2005年4月。突発的に起きた中国での反日デモ。それは一時的なもの、と誰もが思っていた。この両国の深い政治問題、歴史問題は突然として大きな騒動に発展する。隣国同士というどうしようもない現実の中、友好を掲げては水面下での争いは日常化し、それは適度のタイミングをもって吹き出す。そのタイミングが今だった。それだけのことだった。 問題なのは、それがGYPSYQUEENの11回目のツアーであり、中国政府から正式な招聘状を頂いた「相約北京」出演決定直後に起きた事であった。心配性のしのんが実質的な運営権を握る演出公司に打診する。「反日デモの影響はないですか?」すぐさま勇ましいメールが来る。「あなたたちを招聘しているのは政府であり、あなたたちの安全を保障する」。ここまで断言された日本人なら誰でも大丈夫と思うだろう。でも、ここは中国であった。GYPSY QUEEN ROAD TO ASIA第二章一幕。そう簡単には越えさせてくれないこの大きな国の偉大な壁についにぶち当たった旅の手記をここに記する。 2005/04/30 静寂のスタート 日本はゴールデンウイークがはじまったばかり。僕らはANA955便にのり北京へ旅立つ。いつものとおり成田空港に集合するメンバー一同。連休の混雑を予想して荷物の多い僕らは出発の3時間前に集合した。しかし、空港にきてみると思いのほか人が少ない。あっという間にチェックインを行う僕ら。ラッキーだ。だけれどちょっと物足りない。人間というのは勝手なものだとつくづく思う。出国も混雑なく進め搭乗ゲートにたどり着く。17:25ANA 955便に乗り込みTAKEOFF。機体はどんどん高度を上げ雲の上にでる。11回目のツアーもスタートを切った。目を閉じるとちょっと寝てしまったみたいだ。窓の外には青い空。下には真っ白な雲海がどこまでも遠くまで広がっている。僕らの空はつながっている。この雲の上を滑っていけばあの大地、北京にたどり着くのだろう。機内食の日本そばを味わいつつ中国語をおさらい。中国語はご存知のとおり四声というものがあり、発音しだいでまったく違う言葉になってしまう。このデリケートな時期だけに意味が異なったことを言うのは良くない。たった3時間ちょっとのフライトでもどんどん頭に入っていく。そうだ、勉強は追い込まれていたほうがいい。3時間後に使わなければいけないのはこの言語なのだから。アナウンスが入り機体は着陸態勢に入った。しばらくゆれると眼下に明かりが見えた。北京の営みだ。何度目かの北京。21:06分。北京時間にして20:06分。北京首都机場に到着。ジェット燃料の焼けたにおいと気温29度の蒸し暑い夜が僕らを迎えてくれた。 我来北京 アポイント開始 北京は思いのほか風が強く、あおられた砂埃がもうもうと沸き立つ。目も開けていられない春の嵐。ぼくらはミニバスを値切り宿泊先に向かう。空港を出るときにはさすがに少しは不安であった。「罵声をあびる」「ものをなげられる」まるで犯罪者のごとく扱われている「日本」という国が一連の報道の中で取り上げられていた。「日本人」であることがまるで恥ずかしいかのように理由のない何かを隠さなければいけないようないわれかたをした。それでも、僕らはこの国にきた。本当の事実を見るために。それでも最初の一歩は緊張するものだ。それでも何事もなくゲート通過。値切って300元でかりたミニバスの運転手はとても陽気だ。これでいい。いつもの北京はここから始まった。さっそく現地の友人、音楽関係者、政府関係者に連絡をとる。こっちに来る前に連絡すれば、と普通は思うのだが、中国という国はあまり事前の確認には意味がない。到着してからのアポでも事足りてしまう。そういう習慣だ。ミニバスは市街地に入る。かなり強い風に目に見えるほど砂埃が舞い上がっている。そこを笑顔で話しながら自転車にのり通り過ぎる女の子たち。「口の中に砂がはいらないのかなぁ?」そう思う。空港からおよそ一時間。その間に次々と決まる予定「そこはもうアポ入っちゃったから翌日は?」「ひさしぶりだねえ、会えるならお昼はどう?」手帳には次から次へと予定が埋まる。とりあえず、前半のアポがすべて埋まったところで終了。あとはこのアポから次の何かを引き出すためにあけておくのだ。さあ、ホテルについた。今日は北京テレビの王さんと会う。今の北京の事情をいろいろ聞きだしてみよう。 北京テレビ王さんと ホテルにつき、荷物を片付けて22時に再集合。ロビーに下りるともう王さんは到着していた。片言の日本語と流暢な中国語。ぼくらのために一生懸命日本語を話してくれる。それでもしのんには一切日本語は使わず中国語でまくし立てる。それもしのんにとっては勉強になるということなのだろう。一緒に食事をしてここ一ヶ月の北京の動きを聞くことができた。やはり一般市民はデモがあったことすら知らない人が多いという。しかし、先週の新聞報道で日本が謝罪(小泉総理の胡首相との会談)をしたということが新聞に大々的にのったため、それで反日デモのことについても大きく広がったようだ。僕らが五月四日に大規模なデモがあるのでは?と聞くと「大丈夫。政府がさせないといったら絶対にさせない、私たちの国の政府が言うことは絶対よ」という。僕らの出演する予定である相約北京のことを話すと。「今だからこそ日本人の出演は歓迎すべきだとおもうがきっとまだ情報がおそいのでしょう。上からデモを完全に押さえるという指令があれば、もし会場で投石一つでもあれば担当者はそくクビだから、慎重になっているのでしょう」といっていた。事実、僕らには正式な政府からの招聘状がおりている。それでも出演がキャンセルされるのであれば一度言ったことを政府が覆すわけでそれは僕ら以上に中国としてのプライドに傷がつく話だ。王さんは状況の再確認と今後の僕らの中国での番組出演などを検討させてみると話してくれた。こうして、好意的に会話をしてくれる中国人。いつものことなら何事もなく話すことだが、事前に「反日中国」をすりこまれた僕らにはとても感激の会話に聞こえてくる。笑いあうことだけが音楽じゃない。もちろん、それが一番大切だし、それを求めて音楽をやっている。だけれど僕らは本当の中国と向き合っていたい。彼らが泣いているときは手を貸そう、彼らが怒っているときは理由を聞きに行こう。そして彼らが笑っているときは一緒に朝まで酒を飲み干そう。どんなときにも一緒にいる。それは隣国である僕らのいやがおうでもの定めなのだ。どうせ共にいるなら仲良くしたい。そのために僕らは彼らの吐息のかかる所までやってきて話をしにきた。それを喜んでくれるのならたやすいことだ。人は会って話さなければ先に進めない。ことさら意見の差があるのならそれに越したことはない。北京に来ていきなりDEEPな会話で盛り上がり、さてさて、そろそろ解散の時間だ。でも店を出て王さんはいった。「明日も会えないか?」「でも王さん、明日から休みで天津に帰るんですよね?」「いや、帰る前にもう一度会いたい。明日のお昼を一緒に食べよう」そう言われて断る理由はない。「ではあした!」思いっきり硬い握手をして王さんと別れる。AM1:00疲れもたまっているのでそれぞれの部屋に戻る。そして、ぼくは今回もこのレポートを書いている。もう3時だ。日本時間だと4時。ちょっと疲れたな。MASAOはおもいっきりいびきをかいて寝ている。明日も早いので僕ももう寝ることにしよう。エアコンの効かないちょっと蒸し暑い夜。北京一日目。やはり僕らは間違っていなかった。笑顔で迎えてくれる人がやはりここにはいた。 2005/05/01 二台の車で 午前中は北京政府側と話す内容をバンドメンバーで再確認。お昼に王さんと再び会う。今朝から番組プロデューサと会話をしており、次回の訪問の時には番組への出演ができるようにと調整してくれたようだ。なんでも日本人をTVに出演させるのは許可が要るということでできれば一ヶ月前くらいに調整していかないと間に合わないことがあるのでお願いしたい。との事だった。王さんと別れ際。昨日とは違う車に乗っていた。両方とも有名な外車で日本でも相当ポピュラーな車だ。「この車も王さんのですか?」と聞くと嬉しそうに、「そうです、気分によって乗り換えているよ」という。王さんは身なりも含めてとても紳士だ。中国語、英語は流暢で、番組制作のために世界各地を取材のために向かっている。こうした富裕層の人たちはこの国にはたくさんいる。日本人の一部の金持ちがこの国には日本の人口と同じ数だけいる。富裕と貧困。それが中国なのだ。 この国でがんばる人たち 午後はリハーサル。今回も全編中国語のトークと半分以上の中国語カバーのアレンジ曲と準備に余念がない。夕方になり国際交流基金の人と会うために北京市北東部に向かう。北京市内は碁盤の目のようになっていて一度道を覚えると簡単に移動できる。とはいえ広大な北京市。タクシーはまるで暴走族のように蛇行運転を繰り返し少しでも空きがあるとなれば車線変更を繰り返す。先に行ったものが勝つ。日本人には到底運転できない交通事情だ。待ち合わせ場所から程近いレストランで食事をする。いつも思うのだが、こういった状況において日本人の代表としてこの国で暮らす人たちはとても大変だと思う。日本にいればあぶなければ行かなければいい。だが、この国で働く日本人は帰りたくても帰れないのだ。ここでも本当の北京事情を聞く。やはりデモが頻繁に行われた4月は雰囲気が違っていたようだ。でも王さん同様「今は落ち着いてきているので大丈夫でしょう」ということを言ってくれた。気休めの部分もあるとおもうがそういうことを聞くとしのんは俄然元気が出る。確かに街でホテルの場所を探していると親切に教えてくれた中国人が別れ際にぼくらに日本語で「さよなら」と笑顔で言ってくれた。日本が嫌いな人も日本の人口の10倍。これはきつい。でも好きな人も日本の人口の10倍。これは楽しみだ。要はそういうことだ。 また、7日に美術関係の展示会があるということでそこのオープニングセレモニーに参加させてもらうことになった。なかなか触れ合う機会もないので是非お願いしますと、言わさせてもらった。いつものパンパンの予定の北京ではないからこそ、今回はいろいろな人との交流を図りたいと思った。 2005/05/02 ワンシンの衝撃 今日は「相約北京」の主催者側と会う。渡航前に急遽安全のために出演が厳しくなった当イベントの現状と今後についての話し合いだ。今日も北京の北部に向かう。僕らの宿泊ホテルが西部なのでこちらに来るにはタクシーで30分ほどかかる。料金は30元程度。ちょうど今のレートが1元12円くらいだったので、360円くらいだ。日本で30分タクシーに乗ったら高いだろうなと思う。公演の担当者ワンシンは会うといきなり今回の公演についてのお詫びをしてきた。まだ20代半ばの女性だが、この国には女性だから、というつまらない前置詞はつかない。実力の社会であり、年も性別も関係ない。ただ、コネと権力で左右される国ではあるが。今回の騒動での文化部での判断は野外の劇場での日本人出演は不特定多数の来場する会場では別な問題がおきかねない。メンバーの安全と他の観客の安全や社会への影響を考え、このイベントへの出演は見合わせて欲しい。とのことだった。最後の最後まで希望を捨てなかった僕らは落ち込む。壁はないように思えたがやはりこの国との間には見えない壁があるのだ。たとえぼくらが中国を好きで、中国人が僕らを歓迎しようと思っていても、お互いの間には国境という壁がある。自然の摂理の中にはありえないこの精神的構造物のおかげで、今回は僕らは泣き、それ以上に主催者側にも大きな衝撃をあたえた。このイベントの主催者側の中心人物のこのワンシンが対応を不満に思い、会社を辞めることにしたという。僕らのためにそこまで、とおもうのはやめよう。システムが古い中国と新しい中国のひずみを起こしている最中なのだ。この新しい中国の鼓動は最近確実に聞こえるようになった。相手を重んじる姿勢、約束を守る考え方、迅速な行動をよしとする習慣。すべては新しい世代により構成される。そして、彼女はいくつかの提案を持ってきた。一つは時期を改めての再招聘。これは政府側からの強い要望らしい。もう一つはクローズされた会場での公演。すでにアポを取り始めてくれているという。場所は豪運酒ロ巴という。「えっ、そこって超有名なライブハウスだよね」思わず聞きなおしてしまった。以前から良く効く中国ロックの聖地でもあるライブハウスだ。なぜ、そんなところをこのタイミングで押さえられるかはわからないがきっと押さえられるのであろう。それもワンマンでの公演ということでまたまた、中国のすごさを感じてしまった。 ワンシンは続けていった。「私は記者になりたいの、次に会うときは記者としてあなたたちを取材させてもらうわ。私はあなたたちの音楽と考え方をずっと支持するわ」この頼もしい言葉に感激してしのんはまた泣いていた。 狭い中国音楽シーンクラブ さあ、ライブの予定は決まった。でも、会場は数千人規模の野外劇場ではなく北京ロックの聖地。きっと演奏内容も変えないといけない。そんな準備をするために一度ホテルに戻りミーティング。夜はMIDI音楽祭の主催者ジャンファンさんと会う予定だ。ジャンファンさんはこのイベントを主催するMIDI音楽学校の校長。中国に現代音楽を広げようと尽力している人の一人だ。市内西部のレストランで待ち合わせて、いろいろな会話をする。一緒にオーストラリア人の講師も連れてきてくれてにぎやかな席となった。話を聞くとおよそ今回僕らが会おうとしている人との面識があるという。これは偶然に思うかもしれないが、この北京の中での音楽の先駆者たちはあまりにも少ない。したがってお互いに助けあうという姿勢が生まれる。ものすごく小さいコミュニティからこの広大な台地のスタート地点の音楽は決定される。10月に行われる野外イベントMIDI音楽祭の出演依頼を頂き分かれる。「10月になったた中国人は反日デモが4月にあったなんて忘れてしまっているから大丈夫」印象的な言葉を残し解散。 王府井大街にて 夜は王府井にでた。連休中ということも有り12時近く出会っても人通りは途絶えない。レストランも満員でなかなか思ったところに入れず結局屋台のような店に行くことになった。オープンエアで一本0.5元(7円)の羊串を食べるといった感じだが、これがうまい!日本には絶対にない味付け。健康な感じはしないがその安さと魅力的な香りに食は進む。隣で飲んでいる中国人と仲良くなりいつもの調子で歌を歌う。音楽はすばらしい。音楽という共通言語だけがこの見えない壁を突き破れるのだと酔いに任せてまた北京の友を増やした。 2005/05/03 降臨北京 この日は北京人民放送のプロデューサ、シャンヤンと会うことになった。彼は昨年BeyondのWINGと競作にてレコーディングした[Paradise in your soul]の北京レコーディングのプロデューサ。そんなこともあり今回も会おうということになった。シャンヤンとも今の日中関係について語った。それは毎回そうだがぼくらはお互いの一番根本の問題を最初から話す。笑顔で話してお互いの嫌な部分を見逃すのは僕らには合わない。お互いが本当の友人であれば心を割って話そう。そうおもう。幸い中国人はそういう気質であるから、そんなところで僕らは気が合うのかも知れない。シャンヤンも今回のデモがあまり大きなものではないという認識であったが、他の人同様彼も日本での報道のことを知ってびっくりしていた。「相手を知らないで悪いところだけ放送されたら日本人みんな中国人を嫌いになってしまいますよ」そのとおりだ。だからこそそうじゃないという偵察兵は必要だ。今はそれを僕らがやるしかない。食事後一つのアイデアが浮かんだ。僕らのインターネットラジオをここで収録するのだ。相手はなんと言っても看板番組を持つチーフプロデューサー、本人も芸達者である。提案を持ちかけると即OKの返事をもらった。さっそくレコーディングの準備を行う。結局夕方まで収録作業を行い、記念すべき北京からの放送を実現。強力なスタッフに囲まれてこんなことまでできてしまうことに感謝と感激。中国人のラジオ番組プロデューサの話す流暢な北京語を真似しつつかなり盛り上がって番組の収録を終えることができた。 「相約北京」の会場で その後「相約北京」の会場に向かう。北京の北東にあたるこの朝陽公園の特設ステージ。ここはアメリカでいうセントラルパークだ。日本だとどうだろう、ちょっと同じような表現がみあたらないけれど、日比谷公園を10倍大きくしたものみたいな感じだと思う。当初の案であればここでの開会セレモニーを行う予定であった場所だ。複雑な気持ちは確かにある。でも公演というのは一つの形だけではない、こうして僕らの事をフォロしてくれる中国人たちにかこまれてなんの文句を言えるだろう。彼らも真剣に考えできる限りの行動を示してくれる。その中で僕らができることは悔いのない音楽を伝えることなのである。 相約北京。文字通りまた次のときにこの北京で会えることを考えていけばいいことだ。 2005/05/04 万里の道に 今日は夕方まで完全OFF.この時間を使って万里の長城に向かった。以外にもGYPSYQUEENは万里の長城(八達嶺)には一度も来たことがないのだ。まあ、北京から往復するだけで4時間近く。登って2時間となると一日つぶれてしまう。ここには電車も走っているのだが一日二本しかなく、それも早朝の便のため、乗るのは現実的でない。この電車自体は非常に中国では有名で1905年に中国人がはじめて自分たちで作った鉄道ということで中国人の誇りでもある路線だ。だいたいにして余裕のない僕らは到着―公演―移動というタッチアンドゴー精神で活動しているために行く機会すら忘れていた。今回は、絶対に万里の長城に行こう!という気持ちになったのだ。広大な中国では中国人ですら一度も万里の長城にきたことがない人が大半を占める。この大型連休には中国中から観光客が集まる。外的勢力を防ぐ万里の壁の内側の急峻な壁の中、まるで満員電車のような状況で城壁の道を行く。誰かが転べば絶対大惨事確実の道。こんなんでいいのかとおもう。(あとで聞くとやはり年間数回の死亡事故がおきるとのこと。頷けます。ほんと怖いです)およそ1時間くらい歩いたところでギブアップ。この先はいくらでもある。紀元前221年秦の始皇帝がつなげたこの長城。遠く遠くくもの先の峰峰にも続く万里の道筋だ。ここで、どうしてもとっておきたかったギターのカットを撮影。万里の長城でギターを弾く人も珍しいだろう。というかそんなことをする人は誰もいないね。 老北京 万里の長城ですっかり疲れた僕らはさっぱりしたいものを食べたいということで北京市内のジャージャー麺の店に向かう。「老北京」という店でここの麺がとってもおいしい。店内はいわゆる中国の大衆料理店。さっぱり麺と恐ろしくダイナミックなスペアリブを食する。うーん、おいしい。みんな満足。疲れた気持ちも燕京ビールで上機嫌。しかし、ここで事件発生。マサオが預かったマチャのギターを置いておいたところが残飯の汚水まみれの所でギターのケースがものすごい匂いになってしまった。それを気づかずしょったマチャ。ジーンズがぬれてきて触ってみると。。。なんとも言い様のないものすごい匂いが外にいてもにおってくる始末。すまなそうなマサオ。結局ギターケースは使い物にならなくなり、近くの楽器屋で買い換えることになった。中国の庶民的な店で日本と同じように地面に物を置くといいことはありません。ちゃんと確認しておかないといけないね。と思った瞬間。 その後偽物市場に向かう。最近はこの手の偽物市場がドンドン当局のとりしまりでつぶされている。以前は中国に来たら必ず買っていたものだが最近ではなかなかみることすらできない。それでも、アクセサリーの類を値切りながら買ってしのんは満足げであった。こんな雰囲気もすべてなくなってしまうのはちょっとさびしい気がした。 音楽に国境はない 夕刻。ワンシンに紹介されたライブハウス豪運に向かう。場所はこれも北京の北東部。女人街にあるバーやライブハウスが密集したところにある。会場につきしばらくするとこのライブハウスのチーフがでてきた。まだ若い感じだがとてもしっかりしている。今回のことのいきさつを話すと「音楽が政治によって左右されるのはおかしいことだし、日本人が嫌いな人はいない。もちろん、そう思う人は人口がおおいからいるけれどそんなのはほってけばいいし、この店にはこれないから大丈夫だよ。音楽には国境なんてないからうちで演奏するなら安心してもらっていいよ」と言ってくれた。心が晴れる思いがした。不安なんて一瞬で消えるもの。でも、その不安によって人は生き方まで左右されることもある。思い切って飛び込んでみれば違う世界が見えることがある。はじめて飛び込んだ海の世界のように海底には美しいサンゴ礁が広がることと同じようなものだ。よかった。またひとりの友人ができて僕らは会場を後にした。 2005/05/05 国家一級作曲家呂遠先生 今日はちょっと緊張する人と会う。国家一級作曲家呂遠先生との会食だ。先生は2002年の日中国交回復30周年記念公演にてお世話になった人で、今回の一連の騒動に対してなんどもしのんに心配の電話をくれた人でもある。この人の力は非常に大きく、わかりやすく言うと記念切手や記念はがきを自分のデザインで作ることができる人である。古くは李香蘭とも何度も仕事をした、とか北国の春を中国語に訳してヒットさせた人と言ったほうがピンとくるかな?いずれにしろ国の公式のものを自分のコンサートの主演者の顔写真で発行してしまうなんて、まあ普通日本的に考えればありえない話だが事実できてしまっている人。そのはがきにはなんとしのんの写真も入っているから二度驚きだ。呂遠先生は今回の出来事を長い日中関係においてはよくないことと捕らえていただいており、タイミングを改めて呂遠先生がまた新しい企画を起こしてくれるようなことを言っていた。「私が政府に話しましょうか」といわれたがあまりに大事になるとそれはそれで大変なので丁重にお断りした。話していて思うのだが中国で日中関係を重んじる人は実はかなり多い。中国の発展には日本との連携が不可欠と思う人がいかに多いかということを思い知らされる。 キャンセル3万人? そのあと僕らのホテルの手配をしてくれた徐軍さんとあった。今回はうわさによると反日デモの影響で3万人の人がツアーをキャンセルしたという。3万人!ジャンボジェットで60機近くの人がこの国への訪問を止めているのだ。飛行機もすいている、観光名所に日本人が少ない。入出国が楽。そんな悠長なことを言っている場合ではない。知らない国の報道は誰もが敏感だ。高いお金を出して危険なところに行くのは単なるつまらない冒険心にしか過ぎない。旅に行くには湧き上がる好奇心が必要。それならば歓迎してくれるところに行きたいと思うのが普通の感覚であろう。ほとんど変わっていない中国、一年ごとに豹変する進歩の早さ。今の中国をもっとみて欲しいのに、本当に残念であると思う。 13CLUB 「ライブやるなら紹介するよ、知り合いがライブやるから」何気なしにこんなことをこの中国で言ってくれる(言える)人はこの人くらいだ。ファンキー末吉さん。爆風スランプのドラマーでもあり、今や中国屈指のプロデューサとして活躍しているファンキーさんは僕らの中国での父である。そんなファンキーさんに到着後連絡をいれたところこんな返事が返ってきた。そして、その翌日にライブが決定したのである。この日は北京の北西にある清華大学近くのライブハウス「13CLUB」にてファンキーさん右腕といわれるしげたさんのバンドのコンサートがあった。そこに僕らも混ぜてくれるというものであった。いつもの公演とはまったく異なる公演。中国にいったら中国流にと心がけている僕らでもここまで地元密着型の公演は経験がない。でも、迷わず即答。こんな機会はめったにないからだ。ライブハウスまでおよそ40分。北京の南から北までの縦断をして到着するといわゆる重厚なコンクリートつくりの建屋が目に入る。うーん、いい感じだ。そんなことを考えているとなにやら揉め事が。ギター用の変圧器を忘れてしまったという。荷物を渡した、聞いていないのトラブルが起きていた。旅とは厳しいものだ。自分のことは自分でやらなければいけない。だからこそもののやりとりはきちんとしなければいけない。「そこにおいてあったのに」という小さな確認ミスは時には致命傷になる。お互いの認識の甘さが生んだトラブルだが、思わぬ方向に発展してしまった。変圧器がないと演奏はできない。それを知ったスタッフのベンは主催者側に問い合わせてしまったのだ。日本では良くあることでも中国ではそうでない。相手から「変圧器も持ってきてないで演奏する気なんですか?」と厳しいことを言われてしまった。それも当たり前だと思う。もし、逆の立場だったら、同じことを思うだろう。そして、もうひとつ。ライブハウスにシンバルがないのだ。 日本ではこれもあって当たり前。ただ、このライブハウスにはシンバルはない。消耗品であるゆえかもしれない。結果的にそれも貸して欲しいとお願いしてしまったのだ。まだ、初対面もしていない人にここまで頼むのは申し訳ないとおもい、変圧器はタクシーで取りに行った。往復80分。届いたのは出番直前であった。始めて中国に来たときにとてもたくさんの洗礼を受けたような気がする。でも、それもいつしか慣れてしまったという部分もある。この国は日々変わっている。前回のことは現実的には当てにならない。確認をして行動するということが以下に大事かということを十分に理解させられる一件である。22:00ライブは始まる。地元のバンドとのタイバンは刺激的であった。最近の中国バンドはかなりいろいろなジャンルを受け付けているようだ。パンクチックな曲からサイケデリック、U2、そしてJ-POPまで幅広く歌われている。そんな中で僕らはロック系の曲を中心に行った。どう思われただろう。あるバンドのメンバーがこういった「以前、日本のバンドと一緒にやったけれどよくわからないやつだった。。」きっとよくわからないのではなくて中国語がわからないから話が合わなかったということだろう。そんなことのないようにこういうときこそしのんの中国語が活きてくるのだ。ライブは無事終了。そして打ち上げの場に向かう。到着してすぐにファンキーさんはかなり手厳しく僕らに指導してくれた。大きな成功を手にしたファンキーさんの言葉はとても重いものがあった。音楽とはその環境、システム、そして最後には音楽そのものが問われる。世の中はっきりと指摘してくれる人は少ない。厳しいことを相手に直接言うのは勇気がいる。でも、それをしてもらえる僕らは幸せである。しげたさんのバンドのメンバーとも交流ができた。彼らのバンドはかれ以外は全員中国人。そのなかで活動するパワーには頭が下がる。僕らも早くそうなれるようになりたい。まだ、僕らの語学力ではそこには達しないだろう。深夜2時。タクシーに乗りあいながら今日の一日を振り返る。「がんばらなければ」そう、人は誰でもがんばる。それは自分の思いを形にしたいから。だから本当に手に入れたいものがそこにあるなら人の二倍も三倍も努力をしなければいけない。じゃなきゃ生き残れない。やることは山ほどある。それをやるもやらないも自分次第。こうしてここにきたのも自分たちの選択。その結果今日のように大きなチャンスをくれる人がいたり、到底出会うことのないような中国の新しい友人と出会えた。こうしてすべてが未知のような経験をしても一晩。ホテルで仲間同士で酒を飲んでいても一晩。僕らはいつも前者でいたい。 2005/05/06 スタバの中国人 今日は最近ファンキーさんが作った個人スタジオの片付けの手伝いに行く予定だったが、あまりにも未完成の状況らしく、行ってもできることが少ないということで、とりあえずは明日の公演の準備と昨日出会ったバンドのライブに行くことになった。本当は天津まで観光に!とも思っていたが結局は北京滞在となる。ちょっと寝坊して朝食を食べ損ない街に出て食事をしようとした。最近コンビニチェーンができて行列ができた等というニュースがながれて「そうか、とうとう中国にもコンビニか」なんて思う人もいるかもしれないが、中国にはコンビにはたくさんある。そして、マクドナルドやケンタッキーも町の随所にある。値段こそ日本よりちょっとは安いが、味はまったく一緒。世界企業とは味まで含めポリシーがあることを痛感させられる。そんな中でスターバックスも異彩を放っている。目の前にはまだ工事がきちんとされていないガタガタの道路。その路面際に、まるでここは赤坂かとおもうようなスタバがある。客の中には欧米人も目立つが大半は中国人だ。 目の前の壊れそうな売店でビールが3元(36円)、その隣のレストランでランチが6元(72円)で食べられるところに一杯25元(300円)のコーヒーを飲む人がいる。ショーウインドウ越しに見れば身なりもきれいなニューファミリー層がコーヒーの香りを楽しんでいる。これも中国なのだ。そして、ぼくらは「うーん、ちょっと高いなぁ」と言ってマクドナルドに入る。結構お金のない僕ら。 ABC 「かれらはABCだからね」昨晩ファンキーさんとの会話で出てきた言葉である。ちょうど一緒にやったバンドで妙に気になるバンドがあった。ハードロックとは異なるちょっとロンドンパンクの香りがするバンドがあった。全編英語で歌い、激しいリズムの洪水のなか踊る。今まで見てきた北京のどのバンドとも異なるバンドがあった。楽屋で彼らと会ったときも相手から「日本人?いつからきたの?」と話しかけてくる。そんな彼らがちょっと気になっていた。ABCとはAmerica born Chinese.アメリカ生まれの中国人で、その数は最近かなり増えているらしい。中国語以上に英語圏である彼らの友人はやはり欧米人も多くかれらの演奏の時にはそんな感じの観客が多く見えた気がした。そんな彼らのバンドリーダのジャンと仲良くなった僕らだがさっそくしのんの携帯にショートメールがたくさんきていた。「もうホテルに着いたか?」「もうねたか」「おきたか?」。そんなメールが14通も来る。日本人よりこまかい。いや、かれらはアメリカ人だから女性には優しいのだ。そこで今日の夜ライブがあるということを聞き、彼らの音楽に何かをみつけた僕らはライブに行くことにした。場所は故宮の西門のそばというのでタクシーで向かった。そこは本当のOld chinaでもう、雰囲気満点?いわゆるTVにでてくる中華の匂いがプンプンする場所であった。「ここ全部セットになるよね。」昼間だったら撮影をしたいくらいだが、あいにく街灯もなく夜の撮影は無理。でも、いつか昼間に訪れたい場所である。そんな雰囲気の中灯りを見つけた。ライブハウス「What」だ。ライブハウスといっても民家を改良したようなものでとても狭い。ステージも2畳くらい。そこに集まる人たち。アンダーグラウンドという言葉を良く使うがまさにそれである。アンダーグラウンドの言葉の中に隠された強烈な個性と希望を忘れてはならない。コンサートはそんな雰囲気をもろに反映したものだった。音楽とはこういうものだ。どんなに有名な人でもこの今の彼らのほとばしるパワーは出せない。そんな言葉がぴったりなライブ。あっという間に一時間が過ぎコンサートが終わったとき「ふーっ」とため息が出た。これほどステージに集中して音楽を聴いたのは久しぶりのことだった。ライブ終了後彼らと話す。僕らが来たことをすごく喜んでくれていた。ついでに明日の僕らのライブをみにきてくれ、と話す。さらに、「明日使うシンバルがないので貸してくれないか?」と相談。これも快諾。出会って二日目にしてかなりの貸し借りをすることになった。バンド名は自由楽隊。北京に埋もれる華。このコンクリートの瓦礫の中から鋼鉄の花を咲かせて欲しい。彼らと別れてホテルに戻る頃には1時を回っていた。明日はかなりハードな一日となる。「のみにこないか?」というジャンからのメールに惹かれつつホテルに戻る。気づけばあっという間に明日が最終日である。 2005/05/07 プロ意識 朝一番で食事を済ませ今日までにやらなければいけないことをつぎつぎとこなす。人に物を頼むのは簡単だが、それには責任がついて回る。今日のため、明日のため、やることは山積みだ。一昨日のライブで友人リーアールリーに「北京の特にライブハウスにくるお客には中国語のカバーはやらないほうがいいとおもいます。彼らは日本語のロックがききたいんですよ」といわれる。中国は広い。今までの数々の公演でカバー曲のアレンジで好評を得てきたし、それがGYPSYQUEENのスタイルでもあった。しかし、北京の著名ライブハウスでの演奏は異なるというのだ。数千人対象の野外劇場ではうけてもこうしてこの北京で一杯20元のビールを飲んでロックを聞く層には中国語のカバーは向かないということだった。それはそのとおり。ダイレクトマーケティング的に考えれば当然のことであり、今の北京のリサーチの足りなさが生んだすれ違いであるかも知れない。それを僕らは「反日の雰囲気だから全部中国語で歌おうか」などと予定調和なことを考えていた。それを真っ向から北京に住んでいる北京人に言われた。どちらが正しいかは明白だ。そんなことから急遽セットリストの見直しに入ったのである。昨晩のミーティングでおおよそイメージはできた。しかし、日本で用意したものをすべて切り替えるために100%の準備はできなかった。不安はよぎる。常に完璧なものを。この当たり前なことができないのはこの国では厳しい。相手を見ることが正しいのではなくて相手の本心を知ることが正しく、真のマーケティングというのであろう。その真似事におぼれるのは愚である。策におぼれては成功は見えない。大修正を行った僕ら。時間もあまりなくちょっと気になっていた店に食事に行く。そこはビュッフェスタイルになっていていろいろな店が並んでいるのだ。その中に吉野家があった。北京の吉野家はどうなんだろう?とおもって一度は食べてみたかった。北京の吉野家は牛丼がある。日本にはないから新鮮だ。そのほかにも鳥どんやなんだか中華っぽいメニューもあったが僕らは15元(180円)の牛丼を頼んだ。食べてみるとびっくり。まず米が日本のお米である。そして、汁もなじみある味。その国にあわせてアレンジすることは重要である。でも、自分たちの自信を持った製品であればそれをストレートにぶつけるのも策である。吉野家はこの戦法で成功しているのだろう。回りの中国人たちはこのちょっと他のものと比べると高い日本製の牛丼をおいしそうに食べている。僕らの迷いの答えをこの味が語っていた。一杯の牛丼が物の本質を教えてくれた気がした。 友好事業 午後には今日から行われる美術展のオープニングに向かった。先日、このイベントにアコースティックで参加させてもらう話ができたのだ。場所はこれも北京の北東。今回はほとんど毎日このエリアに来ている。ちょっと入り組んだ会場に入るとそこはまさにオープンエアの美術館であった。日中だけではなくそのエリアにはいろいろな芸術家が集まっている。絵画を中心とした展示会。ニューヨークのソーホーにも似たレンガ街のなかでしのんは2曲ほど歌った。ステージもなければPAもない。観客が多いわけでもない。でも、音楽を通じて何かを表現するということは他の美術品と一緒だ。ストリートライブのようなこの場で歌うことは数千人の前で歌うこととさほど変わりはない。風の強い日差しの中で気持ちよく歌えるしのんをうらやましくも思えた。 豪運にて 会場をでて僕らは今日の公演地に向かう。ワンシンが手配してくれたこの場所。事前の告知もできていないからお客さんがくるかどうかはわからない。でも、リーアールリーに言われたことを形にするためにも今日の公演は重要だ。会場に着くとジャンがシンバルを持ってきてくれていた。朋友は約束を守る。仕事があるそうで、あとでまた来るよ、と言って出かけていった。リハーサルも順調に終わりいよいよ本番だ。本番前に「今日はGYPSYQUEENをツイジェンが見にくるよ」と聞かされる。ツイジェンといったら中国ロックの祖である。そんな大御所が見にくるなんて驚きだがこれもこの豪運だからのことだろう。当初ほぼ全曲中国語でとおもったステージも大半をオリジナル曲に変えて望むライブ。それでも数曲は間に合わずカバー曲となる。22時公演は始まる。やはり北京の観客は厳しい。特にカバー曲には拍手が少ない。それよりもオリジナルのロックに拍手が来る。これを知ることができただけでもよかったかもしれない。でも油断は禁物。次に来るときにはまた完全に変わってしまうのも北京だ。ドッグイヤーのようにめまぐるしく変わるこの国には絶えず目を向けていないといけない。40分のライブを二本こなし今回の旅での公演を終える。会場にきてくれた友人たちと会話する。北京でも友人が増えてきた。何かをつかめた?うん、つかめたよ。フィルターのない自分の目でじっくりと北京を見ることができた。もう、迷うこともないだろう。 みんな一緒だ 深夜12時。北京の町外れの小さなレストランでの打ち上げ。日本語がまったく離せない中国人と一緒にごく普通に盛り上がる。勝手にどんどんビールを頼むやつ、語りに入るやつ。いろいろな人がいてそれらがすべて同じアジア人として仲良く会話をしている。酔っ払えば声も大きくなり場も盛り上がる。北京に来る前に深夜のレストランは怖いかな?と思っていた。でも、そんなことはない。ジャンがしのんに言う。「中国人は怖くないよ、もし、しのんになにかいう中国人がいたら僕がおいはらってやるよ」僕らは中国にいる。そして、僕らの周りには中国人がいる。僕らのコンサートは僕らには何もできない。それでも、僕らの公演を作ってくれる中国人がいる。この大きな国に身を任せて泳いだこのたびの終わりは酒に泳ぐような気分。中国人、日本人なんて関係ない。みんながいり乱れて、いつまでも続く夜であった。 2005/05/08 徹夜の帰国 そんな僕らにもタイムリミットが来た。そう、今日の朝5時にはチェックアウトをして空港に向かわなければいけないのだ。今はもう2時過ぎだ。泣く泣く打ち上げをとめつつ、その横で勝手にビールをたのむジャンを静止してお開きにする。ここであった友人たちはきっとまた来るときにもそしてその次にもずっと付き合っていくことができる人たちであると思う。中国で一緒に食事をすると言うことはそういうことなのだ。大切な友人が何人もできた。別れは惜しまなくていい。また会えるからね。タクシーに分乗しホテルに向かう。「意外にあっという間だったねぇ」しのんは言う。そう、本当にあっという間。特に後半はめちゃくちゃ忙しかった。いつも誰かと一緒にいた。がらがらの道路を飛ばすタクシー。少しあいた窓からの冷たい風が気持ちいい。爆走タクシーは20分ほどで僕らをホテルに運んでくれた。もう空は白みかけていた。部屋に戻り最後にみんなで反省会。このツアーは過酷なものであった。しかし誰一人として文句もなく、テンションも高く過ごす事ができた。これは人間的によほど強くないとできないことだと僕は良くわかっている。感謝すべきは中国にだけではない。この屈強の精神を持ったツアーメンバーにこそ最大の感謝である。 僕らの空 空港に到着。朝焼けの太陽がまぶしい。こんなに眠いのになぜかハイテンションのメンバー。どんないいことがみんなにあったのだろうか?不思議だ。僕らを送るために昨晩からホテル前に待機してくれたなんだかめっちゃくちゃいい感じの運転手(ねぎられるのに)に見送られて空港に入る。帰国便は8:15発のANAの956便。チェックインも無事に終わり完全徹夜明けの僕らはゲートにすすむ。帰国後の作業を確認しつつまったりとした時間は過ぎようやく機内に乗り込む。日本までは2時間50分だという。3時間を切るこの近い場所に異国はあった。考え方も感情もすべて違う国。そこで勝負をしようとする人は何かを捨ててでもしがみつく気持ちがなければできないこともある。名だたる成功者はこの壁を越えてきた。万里の長城を中国ではGreat wallという。いい表現だ。偉大な壁ね。文化を守るために侵略者を防いだ壁に値する名称だ。しかし、地上を歩けば万里の道でも空をかけていけば一瞬の内にすべてをみることができるだろう。今の時代、この偉大な壁の中に住む人たちともう少しとことん付き合ってみようと思う。第二章一幕。偶然のタイミングかも知れないが、今までの旅に一度終止符を打ち、新しき何かが始まった。行く先はまだ見えない。でも、歩くことをやめないGYPSYQUEEN。その先に何があるかは誰も知らない。 再見 GYPSY QUEEN ROAD TO ASIA 2005 Great wall 2005/04/30-05/08 |