ZIYO
- Post by: AKI
- On: 5月 10/08
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ZIYOのHELENが来日していた。彼女とは直接会うのは三回目。メールではいろいろやりとりしていたが、2年ぶりの再会だ。
今回、ラジオの仕事として来日することになりあうことになった。
もともとどんな人かというと最初に会った2004年。ぼくらはぶったまげた(この表現がぴったり)。
反日デモの真っ只中の04年ゴールデンウイーク。そんな中ファンキーさんに紹介された北京のライブハウス
13CLUBでのステージをやったときのバンドのひとつがziyoである。ベースのジャンジエがものすごい北京なまりで
日本人バンドなの?と聞いてきたことが記憶に残る。そのときはさして意識しなかったが、ステージをみるにつけ
なんだかものすごいなとおもった感じがある。めっちゃハードコアなボーカル。きれちゃってるよね。みたいな。
そして、そんな出会いから、関係が深くなるきっかけが。
翌日もステージを予定していたが、なんとドラムのシンバルがない。ということに。
場所は濠運という北京でも有名な会場。そんな会場にシンバルが何でないのときくと
消耗品だからみな持ちこみなんだ、という。といわれても。。。。
とおもったときに、「僕のを貸すよ」といってくれたのが彼だった。
たいそう感謝した記憶がある。同じ民族よりも一度の交流のほうが心が通うこともある。
そんなことをたくさん経験している僕らだが、このときもそれを感じた。
?その翌日、天安門の南門の端にあるもう、明日にでも壊れそうな家(ライブハウス)でのパフォーマンスをみる。
vipシートに通された僕らだがそこには炊飯器が置かれていてそれを倒したメンバーはあわてて
米を集めて炊飯器に戻すなど、しどろもどろのときであった。
ステージが始まり、その爆発とも言うべきサウンドを耳にした。
それは僕が始めてこの世界(ハードコア)の音楽をいいな!とおもったときであった。
gypsyqueenの音楽とは到底接点もない音楽だが確かに鼓動を感じる音だった。
それ以来、いろいろやり取りをして僕もなんとか彼らのステージを日本で、と思っていた。
それがなかなか実現せず、僕らもアセアンでの活動がおおくなった。
そんな2005年大晦日に再び彼らと会う。雪が降りそうな凍てつく北京。
深夜にきたないのみやで(会計のとき僕が全員分をおごったけれど日本円で500円でした)かわす
彼らとの交流の言葉は決してうつくしくなく、感動的でもなく、音楽をともにやる仲間同士の会話になった。
?かれらの毒々しさは抜け、笑顔が出るようになった。ちょうどワーナーと契約してアルバムを作るんだといっていたころ。
洗練されてくるとはこういうことなんだなとおもった。ちょっと残念ではあったが(僕の中のHELENはビール瓶片手にステージで
あばれるすがたなのである)
交わす会話は夢の行き先ばかりだ。
「必ず一緒にやろう!」そうした約束を守らないわけにはいけない。それから少し時間がかかった。
そして、今回日本で会うことになる。
すっかり毒気下抜けたメジャーシンガーとなった彼女といろいろな話ができた。
新しいアルバムのことや中国の音楽。そして未来について。
約束のステージは近いだろう。4年間で急成長を遂げたziyo。
ともに成長する仲間がいるということで僕も力が入る。
音楽は影響を受け、与え合うものだ。
久しぶりに影響を与えられた。そんな時間だった。