Hear my song
2002/05/22-2002/05/26 北京


2.北京Rock

2002年5月22日出発の朝が来た。何が起きようと何も起こらなくても誰にでも正確に同じタイミングで時は動く。

ほかの人よりほんの少しだけ重大な朝の訪れ。天気は晴れ。
まあ、いい感じだ。思えば、いつもせわしない「早朝の出発イコール中国」であったが今回は午後の便での訪中となる。
おかげで準備もゆっくりとできた、結果的にはいろいろなトラブルにまきこまれぎりぎりの行程となってしまったがそれでもいつも
よりは気持ちに余裕があった。午後二時に最寄の駅からJRに乗る。タクシーで行くかどうかぎりぎりまで迷ったが結局確実な
電車を選んだ。家からの道をがらがらとスーツケースを運んでいく。これは結構まぬけな風景だなとおもいつつ、平日の真昼間に電車に乗り込む。空いていてよかった。自分でも会社帰りにいい大人が旅支度でのほほんとして車両にのってくるとなんとなく、
気分がめいる。「僕もあそびにいきたいな」と。日暮里にて14:15のスカイライナーに乗り込み成田へ。この車両もまったく空いていて、特別な感じにひたってみる。窓の外は快晴。前回の雪とは異なる景色はツアーの成功を暗示してか?そう思うとなんとなく眠くなり成田まで寝てしまった。15:15空港につくとメンバーはすでに集まっていた。もう手馴れたもので手際よく楽器をまとめていき、あっというまに出国審査となった。ここも問題なく進み、ようやく世界行脚バンドGYPSY QUEENは本当の旅団となった。今日はワールドカップのナイジェリアが入国してくる日でもあり空港はなんとなくざわついていた。

搭乗待合室で中国語の練習をしていると突然後ろから。ヘンハオと声がかかった。振り向いてみると中国の人だった。左さんというアメリカでビジネスをしている人で、今回中国に帰る所だったらしい。絶好の勉強相手とおもいつつ会話をしてみる。うーむ、まだ半分もわからぬぅ。でも3分の1は理解できた。これもまた進歩なり。なんでも自分から進んでやらないと動かないのだ。そして、ANA955便 北京行きに搭乗。17:45予定より20分遅れてtake off一路北京に向かった。

先ほどの左さんも偶然僕らの後ろの席に座った。「ヘンチン(近いね)」となりにはしのんの席であった。ある意味入国前の最終レッスンとなるだろうなと思いつつ機は高度を上げてゆく。安定したフライトだ。19:45 ソウル上空を飛ぶ。時計を現地時間にして18:45分。あと1時間半で北京空港にたどり着く。未だ明るい機外はなんとなく安心感を持たせる。不思議なもんだ。20:00大陸に入り窓際の席ではこぞって身を乗り出す。万里の長城が見えるらしい、そりゃそうだ、人工衛星からも見える建造物。そんなものはなかなかお目にかかれない。僕も少し見たいなと思いつつ、反対側のしかも通路側の席のため遠慮する。そうして20:23北京首都国際空港に再び舞い降りる。

ほぼ一年ぶりの北京。前回北京を後にするときに、程さんの言葉にも期待しつつ、もう来れないかな?なんて思っていた。しかしこうして再び北京空港のジェット燃料のむせる匂いをかぐことができた。我再来中国!感無量だ!北京空港の広い空間にも「上海のほうがでかかったな」なんて余裕も出てきた。出国も終りバッグを取りに行こうとするとそこに待っていた。徐軍さんが。「好久不見!」老朋友は旅行のための朋友ではない。僕の老朋友、徐軍だ。再会の握手を交わし、荷物を持ちゲートをくぐり外にでる。

大きく吸うとむせる排気ガス。それでこそ北京だ。恒例となった荷物の積み込みを行いバスにのる。初めてきた中国はどうだった
ろう。光のオブジェにかこまれた緑の町。そうだ、今回もその景色だ。なんとなくだが覚えているような道を走る。そう、たしかこんな感じで高層ビルとバラックの街が入り組んでいた。なぜかまっすぐなとおりから急に異常に細い道に入り。。。。そうだ、去年もこんなかんじだったよね。メンバーはみなうなづく。まちゃは初めての北京に圧倒されている。そうなんだ、北京はとっても、圧倒感がある。昔の活気あふれる日本の街道筋を思えばいいかもしれない。ライトアップされたレストラン、町の至る所に配置されたオブジェ、そんな中を僕らはホテルに向かって走った。そして、22:00。僕らの宿泊するホテル新僑飯店に到着する。

ホテルに着きしばらくすると、早速変更が待っていた。呂遠さんから電話があり、これから打ち合わせにくるという。急すぎるがそれでも、明日以降の予定に不安を覚えていた僕らにはグッドタイミングだった。ホテルの近くの店で夕食を取りつつ呂遠さんを待つ。どんな人だろう。なんとなくイメージは沸くがもし、思っていた人ではなかったらどうしよう。いろいろ思いを巡らせる。
それも、一瞬に消え去った。「どうも、どうも」と現れた呂遠さんはとても気さくな人だった。もちろん、中国では物凄くえらいの
だ。護衛がついているくらいなのだから。それは貫禄と実績を踏まえた上での余裕からくるものだろう。初めての会話にも関わらずいろいろな疑問点を一気に解決することができたのだ。呂遠さんは「あなたたちのビデオはよく見ました。あなたたちは中国の若い人にも受け入れられるようにがんばってほしい」励ましの言葉だ。今日、こうして呂遠さんに会うまで疑問と不安の連続だった。
誰だってそうだと思う。人によっては悪い解釈しかしなくても仕方がない。それだけ距離も情報も離れている世界なのだ。そして
その超有名であり実力者である呂遠さんと会う。会えた。少しぐらいの傷は仕方ないだろう。でも、傷どころか呂遠さんのほうから気持ちを僕らに注いでくれている。そんな贅沢があるとおもいますか?あったんです。ここ北京にきてあったのだ。うれしさで鳥肌が立つのがよくわかる。進められた酒がのどを通らないのだから。これは緊張ではないんだな。出会いのすばらしさが襲いかかってきたんだ。今初めて、「今回の中国行きは正解だった」といえるような気がした。初日の夜にそれは「あんた、ちょっと早いでしょ」と思うかもしれない。でも、この現場にいればだれだってそう思うよ。いないとわからない「凄さ」なのだ。さらに、「25日に人民大講堂でパーティをやりますが参加しませんか?」といわれる。なんだって!人民大講堂といえば天安門のとなりのあの大きなところではないか。そこには政府の人が出席するという。そんな恐れ多い。。行きたい気持ちとスケジュールにはさまれた気持ちが入り混じり答えが出ない。とりあえず保留。なにもなければ二つ返事ができるもののそうもいかない辛さかな。今、日本と中国はかなーり気まずい関係になっている。そんな中僕らがこのような機会をもらってもいいのだろうか?格別どころではないこの感激。この国をもう少し理解しようとするだけでいい。そんなことはいまさら言う事ではないけれど、僕らは本当にそう思う。仲良くしていきたいんだ。

だから、その意思表現として中国語で語りかける。ぼくらは朋友だよ、と。北京はロックの街だという。確かに進んでいる街だ。だけどそこに反体制とかそういう悪い印象はない。ヘビーメタルをやっている人だって一生懸命勉強している。先入観による「ロック」っていう言葉は僕らが子供の頃よくいわれたものだ。「あの人はロックンローラなのよ」決してよい表現に使われなかったあの頃。そして、今言われる北京ロックはどちらなのだろう。でも、北京ロック自体はだれが名づけたのだろう。限りなくでかい北京にはいろいろな人がすむ。ロッカーがいてもおかしくない。でも、北京ロックということだけで、「北京って殺伐としているのね。上海のほうがいいわ」というのはやめて欲しいなと思う。(これは中国を知らない日本人の発想であってけっして北京と上海のどっちがいいかということではありません。念のため。僕は両方とも最高に好きな街です。だって全然違う街だもん)

そうして、思いがけずの北京の初日は終わる。いろいろあった。中国式にはなれたつもりでも今日の展開は読めなかった。それもいい。まだ、すべてをわかるには器が小さすぎる。世界もそんなものではつまらない。きっと今回のツアーのなかでもっといろいろ経験するのであろう。今日はどうなるかわからない。でも、明日が終われば明日の生き様が見えることだろう。そして、反省をしているのかもしれない。そうして日々は過ぎ行く。願うことなら毎日が今日のように、心に汗をかけるような日々であってほしいと思う。2:00ホテルに戻り就寝。明日は何が起きるだろうか。



万里の長城



 
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