2004/09/25 7:30起床、9:00朝食。今日はさすがにホテルの朝食のきつさから逃げ出し近くのマクドナルドへ。情けない。どんなものでも食べられないじゃやっていけない。9元のモーニングを食べちょっと落ち着く。10:30出発。天気はかなりよい、まるで夏のような日だ。思ったよりも道路はすいており、11:30には会場に到着する。手際よくセッティングを終え昼食。学校給食のようなランチは人それぞれ好き嫌いがあるが、今日の食事は結構いい感じだった。 14:00いよいよ講義の時間になる。僕らの中国語は伝わるだろうか?講義を真剣に聞いてくれるだろうか?完全に緊張しまくっているshinon。その理由は内容にある。今回、「なぜ僕らが中国にむかうのか?」という説明を入れることにした。 その中に日本と中国の歴史問題を入れたのだ。中国と日本には悲惨な歴史がある。中国で活動しているとそれはあからさまにわかる。重慶にいたときに朝TVをつけると重慶爆撃の映像が流されていた。それを朝見たホテルのフロントの人は果たしてチェックアウトをする僕らを見て気持ちよくあいさつできるだろうか?とても難しい問題である。それでもどうしようとも人は過去に戻ることができない。今をどう生きていくか、ということしかできない。だからこそ、変えられない過去だからこそ、新しい時代に生きる僕らの中で新しい機軸を作ることが大切なんだと思う。 中国との悲しい歴史を僕らは知っている。そして、それについて今何もすることができない。できることはこれから今の時代を生きていく僕らがお互いを知り合うこと。そして、明日を作るために手を貸し合って生きていこうとすること。それをきちんと伝えたかった。もし、それをいって暴虐的になる人がいたらそれもいいだろう。僕らに歴史の責任を突きつけてくる人がいてもいいだろう。悲しいがそれでは僕らは公演はできない。僕らは中国語で中国と日本の歴史に対する僕らの見解を述べた。自分たちの言葉で伝えた。 それで理解されなければ理解はない。日本にかえればいい。そうおもったのだ。しかし、絶対に理解してくれると思った。同じ人間として僕らが本心から伝えたい気持ちを分かり合える隣国の友人たちであるというこの気持ちを受け止めてくれると。 そうしているうちに学生たちがどんどん教室に入ってくる。 緊張の瞬間だ。彼らの多くはきっとこの国のアーチストとなりこの国の音楽シーンを引っ張っていくだろう。そういうエリートを養成する音楽学校。愛国心も高い。実際に講義が始まる。快調に進行するshinon。ぼくらがなぜ中国に来るかということを告げる。僕らは中国を市場としてみていない。同じアジアの隣人として東京を離れて日本の地方都市で公演をするかのように中国に来る。そして、僕ら両国が持つ歴史に対して次のハンドルを握っていきたいと思う。もちろん、分かり合える世界を作るために。僕らがなぜ中国に来るかという理由を述べた。日本と中国は同じ漢字の文化を持つ民。そして、僕らの音楽を待ってくれている人がいるからという理由。そして、僕らの日本と中国の歴史についての認識について語った。歴史について話が始まる。Shinonが話すだけでもよかったが、あえて話すことをプリントアウトして学生全員に配った。デリケートな問題だから発音の差によって言葉の真意が伝わらないことを避けたかったのだ。 Shinonが話し始めると明らかに会場の雰囲気が変わった。針のようなとんがった空気が身を切り裂くように教室を埋め尽くす。「私たちは私たちのおじいさんやおばあさんが生きていた時代の出来事を知っている。それはとってもこの両国にとって悲しい歴史である。今僕らは時代をさかのぼることはできない。だからこそ今を生きる僕らが過去の歴史を理解した上で新しい関係を気づいていくことができればとおもう。そのためにはお互いが理解をしないといけない。だから僕たちは中国に来る。ここにいるたくさんの友人と会うために」Shinonが話し終わると全員から大きな拍手が出た。学生の目はさっきとは違っていた。予想以上の反響。国を愛する人たちの当然といえば当然の反応。ただしそれはいい方向への反応である。戦うよりも結び合うほうがいいに決まっている。 たかが音楽である。でも、その「音楽をやる僕らの気持ち」は完全にこの教室の中のすべての中国人に理解を得たのではないかと思う。Shinonは感きわまって言葉が出ない。学生の目にもうっすら何だが浮かぶ。よかった。こんな感動的なシーンを間際で見れるなんて。目の前でShinonに共感してくれているのはほかでもない中国の若者たちだ。つられて涙がでそうになる。そうならないよう僕はほかの事を考える。そうでもしないと恥ずかしすぎるシーンになってしまうからね。 そして、講義は本題のアレンジ講座に入った。日本ではどのように楽曲をアレンジして行くのか?原曲を活かして象徴的に曲を変えていくということはどういうことか、をバンド全員で実演しながら伝える。僕のかたことの中国語と英語を助けるように今回のディレクターBENに助手に入ってもらう。メンバー全員で実演するWORKSHOPはとても好評だった。終始和やかに進み、実りあるWORKSHOPは無事終了した。 よかった!本当によかった。こんな有意義な経験はなかなかできやしない。人にモノを教えるということは心を通わせること。相手を好きにならないと教育なんてできやしない。ぼくらはこの教室にいるみんなを好きになれた。そして、たぶん彼らも僕らのことを好きになってくれたに違いない。教育は文化なのだ。 WORKSHOPも終わり僕らは公演会場に向かう。予定時間をオーバーしているためにすでに学生は集まっている。衣装を持って入り口から入るのは不思議な気分、ステージ脇の楽屋は一畳ほど。着替えるのも窮屈である。学生たちが集まってくる、今回の公演については、中国で何かをやるためにすべてをゆだねてみようという試みであった。これから中国で動くには中国の力が必要だ。だから、今回はすべてをゆだねてみた。その結果、集客という意味では少し物足りない気がした。満員の会場を想定していた僕らの心にはちょっとだけ残念な気持ちが残る。まあ、あまり気にすることではない。来ない人を気にするより、今目の前にいる彼らと会話していこう! 準備も整いライブは始まる!一曲目から飛ばしていこう!!とここまではよかったがいきなり一曲目から電源ダウン。3年前の北京が思い出される。でも、今は別にあわてることもない。テンパってしまうメンバーもいない。気を取り直してもう一度スタート。それでもまたもや電源は落ちてしまうのであった。落ちてしまうのは仕方がない、きっと復旧には時間が必要だろうと思ったので急遽プログラム変更をしてアコースティックの曲を前に出した。ボーカルマイクは生きていないので生声とアコースティックギターのみだ。観客は静かに聞き耳を立ててshinonの歌う「「シャンニー」を聞く。GYPSY QUEENオリジナルの中国語曲だ。途中で電源も復帰し、公演も通常進行に戻る。それでも2度3度、結局最終的には10回ほど電源が落ちた。 落ちるたびに学生は手拍子で僕らの気持ちを萎えさせないようにしてくれた。そして、電源が落ちても僕らは演奏を続けた。回復すればばっちりタイミングがあう。そこで歓声もひときわ大きくなる。こんな経験は何年ぶりだろうか?まるで学生時代にもどったようなライブ。それも面白いもんだ。公演は終盤に近づく。スタッフもなれてきて今では電源が落ちても20秒くらいで復旧できるようになった。こんなことになれてもしかたないが、おちてしまうものに文句を言っても仕方ない。そう思うと気持ちも落ち込まない。すべての曲が終わった後アンコールの嵐が僕らを包む。うれしかった。こんなにぼろぼろのコンサートでもきちんとみてくれていた学生たち。アンコールにこたえる。 最後の曲は彼らとの出会いに感謝!「朋友」を選んだ。イントロからShinonが国旗をもち、会場に飛び出す。歓声はピークに達する。中国人の前で中国の歌を中国国旗を持って演奏している。過激といわれるロックを目指す学生の中、誰もいやな表情はない。みんな最高の笑顔と拍手をくれている。僕らは完全に彼らの中にいる。彼らの中のひとつの要素として僕らが存在する。これをやりたかった。今回の僕らのひとつの目的は達成された。公演も終わり会場を後にする。「また、ぜひきてくれ」そういわれることはいつでもうれしい。それが北京を代表する音楽学校から言われることはなんとなく誇らしい。 バスの中 「それにしても電源落ちてもメンバー誰一人文句いってこなかったね。」 「いってもしかたないじゃないですか」 「ま、そうだけどね」 すばらしいメンバーのおかげで公演は実施することができた。ただ、ただ感謝。 18:10ホテル着。今日は北京のデザイナーに会う。前回BeyondのWingとの北京レコーディングの時にきてくれた北京の友人だ。待ち合わせ場所は西単だった。懐かしい僕らの中国でのスタート地点。今までも数度ここを通ることがあったが、降りたことはなかった。3年ちょっとぶりに同じステージに立つ。 「ここにドラムセットおいていたんですよ」Masaoが感慨深げにいう。Shinonは黙りこくっている。ぼくも黙っていた。目をつぶればあのときの風景がよみがえる。小さい声で「ニーメンハオ」とつぶやく。北京での僕の第一声だ。2001年5月1日が思い出されてゆく。きっと、今こうして充実感の中北京にいるからこういう気持ちでここに入れるのであろうと思う。過去を心から懐かしく思えるのには3年かかった。そして、またここからスタートできればいいとおもう。 西単のタイムズスクエアはにぎやかな場所だ。若者が夜遅くまで行きかい、喧騒が続く。海賊版CDを当たり前のように買い帰路へ。地下鉄は3元。なぜか酔っ払いはいない。「中国はきっときびしいんだよ」そういいながらホテル近くの駅まで行く。駅のホームで吐いている酔っ払いを発見。「なんだ北京でも酔っ払いは一緒だね」みんなMasaoの方をなぜかみる。ホテルにもどり明日のライブに向けてミーティングを行う。今日のVTR映像もチェック。音響がわるく今日のライブは100点とはいえなかった。それを明日に活かすためにも今日も復習に余念がない。明日はもっといいステージにしよう。みんながそう思っている。2:30解散。さあ、明日が最終日だ。 2004/09/26 8:00起床。9:00ミーティング。今日のライブに向けて意識あわせを行う。今日の会場は「無名高地バー」北京のロック界では非常に有名なライブバーである。北京では(というよりも中国では)ライブを見せるだけのライブハウスはかなり少ない。このようにライブを楽しみながら飲む店が多く、いつも僕らが北京に来たときに必ずよる三里屯もその手の店が軒を連ねる。今回は、僕らも三里屯のバーでの演奏を行おうと思ったのだがやめておいてMIDI音楽学校からの紹介の会場にすることにした。きっとそうして新しいルートを開拓するがいいのであろうと思ってだ。事前に集めた情報を加味してSetlistを組む。最後まで決まらなかったアコースティックの曲については「ステージで決めよう。曲の前に判断しよう」ということになった。場の雰囲気をつかんでいないところでやる場合は臨機応変な対応が必要になる。 午後は久しぶりのOFF。体力温存と行きたい所だがまだ見たことのない天壇を見に行きたくて町に出る。そうだ、実は僕らはまともに北京観光をしたことがない。18:00。ホテルを出発して18:40。無名高地酒バーへ到着する。軍隊の機材やヘルメットが装飾として使われているなんとなく過激な店だ。ここに北京ロックの雄が集まるという。なんとなく見慣れた感じだが、それはアメリカの戦争映画の影響かもしれない。確実に違うのは五紅星旗が掲げられているということだろうか。 僕らの前座バンドとして一組ライブがあると聴かされた。なんとそのバンド名がSILKROADというバンドだった。本当に奇遇。「今僕はSILKROADをテーマにした曲を書いているんだよ」そういうと一気に仲良くなれた。 だんだんお客さんが入ってくる。大連で始めて僕らのコンサートを見に来てくれた人も、その友人で日本で知り合った僕らの朋友もきてくれた。 5月に僕らをアテンドしてくれた老李や三里屯のライブハウス「POWERHOUSE」で競演した童童もきてくれた。もちろん、Wingのレコーディングの時のプロデューサも。こうして異国の地が少しづつ居心地のよい地に変わってきていることがわかる。いつかこのライブハウスを僕らの友人だけで埋める事もきっと可能に違いない。 21:30.SILKROADの演奏が始まる。名前のとおり中近東の香りのするメロディの曲が多い。なにやら笛のような楽器もいい感じだ。こうしてほかのバンドを見るのはとても勉強になる瞬間である。 22:30いよいよ僕らの出番だ。この北京ロックの原点で僕らは受けるだろうか? ステージ上で何度か曲順をいじるのももはやGYPSY QUEENでは当たり前のことになってきた。そんな、妙な緊張感の中、ステージが進む。 会場もいい雰囲気になってきた。なにやら異常に盛り上がっている人もいる。中国語のロックアレンジの曲はひときわ人気がある。でも、僕らは僕らのオリジナルの 中国語の曲を評価してもらわなければいけない。それには更なる努力が必要だ。それにしても、まったく知らないところでコンサートを行うことは非常に難しい。 その場の雰囲気をどう読み取るかの嗅覚が大事だ。客層に合わせるということと、迎合しすぎて自分たちをアピールできなくなってしまうということは紙一重でもある。 その緊迫感に包まれ僕らは一喜一憂を繰り返す。1時間のライブもあっという間に終わりホテルへ戻る。時計の針はすでに27日になっている。 最後の打ち上げの夜は更ける。 |