といえる立派なホールであった。街の中心地にそびえ立つ外観はなんともすばらしい。入り口の木で出来た装飾はアジアの風格を表している。会場付近にはLAOS語で僕らのポスターが記載されている。どれがバンド名かまったくわからないくらいのバナーなので実感がわかないがそれが僕らの公演の宣伝材料なのだ。これは帰りにもらって行こうとおもった。

会場入りするとドラムセットがぽつんとおかれているだけで何もなかった。まあ、中国ではありがちなことなので特にびっくりはしないが、とにかくあまり時間がないので設営を急いでほしいとお願いをした。合間にVientiane Timesの取材が入った。明日の新聞に大々的に記事になるという。ほかにも国営放送や新聞社など5社ほどが取材にくると言うことで大使館の方々の準備の努力がしのばれる。有難いことだ。僕らの演奏だけでは成り立たないのが公演なのだ。結局、午前中はドラムのサウンドチェックのみに終わった。実質リハーサルが始まったのは午後。ここから進行について大きく変更があったのだ。盛り上げやMCについてLAOS的表現やLAOS語を多用するあまりに日本で作ってきたプログラムが大きく変わる事になる。それにあわせて曲も絞る。できあがったパターンをかえるのはお得意芸である。なんなく修正を行う。よく決めたことしか出来なかったり決めたことを変更できない人もいるがそういう人にはすこぶる厳しい環境であるとおもう。そんな中、リハーサルの合間を縫って昨日軽い気持ちで言ってしまったLAOS語曲に取り組む。「チャンパーの花」という曲を教わる。情報文化省のドゥアンチャンパーさんが歌って教えてくれる。それをカタカナ読みにしてさらにメロディを確認して覚える。大丈夫かなぁ。大丈夫なわけないなぁ。でも、歌わないとなぁ。今日から明日にかけて大きな課題が増えてしまった。でも、それをなんどもなんども僕の顔を見るたびに歌ってくれるドゥアンチャンパーさんの顔を見るとやる気になる。この人はこちらの情報省の副大臣だという。そんな偉い人なのに一生懸命教えてくれるのだからやるしかない。きっとうまく歌えたら周りの人に「俺が教えたんだ」と自慢するだろう。そうしてほしいから僕は頑張るのだ。マチャは急遽この国の有名な曲を弾こうということになり中井さんと一緒に市場までカセットテープを買いに行くことにした。買ってそれからはじめて聞く曲。何度も何度も指摘を受け修正されるマチャ。大変な作業である。そんな事もありあっという間に時間が過ぎる。リハーサルを終えて18:00HOTELにもどる。この後は大使公邸でレセプションがあるのだ。

18:30。公邸に向かう。ビエンチャンの市内を走る。車線も何もない道路にりんタクやトラック、自転車が適当に走っている。事故がおきなければ特に決まりのないこの道それはそれでわかりやすくていいもんだ。大使公邸はメコン河のまさに河べりにあった。悠久のメコンの流れ。初めてみるこの大河は長江とも異なる大河だ。100m以上もある河幅に茶色いうねったような流れ。ゆっくりとゆっくりと流れていく。河を隔てるとそこはタイだ。内戦のあった時にはこの河を泳いで避難する人が多かったという。うーむ、なんとも感無量である。何時間見ていても飽きそうにない。この河をテーマに曲でもかけそうな雰囲気だった。この国はメコンの国なのだ。エジプトがナイルの国であるようにこの河がこの国を豊かにもし、試練も与えているのだろう。

そんな事を感慨深く思っているうちに大使がいらっしゃった。橋本大使は以前中国大使館にいらっしゃったということで中国でのことでいろいろお話をした。とても優しそうな方でほっとする。何よりも中国を愛している僕らにとって中国にいらっしゃった方との会話は共感点が多くうれしい。開催時間も近づきいろいろな人たちが到着した。いろいろな人たちが。いろいろな人たち。ん?それにしてもたくさんだ。「この方がJAICAの会長さんです」「この方がシンガポール大使です。」「この方がLAOS情報相です。」なんだかすごい人たちがたくさん集まってきた。今日は何があるのだろう。何かの会に参加させてもらったのかもしれないとおもいそれも名誉と思って聞いてみると「何いってるんですか、今日はGYPSY QUEENのためにみなさんあつまっているんですよ」といわれた。「げっ」それはおそれおおい。この国を左右するような方々が集まってくれるなんて。また、日本企業の方々も大勢集まってくれていてさながら大パーティの様相をかもし出してきた。

会が始まると大使の挨拶に始まり、情報相のパンドゥアンチットさんなどのスピーチがあった。「それではバンドを代表して」ということでマイクが回ってきた。こんな席だとは思っていなかったので面食らったが覚えたてのLAOS語で挨拶し、あとは普段思っているとおりのことを話した。無難に挨拶を終え会食となった。ここLAOSのことはあまり知らなかったが多くの日本企業がこの国に進出していることがわかった。貴重な体験談やアジア経済のことなどを聞けた。僕らにとって大きな情報源だ。「明日はがんばってくださいね」の言葉の重みを感じる。LAOSで日本人のロックコンサートは初めてだという。伝統芸能の公演はあるようだが、僕らのようなスタイルは初めて。ということは僕らが標準となるのだ。ここにいる日本人の人たちのためにも少しでも日本の評価が高まるよう全力を尽くそう。
務めは重い。

2003/07/22
6:30起床。空は曇っている。幾分か過ごしやすい朝だ。9:00に会場に向かう。昨日から続けたLAOS語の勉強の成果がでるかどうか楽しみだ。聞き取ってくれるようであればうれしい。リハも順調に終わり、あっという間に夕方になった。赤嶺さんは何度も何度もLAOS語の発音をしのんに教えてくれている。
「そこちがいますよ。こうですよ」「はいこうですか?」「そうじゃなくて。。」親身になってよりLAOS語をわからせるようにアドバイスをくれている。しのんも懸命に練習する。なかなかここまできっちりと意見を言ってくれる人は少ない。「しのんのLAOS語は中国語みたいね」と指摘されている。ちょっと笑っちゃうね。確かになんだか四声が感じられる。それじゃ中国語だよ。ぎりぎりのショートレッスンが続く。

言葉なんて伝わらなければまったく意味がない。少しでも伝えられるよう指導してくれることはある意味曲を作っている作業に等しい。会場にいるLAOS人のスタッフも僕らがLAOS語を話していると一緒におしえてくれ
る。フレンドリーな人たちだ。その屈託のない笑顔を僕らは想像していただろうか?知らないことをただイメージだけで捉えてはいないか?それではいけない。知りたいことがあればもっと積極的に話していこう。知り合って直接いろいろ聞いて知識をつけていこう。
しのんもかなりいっぱいいっぱいであることは良くわかる。ちょっとゆすればこぼれてしまいそうな言葉の洪水に溢れかえっている。静かに見守るしか僕らには出来ないこと。頑張ってほしい。もうちょっとで公演は始
まる。

また、昨日であったLAOSでNo2の歌手というノイ。(順番があるのが不思議な感覚だよね)歌手なのに今日は歌ではなくて司会をしてくれるという。彼女に好感をもったぼくらはさっそく僕らの数少ないLAOS語曲「イエンサバイサオナ」を一緒に歌ってほしいと頼んだ。彼女は快諾してくれた。すごく喜んでくれているようでもあった。競演にまさるコミュニケーションはない。これで本当の日本とLAOSの友好のステージとなる準備が整ったのだ。

18:30会場一時間前。すでに会場の外には大勢のお客さんが並んでいるという。予定を繰り上げて開場することになった。合間を見て会場の外にでると本当に大勢の人たちが列を作ってまっている。まわりのとおりからもどんどん会場に向かって人が歩いてくる。そうか、この人たちは僕らのコンサートを見に来てくれるのか。なかなか実感がわかない。その証拠に僕が歩いていても誰も気づかない。中国ではそとにでたらもみくちゃにされて命の危険すら感じた。ここではそれはない。お行儀のよい国民性なのだ。

開演時間が近づくと会場内は満員で通路も埋め尽くされていた。スタッフの人たちが「会場に入れない人がもう2〜300人いますよ」と興奮している。集客という意味では大成功のようだ。これは全て現地の大使館の方や関係者の方たちのおかげだ。それにみあうステージをできるかどうかが僕らの真価となってくる。緊張してくる。定刻より10分押しでステージが始まる。緞帳があくと大歓声が鳴り響く。なんだ?おとなしい国民性ではないのか?

「サァバイディ ニンディーティーダイ フーチャック コイスーGYPSY QUEEN」(こんにちは はじめまして 私達はGYPSY QUEENです)

途中しのんがLAOS語でMCをすすめる。基本的には英語で全編MCとなるがやはり現地語を話すのがGYPSY QUEENの特長でもある。特長というよりも僕らがいる存在意義であるのだ。LAOS語で話しかけたとたんどっと会場が沸いた。つかみはOKである。そして、今回用に考えたメンバー紹介のコーナーになった。

メンバーもLAOS語での挨拶が出来るようになった。急遽、音源を入手して音をとったマチャは完璧にその有名な曲を弾きこなし拍手喝さいを受けていた。これは気持ちいいよな。その拍手の大きさにちょっと心配になる。僕はちゃんと歌えるのだろうか?そして、いよいよ僕の出番が回ってきた。昨日からドゥアンチャンパーさんから教わった曲だ。本番でとちっては何の意味のもない。Bassなら緊張しないのに歌うとなると異常に緊張する。「オーロァンチャンパー〜」最初のメロディで会場が揺れるように沸いた(とあとから聞いた。僕自身はかなり緊張していたので実は覚えてなかったりする)よかった。やってよかったし、ドゥアンチャンパーさんも喜んでくれるだろう。

歌の歌詞は忘れないように個々に記載しておこう。「オーロヮンチャンパー ウェーラーソンノー ヌッ(ク)ヘンバンリー モンヒンワァーチャイハオヌッ(ク) クンダイ ナイキンジャホォー(ム)」LAOSの国花を歌った歌だ。
僕はドゥアンチャンパーさんの姿を探した。ステージの袖にいた。きっと心配だったのだろう。ぼくはほんの少しだけ彼のほうを見てお辞儀をした。「コプチャイライライ(ありがとう)」

ステージはもりあがり、LAOS語だけではなくマレー語の曲なども交え進行する。LAOS語曲「ヴィアンナイファン」には会場から一緒に歌う声も聞こえてきた。この曲は全編LAOS語でありそれを覚えるのにしのんがとても苦労した曲だ。「LAOS語きらい!」とって投げ出しそうになっているのを何度も無視して過ごした。きっと数百回となくヒアリングをしてようやく歌詞をわりだしたのだろう。そしてその意味さえ定かでない言葉の羅列を覚える。とにかく覚える。それは根気のいる作業である。でも、こうしてLAOSのお客さんと一緒に同じ歌を歌えることはだれでもない、しのんにのみ許された貴重な瞬間である。よかったね。とおもう。きっとこれからもこういった壁にぶち当たるであろう。その時は今日のこのステージを思い出して頑張ろう。僕は星一徹になる気はないがこの瞬間を知っているだけに頑張ってほしいのだ。そしてその成果は全て君に舞い降りる。そうしてステージは進んだ。
事前に聞いていた話とは異なり立ち上げって手を振る人、奇声を発する人などさまざまだ。僕らももう限界までといえるほどにステージを走り回る。今回はしのんの衣装替えを急遽作った。僕らはみんなでしのんを呼び出す。LAOSの北部の都市ルゥアンプラバンの民族衣装(シンというそうだ)を着て登場したしのんはそれはそれはLAOS人であった。LAOS式のお辞儀をすると会場は一段と盛り上がった。

観客からも「シノン (ン)ガンボー(しのん、綺麗)」という声が沸く。ここでノイも呼び出す。なんとノイは日本の浴衣を着て出てきた。これには会場も爆笑。LAOSNo2の歌手のコスプレは貴重な経験であろう。今日のお客さんは得をしたと思う。アンコールの最後の曲「イエンサバイサオナ」をノイとしのんが歌う。当たり前のことだがネイティブのLAOS語はやはりうまい(というかLAOS語っぽく聞こえる。あたりまえか)しのんが大きな日本の国旗とLAOSの国旗を持って会場に下りた。狭い通路をかき分けみんなに挨拶をしてまわる。ステージではノイが「イエンサバイサオナ」を歌い続けている。客電がつき、会場全体が見渡せる。両国の国旗がはためきそのしのんの歩みによって会場が動く。なんとも象徴的な絵だ。

政治はわからないが音楽で国と国が一つになるってこともあるということなのだろう。ステージにもどったしのんは日本の国旗をノイに渡し二人で振り続ける。会場も沸く。成功だ。この瞬間にそうおもえた。初めてのLAOSで僕らは受け入れてもらったのだ。「ラコーン ポッ(プ)カンマイ」(さよならまたあおう!)ステージでメンバー全員で挨拶をする。いつまでも帰らない観客がコンサートの成功を表しているとおもった。

公演終了後情報相や大使から花束を頂いてステージをあとにする。いつまでも帰らないお客さんのところにいくと、「ありがとう」と片言で言われた。この国でも日本が大好きで日本に行きたがっている人がたくさんいる。もちろん、日本語の勉強もしている。楽屋ではしのんが赤嶺さんに「LAOSの歴史的なことです」と言われたといって涙ぐんでいた。しのんはまたもや泣いた。
全てが終わったのが22:30。会場の外に出るとまだ待っていてくれた人たちがいた。しのんはそんな子達にかこまれてキスをされていた。みんなしのんが大好きらしい。しのんは5,6人の女の子に抱きつかれてほっぺや手にキスをされまくっている。不思議な光景だ。

一度HOTELに帰り僕らは市内に出た。「ヤー(ク)キンビア」(ビールが飲みたい!)。大使館の人たちも一緒だった。僕らは今回の公演がどうだったか知りたかったがそれを聞く前に答えをしらされた「LAOSの人がこんなに盛り上がっているのを初めてみましたよ」「赴任して今まで一度もこんな光景を見たことがなかったですね、(こんなに盛り上がるなんて)LAOS人に対しての考え方が変わりました」口々に知らされる感想にはそれは全てを形容している言葉であった。

僕らはそれが一番うれしい。それが本当の目的であるからだ。名残惜しくも宴は終わりHOTELにもどる。明日は早い。2:00就寝。

2003/07/23
6:30起床、8:30HOTELを出発しワッタイ空港に向かう。空港への道は来たときには何も見えなかったがいわゆる東南アジアっぽい風景が続く道であった。20分程で空港に到着。ここでお別れだ。現地のスタッフの方々が見送りにきてくれている。もちろんドゥアンチャンパーさんもきている。彼のおかげで初めてのLAOS語曲を歌えた。また、来たい。本当にそうおもう。こんなにも来る前の印象と異なる国はなかったと思う。空港では職員のみんながGYPSY QUEENを知っていた。小さい町だから余計にわかるのだろう。さよならVientiane。


10:30。Bangkokにむかう。なぜかThai航空は操縦が荒い。ゆれまくって、コーヒーをなんどもこぼしそうになりつつ、ひたすら酔わないようにと必死にこらえる。ランチを食べるとすぐに機体は降下。眼下にMekongがみえてきた。そして、ここでも予定より早く11:27に降り立つ。トランジットでKuala Lumpurに向かうのだ。この待ち時間をまったりすごさずミーティングを行う。二回の公演での評価を分析しなければならない。その結果でよいものは継続し、ふさわしくないものは修正しなければならない。「ツアー中は全て本番」がGYPSY流。でも、この時間を有効に使えるかが臨機応変な対応ができるかどうかの鍵となるものだ。

MCやメンバー紹介の手法をLAOSで大きく修正をした僕らはそれをMALAYSIA用にアレンジをしてMALAYSIA公演に備える。15:55 TG425にて飛び立つ。ここで時計を1時間すすめる。日本との時差は1時間に短縮。これもまた揺れにゆれ18:38到着。かなりつらいフライトである。またもや予定より早い。Thai航空はせっかちだ。さあ、いよいよMALAYSIAだ。MALAYSIAの心臓部クアラ・ルンプールに到着だ。




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